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■ 上弦の月 ■

 夕刻。上弦の月(右半分の半月)が見える。ちょうど「川口」の外から南塀に向かって

立った時の背後である南の空に。

 四条は月齢カレンダーを頭の中で広げる。

小屋の火事の時に「二日月」だったことを考えると、あれから五日経ったということだ。

まあ、それはそうに違いない。四条はあの日から、五回就寝し、五回起床したのだから。

しかし、「地」を出歩く時は、何かと一度「川口」の門の外に立たされ、そこから「地」

の中へ案内されることが続いている。

「地」の中をウロウロされて男女禁会の掟を破らないようにという配慮だろうか。その意味では、四条は掟破りの前科者なので感謝するしかない。

 「川口」の扉を抜けたいま、眼前に広がっているのは、だんだんと左奥へ傾いていく居

合川とその土手である。対岸「彼岸」では窯から煙が上がっている。

 そして、「彼岸」にも「此岸」にも土手にはズラーッと訳の分からない紋様が書かれた

幟が立っている(さながら、大河ドラマで合戦のシーンを撮影するかのよう)。そして、

多くの「娘さん」と普段は「地」で大きな顔の出来ない出稼ぎの者たちを含む「息子さん」

たちが、普段どおりの作務衣姿で、跪き、首に手を当てて祈っている。「娘さん」「息子

さん」たちが首に手を当てているのは、彼らの中に流れる「お父さま」の血を頸動脈で感

じるためなのだそうだ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 そして、太鼓の野太い音。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドドドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンドドドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドド、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドンッ、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドド、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ドンッ、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドドドン、ドンッ。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドンッ、ド、ド、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン、ド、ドドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン、ドン、ドド。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ドン、ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン、ド、ド、ド、ド、ド、ン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

 ドン。

「おっとぉさまぁあぁあぁぁぁ」

「地」にいる人間たちの声がこれだけ重なって「お父さま」と叫ぶ様子は、少なくとも

四十年続いているコミュニティの結束は伊達ではないな、と四条は痛感させられた。

 でも、まるで、これでは、地の底にいる怪物を目覚めさせようとしているかのような趣

きがあるような気が四条にはした。怪物というのは不適格か。何か禍々しいものとでもい

おうか…… 。

 小石川正義は、四条が乱暴な手段に頼らないよう配置させている十数名の自警団員(相

変わらず、東南アジアの警察のような制服をそろいもそろって着用している)の目を気に

しながら、四条に言った。

「リュウノスケくん。二十年間もの深い眠りに陥っている人間を目覚めさせるためには、

これくらいの力強さが必要なんだよ。それが、何か魔物を呼んでいるように受け取られた

としてもね」

 小石川正義は四条の顔を見ただけでそんなことまで分かるのだ。もうお手上げだよ、丸

腰でいこう、と四条は開き直った。それとも何か?自分の額には思ったことが文章で表示

されるのかとすら四条には思えた。

 小石川は川の向こうを指さす。

「彼岸にある登り窯。あれの内部を千度にするためには、一日かかる。自警団の連中は知

っていることだから問題あるまい。五家一本は生命機能が停止して腐敗しても、千度の高

温で燃やされると肉体が再生し、生命機能を取り戻すのだ。君も小屋の火事のときに分か

ったろう?」

 四条はもう驚かない。生き返る特異体質についても、小石川に行動が筒抜けであったこ

とにも。

 そんなバカな話が…… 、とは四条には一概に思えなかった。もちろん、小屋でのことが

あったからである。あの時四条の唇が触れた五家一本の体は噓偽りのものではなかった。

でも、五家一本が燃え盛る小屋に取り残されたという確証はない。しかし、小屋から抜

け出していたとするならば、全裸になってまた小屋に戻ってくるという意図も結果も理解

が出来ることではない。まだ生き返ったのだ、という方が不自然さは取り除けるのだ。そ

れに、四条は小屋が鎮火する瞬間小屋の目の前にいた。そこをこっそり戻るだなんて、とても信じられない。

 四条はこう思った。リンゴを木から切り取って手からこぼれたら地面に落下するという

ことは、誰でも知っている。だから、ほとんどの人はリンゴを落とさないように注意する。

だから、木から切り離されても落下しないで浮遊するリンゴの存在については、あまり追

求しようとしない。手からこぼさないようにすれば済む話だから。

 五家一本は木から切り離されても落下しないリンゴなのかもしれない…… 。

「一九五九年。一本が事故で死んでも彼の遺体の引き取り手がなかった。彼は小石川家に

自由に出入りするくらい私の家族と打ち解けていたから、我が小石川家が葬儀をやった。

だから、火葬場で丸裸の一本が出てきたとき…… 。それは千載一遇のチャンスだと悟った。

 私にとって。火葬場の係員や両親を黙らせることには苦心したけれども、今と違ってメデ

ィアなんてものはザルだから…… 、いや、今もメディアはザルか。まあ、何とか遣り込め

ることが出来た。両親は当時の受験勉強合宿村『合格族』に私財を投じていた。それを私

が受け継いで、理想のコミュニティを築き上げることに、一本の特異体質は使える、と思

った」

 生きた(そして死んでも生き返る)御神体そのものである五家一本を道具にして、小石

川正義は御家属を成立させたのだ。

「これはつまらない話だと思って聞いてほしい。合格族時代のここは、なにせ、浪人合格

者が現役合格者の三倍いた時分だったからね。ここで、伸び伸びと受験勉強をした者たち

も多かった。けれども、当然、思うようにいかずに思い悩む、今でいえば精神を病んでし

まうような者も多かった。特に女性が」

 その女性たちを相手に第一回目の「踊り」が行われたというのか?

「もちろん、彼女たちを優しく、今風に言えばケアしたうえでということだ。なにより、

人間が動物的機能を活用しているとき、それは生きているという実感を強くさせることだ

と私は信じている」

「お母さま」として外部から招いてくる女性たちも、合格族時代の末裔で、精神を病ん

だ者のやすらぎの場としてこの場所に寄せ集めるだって? 

―― 自分を大切に出来ない女性がいたとして、そのお腹に新しい命が注がれたら、大切に

出来るものなのか?

 小石川に言わせれば、赤ちゃんは大切だということを体が分からせてくれるらしい。そ

して、大切な赤ちゃんを無事出産するためには自分を大切にしなくてはならないから、気

も良くなる…… 。 

―― そんなものなのだろうか?

出産したあとは、引きはがされて自分の手では育てられない…… 。むろん、五九年の

「お母さま」はそのことは知らなかったか…… 。

 ―― 確実に言えることは、小石川正義も、四条竜之助も、五家一本も男性であり、女性の

ことを本質的に分かることはないだろう、ということだ。分かろうとする努力は出来るの

かもしれない。だが、「じゃあ、お腹を痛めた経験は?」と言われてしまえばそれまでだ

……。

「でも、出産が女性の体に負担をかけるというのは誰もが認める科学的事実でしょう?そ

れを精神の弱った女性にって…… 」

「それは、科学の話だ。私は、信仰の話をしている。いいかい。御家属においては女性は

出産によって強くなる。『お父さま』のお力に間違いはない。その考えは誰にも侵させな

い。世の中では、患者の命を助けた医者が、信仰を理由に『輸血なんかされたくなかった』

と患者に訴えられて裁判で敗訴したケースもある。それくらい信仰は重要だ。オウムのよ

うに公共の福祉を害してもいない。私たちの信仰は『お父さま』と『お母さま』と『息子

さん』、『娘さん』の肉体そのものなんだ」

 四条は、ともかく、小石川正義と、五家一本と自分は少なくとも日本語をしゃべること

は共通しているが、理解し合うことは難しいかもしれないと再度思った。

「リュウノスケくん。人間が一番恐れることは何か?」

「死…… 」

 四条竜之助には正直なところ、これが解であると断言できる資格はない。一番恐れる死

に自ら手を伸ばして近づこうとしたのは他ならない自分なのだ。

 小石川正義は四条の目の前に人差し指を突き立てた。

「現象について説明できないことだ。五家一本の肉体が生命機能を停止したのち腐敗が始

まっても、燃焼すれば肉体は再生され生命機能が再開される。そこに生命科学的な説明な

んて誰もできやしない。どんな科学者だって、どんな物質が、とか、原子がどうとか、化

学反応が、なんてことは分かりっこない。もっとも、科学ということは分からないことを

知ることだ、いつか分かるということを信じて。けれども、どんなに研究しても彼の特異

体質なんて科学的に解明されるはずもないし、されるべきでもないと思う。もし、火葬場

で彼が生き返ったとき、私ではなく科学者がその場にいたとしたら、彼の体をいじくりま

わして、バラバラに解剖して、人類文明の発展というお題目のために、彼の肉体を消費す

るだろう。私がやっていることは、それに比べればいくらか温情的だ」

 四条は、小石川の瞳がどこか遠くを見ていることを感じた。寂しさを感じている…… 。

 その物憂げな瞳を見ていて、四条の唇が突き動かされる。

「でも、永遠に、ではない。交代させられるものなら、代えてあげたい、と?それで、

『二度目の死』なんですね。御家属の『息子さん』をいったん土葬してから白骨化する前

に燃やす」

「実際的には、白骨化してから燃やしてもダメなんていう法則には行きついていないがね。

五家一本の体は未だかつて骨だけになったことはない。だが、まあ、なんとなく、という

しかないが、骨ではダメな気がしないかい?もちろん科学的分析に基づく話ではない。気

持ちの問題だ」

 腐敗の最中なら再生が可能で、白骨化したら再生は不可能…… 。それは科学の話ではな

いだろう。だが…… 。これは科学の話ではない。人間存在の生命の、まだ未開の神秘につ

いての話なのだ。

 よしんば、五家一本の特異体質の神秘が解明されたならば、人類が病気に苦しむことの

ない、未来がやってくるのかもしれない。もっとも、五家一本の特異体質は、生命機能停

止後に腐敗進行の状態で、燃焼させると生命機能停止前の状態に戻るということであって、決して、生命機能維持状態の最中に老いない、であるとか、病気にならないというわけで

はなさそうだ。

 つまり、初めて特異体質が発覚した際は、病気ではなく事故(あるいは自殺)で生命機

能が停止したのだろう。二度目三度目は、他殺?だから、もしかしたら、五家一本の特異

体質は、単純に、病気(もしくは老衰)で死亡するまでは何度でも生き返るということな

のかもしれない。だとしたら、特異体質は病気の治療や不老不死に役立つものではない。

もっとも、五家一本が病死するという選択は未だ試されたことがないであろう。まあ、

例えば他殺の方法が毒殺だったとして、毒を含んだ状態(後は体中に毒が回れば死ぬ)に

戻ったところで死んでしまうわけだから、そこには未解明の法則があるのかしらん。例え

ば、生命機能停止前に数時間固定された状態に戻る、とか?

 とはいえ、生物学(だけではなく、学問全般)に疎い四条には仮説を立てるだけで頭が

クラクラして眩暈のする難しい問題ではある。

まあ、神様のやることなんてたかだか人間ごときが想像のつく代物ではない。

「だが、『息子さん』『娘さん』たちの中から、あなたが言うところの特異体質者は現れ

ず?」

「うん。血を濃くするという方向性は間違っていたのか、と自問自答するよ。皮肉なこと

に血が薄い方がいいとは…… 」

「はい?」

 小石川正義は四条の引っ掛かりを解消してはくれない。

「近親相姦は遺伝上の留意事項がある。私はそれについても検討してきたつもりだ。実際

に二十歳になるまでに死んでしまう者も少なからずいた」

 恐ろしい予感が四条の頭によぎる。全身の鳥肌が立つ。

 ―― おおよそ、四条が最初に「地」にやって来てから、小石川正義は四条竜之助を殺そう

と思えばいつだって殺せたはずだ、と四条は自戒する。「集会所の庭」でも、「天」の間、

でも、「舞踏館」に隣接する自警団員詰所でも、「川口」の門でだって。至る所で、小石

川は四条を殺すチャンスがあったはずだ。なのに、何故、四条は生かされているのだろう、

ということを四条は考えるべきであるという考えに至った。

 そして、四条が言いたいのはこういうことだった。

「まさか、特異体質かどうかを確認するために、殺してみた『息子さん』や『娘さん』が

いた、なんてことは?」

「それについては黙秘するとしよう。もし仮にそういう行為があったとして、生き返った

にしろ生き返らなかったにしろ、殺人というれっきとした罪になるのだろうね?」

 四条は、集会所で五家一本の口を押さえた自分の手に込めた握力を思い出すように、自

分の掌を広げて眺めた。あの時、たしかに、四条竜之助の手は、五家一本を窒息死させた

はずだ。でなければ、あの手触りの説明がつかない…… 。

「生き返ったら殺人ではない、生き返らなかったら殺人。ということではない、と思いま

す。どちらにせよ、それが一時的なものかどうかに関わらず、人間の生命機能を停止させ

ることは罪である、と」

 小石川は人差し指を立てた。

「こんな場合はどうだろう。例えば、殺人衝動を持つ少年の日記が、何かの弾みで警察の目に入った。その少年の前に生きている五家一本と鋭利な刃物が現れた。少年は誰にも見

られていないと思い五家一本の胸を一突き。生命機能を停止させた。だが、警察がやって

来て現行犯逮捕。少年が殺したのは人間?いや、そもそも彼は殺すという行為を行ったこ

とになる?死ぬというのは人間にとって当然の帰結だ。でも、死んで生き返ることは、生

き返る前の死は死といえるのか?」

 四条は両手で頭を抱えた。小石川正義の口から垂れ流されるのは所詮詭弁だということ

は重々分かっているつもりだった。だが、訳の分からない話でも、どうしても理解をしよ

うと試みてしまう四条がいる。

「もう、やめてください。一本さんの体質のことだけで頭がおかしくなりそうなのに、余

計な問いを次々立てるのは」

 小石川正義は「考えるのは苦痛だろう?」と言わんばかり笑顔を作った。

「一本には何も考えさせないようにしている。覚醒作用のある薬物を吸引させて。きわめ

て、人道的だろう?」

 四条は憤った。小石川が口にしているのは小石川の都合だ。

「初めから『お父さま』なんてことをやらない方がよっぽど人道的です。一本さんが、自

然の摂理に則って、老いてゆくようにすることこそが、もっとも人道的なあり方だと思い

ます」

 言ってやったと四条は思った。 

―― どうせ人間は死ぬのだから、では、生まれることさえなければ死なないではないか? ――

  なんて話はない。生まれた命とともに老いていくことこそが人間存在の置かれた本質

であるべきだと四条は考えたのだ。

 小石川は不敵な笑みを浮かべる。そのことについてはもう既に何度も考えを巡らせたと

言わんばかりに。

「だが、私たちは彼をもう知ってしまった。特別な能力が手中にあると知ったとき、それ

を発揮できないことは最たる苦痛だ」

 なんと自己都合な…… 。

「あなたの能力ではない」

「発見者は私だ。電気だって人間が生み出したものじゃない、発見されたものにすぎない。

同様に私は五家一本という特異体質者を発見し、電気のように利用している。どこか問題

が?」

 四条は、彼岸の上空に立ち上っていく煙を見上げた。どこまでも上まで上昇していくも

のだから、これ以上あげる首がないというものだ。映画館の最前列でスクリーンを見上げ

るようになってしまう。

「『三代目』の話です。『お父さま』代替わり説。一九五九年が初代。七九年が二代目。

今年が三代目。もし僕が引き受けていたとしても、その次は?」

 小石川正義は、物分かりの悪い生徒に辟易するように眉を曲げた。

「五家一本の後継になれというのは終わった話だ。私の後継になってほしい、と言ったは

ずだが」

「一応、後学のため」

 四条は苦笑してしまう。「後学のため」なんていう台詞を吐く日が来るとは…… 。

「まるで検察官だな。…… 。…… 」

 小石川も彼岸の煙を見た。彼の沈黙はまるでタバコの煙を吸って吐くまでの時間を彷彿

とさせ、登り窯から上がる煙が、形而上学的な小石川のタバコを具現化させたような気さ

え四条にはした。

「時間稼ぎ」

「え?」

四条の目がテンになった。

 ―― 時間稼ぎ?

「時間稼ぎだよ。二十年は問題を先送りに出来る。そういうことに過ぎない。人間ぽっち

が出来ることの何という可能性の無さか」

「でも、あなたはご自分の寿命を気にしていらっしゃる」

「矛盾だよ。だって、そうだろう?私は人間だ。条件反射だけで生きていたら、それは人

間ではなくロボットだ。私だって、人間なんだ。『お兄さま』でもなんでもなく」

 五家一本を好き放題使っておいて、自分は人間だ、そんな勝手な話がと四条は憤った。

とはいえ、その怒りは見せずに冷静に話しかけた。

「自ら、その立場におさまったのでは?」

「矛盾だ」

「初めて一本さんが生き返ったとき、あなたは彼を利用することを閃いたという」

「まさに、全能感を得たようだったよ」

「そんな閃きは無視し、一本さんと共に老いてゆくという選択肢も取れたはずでは?」

「矛盾だ」

「矛盾、なんていう言葉で全部解決させてしまうおつもりですか?」 

―― 刑事訴追のおそれがあるので証言を拒否します 

―― 矛盾があるので説明を拒否します

 四条は国会でのやりとりを思い浮かべた。

「私がもっとも嫌いな職業は何だか分かるかい?」

 四条は片眉を釣り上げた。本当に話が唐突に変わったから。

「何の話です?」

「小説家だ。ある文学新人賞があるとしよう。そこに吞気な気持ちで応募した若者がいた

としよう。小説家が選考委員だ。若者の作品は小説家にこてんぱんに酷評される。あるい

は、一次選考を通過しないかもしれない。だが、選考委員は一次選考をした下読みの選考

委員の目に狂いはなく、一次選考を通過しなかった作品は落ちるべくして落ちたんだと言

われたら…… 。若者は自殺をする。彼、もしくは、彼女を殺したのは誰だ?」

 四条はこの問いに深い意味があると了解しなかった。思いついたことを率直に言う。

「それは…… 。残念ですが、本人…… 」

 四条竜之助は自身が自殺を企図した経験を思い出した。 

―― コップから溢れ出る水。自殺というものに、これという決定打が果たしてあるものなのだろうか。

「小説家は表現で飯を食っている。誰よりも表現の自由を守ることに貪欲だ。だから、何

を言ってもいいと思っている。自分たちは守られている、と。でも、その酷評さえ、その辛辣な言葉さえなければ、若者は死を選ぶことはなかったとしたら、それは酷評が殺した

ことにはならないのか?」

 小石川は詭弁を弄する。だとしたら、四条も負けてはいられない。

「曲論では?だって、そんなことを言ったら、誰か人間はその親が産みさえしなければ死

ぬことはないことになります。何々さえなければ死ななかったという話をする場合ですよ。

そもそも、本人が賞に応募をしなければ良い話ともいえる。論点のすり替えではないです

かね?あなたは小説家志望だったのですか?」 

―― 御家属の筋書き…… いや、「脚本」か…… 。教義のことをそう呼ぶのは、小石川もし

くは五家一本に創作の趣味があったからに相違ないだろうと四条は考えた。

 小石川は四条の瞳を眺めた。四条は小石川の瞳に映る自分の顔が見えるような気がした。

それは「お父さま」に似ている…… 。

 小石川の瞳はこう言っていた。

 ―― リュウノスケくんにも、この謎は解けないのか。残念だ。

 もちろん、四条が勝手に感じ取ったことである。

「小説が好きなのは私より一本だよ。小説家には小説家なりの表現の仕方があるのだろう。

だけれども、受験勉強にしろ、ダイエットにしろ、小説の執筆にしろ、何事にも実行する

本人に合った方法を長期的に継続することが一番の方法だ」

「今、話題にしているのは、過程ではなく、結果の話では?」

 小石川はフンと鼻を鳴らした。

「訳の分からない話をするのは、私がもうろくしているという何よりの証拠だ。だから、

早く、リュウノスケくんに跡を継いでほしいという圧力をかけているということにしてお

いてもらいたい」 

―― もうろく、もうろく、矛盾、矛盾。

 そんな記号的な言葉の散布で問題を片付けてしまっていいものなのだろうか。でも、そ

れが小石川正義のやり方に他ならないのだと四条は背筋を凍らせた。

「はあ…… 」

 四条からは小石川の真意は測りかねた。顔を見ても、とある小学校の創設者の銅像のよ

うな趣きしか得られなかった。

「一本を窯から出したら、食べ物で精力をつけてもらう。それから『踊り』だ。先に舞踏

館を案内しよう」

 小石川の歩みは川の土手を左手に流しながら、塔の方へと向かい、塔の横を北へと通り

過ぎた。

 四条はこの「地」の様々なことに興味を抱く。いったい、どれについて説明をしてもら

おうか。聞いていったら、とても一生では説明されきらないくらいの言い伝えがあるよう

な気がした。四十年なのだ。四十年間この場所は御家属の根付くコミュニティなのだ。

「小石川さん。舞踏館の『天』の標高とこの塔は、どちらが高いのでしょう?同じくらい

だったら、舞踏館の『天』を『天』と呼ぶのは大袈裟では?物凄く高いから『天』である

べきなのでは?」

 小石川はつまらない質問だというように、答えを吐き捨てる。

「『天』の間の方が標高は高い」

「あの。『地』の方々は『お父さま』代替わり説を支持しているようです。だとすると、

『天』から『お父さま』役の誰かが出てくるという風に思わせた方が良いのでは?窯から

出てきたら、『天』の間で眠っているという設定が崩れます」

「そんなことは分かっている。窯から出てくるところを自警団員以外には見させないよ」

「でも。僕が集会所の庭で一本さんを殺めてしまって、次に会ったときは『天』ででした。

自警団による警備体制が甘々なのでは?」

「御家属は儀礼的なことの細部まで求めない。何故なら『娘さん』『息子さん』には直接

の『お父さま』の血が入っているわけだから。信仰はどこか尊い天上の世界ではなく、汚

らわしい人間の内部に流れている。汚らわしく、禍々しく、忌々しい、我ら人間の体にね」

そう言って小石川は肌をひっかいた。

「でも。おっっとぉさまぁぁあぁ、って」

「あれは、お祭りだ。お祭りの由来の元々の神儀ということではなく、お祭り騒ぎのお祭

りだよ」

 「谷口」の門が見えてきたところで、今度は向かって右に曲がるという。その先が舞踏

館であり、手前には自警団の詰所がある。

「代替わり説で言うならば、『お父さま』に選ばれた者は、窯から出て彼岸から川を渡り

船で渡って、そこから舞踏館に行くという流れになる。というか、実際のところは、『お

父さま』役は存在するんだ。五家一本を窯で焼くのは、お目覚めの儀よりも前なんだよ。

だから、リュウノスケくんも集会所で対面してしまったわけだけどね。だけども、今回は、

お目覚めの儀当日に五家一本本人が彼岸から此岸へ来ることになってしまった。他ならな

い君のせいでね」

「すみません」

 四条は頭を下げた。全然悪びれてはいない様子だった。万引きをとがめられて、何がい

けないの、といったところか。

「リュウノスケくん。訳の分からない問答をして悪かったね。実は私には計画があるんだ。

『お父さま』代替わり説ではなく、『お父さま』不老不死説を公式に認め、内外にアピー

ルしようと思ってね」

 また四条は虚を突かれる。

「え?」

「これから二十一世紀を迎える。二〇〇〇年問題なんてことは起きないと予想している。

とはいえ、この先、画像や映像が誰でも簡単に記録できる時代になると私は思っている。

その時に鮮明な画像で『お父さま』の写真を撮られて、前と変わっているぞ、なんていう

ことは避けたい。だから、『お父さま』不老不死説を前面に押し出していこうかと」

 小石川の顔は何か得意げに名案を語るときの表情だった。

「それでは、ますます僕に三代目を依頼したのと辻褄が合わない」

「だから、時間稼ぎだと言ったろう?」

「だって、今年はとりあえず、一本さんに『踊』ってもらえばいいじゃないですか。代役

の必要がない」

 二人は横並びに歩いていたが、小石川の左手が四条の右肩をガッシリと掴んだ。二人の

視線は交錯する。

「私だって、一本を『種馬』にするのは、心苦しいんだ。その行為は彼にとっては最も汚

らわしいものだから。私にも良心がある。それが痛まないわけがないだろう」

 四条は何も言えなくなってしまった。右肩を掴む小石川の左手に、そっと自分の左手を

添えることくらいしか四条には出来なかった。


【つづく】

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