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第6話

立花日菜子がようやく私だと気づいた。彼女の顔は紅潮し、青ざめ、目つきは刺すようだったが、それでも前に出てくることはできなかった。


私は母の手を取って席に着き、わざと愚痴をこぼした。


「今日なんて来たくなかったのに。光哉がどうしても付き添えってうるさくて、本当に退屈だよ」


「何言ってるの。大事なことでしょう」


母は私の手をポンポンと軽く叩きながら、甘やかすような口調で言った。


私は横目で立花日菜子を一瞥し、そのまま雑談を続けた。


「つまんないよ。そうだ、母さん。藤田さんに家政婦さんを頼むように言っといた。太りたいから。光哉が痩せすぎだって、もっと食べて寝ろってうるさくてさ」


立花日菜子は唇を噛みしめ、必死に堪えている様子だった。


「とっくにそうすべきだったわよ! あんなに広い所、一人でどうやって回るっていうの?」


母は大賛成。


「だって、あの人と二人きりの時間が欲しかったんだもん。今はもう満足したけどね」


私は含みのある言い方をした。

日菜子みたいな一時の相手だ。萌香さんじゃあるまいし、遠慮する必要なんてない。


立花日菜子が突然立ち上がり、慌ただしくその場を離れた。

小林舞も気まずそうに後を追っていく。


パーティーが終わり、私は光哉と帰る気になれず、実家で数日過ごそうと思った。


「ああ、じゃあ先に帰る」


光哉は私がどこにいようと、顔を潰さない限り構わない男だ。


父はまだ誰かと熱心に話し込んでいて、母が車のキーを渡してきた。


「先に駐車場で待ってて。お父さんを引っ張り出してくるから」


地下駐車場に着き、父の車を見つけて乗り込もうとしたその時、光哉と立花日菜子がもみ合っているのが目に入った。


日菜子が光哉の服の裾を掴み、泣き声を帯びて訴えている。


「私にそんなに優しくしてくれたのに、本当に何も感じてないなんて? 信じられない!」


「信じようが信じまいが、これ以上俺を煩わすな」


光哉は彼女の手を払いのけた。


彼はそういう男だ。飽きたら即態度を変える。

マンションを一室くれただけで、日菜子は自分が本命だと思い込んだのか?


光哉の視線がふと私を捉えた。その刹那、苛立ちと嫌悪に満ちた眼差しが、まるで絡んでいたのが私であるかのように、私に鋭く向けられた。


私はすぐさま車に乗り込み、ドアをロックした。


両親を待っていなければ、すぐにでもアクセルを踏んで立ち去るところだった。

私があからさまに避ける様子を見て、光哉は何を血迷ったか、父の車に向かって歩いてきた。


窓をコンコンと叩き、口元を動かして「出てこい!」と。


私は眉をひそめ、首を振って口だけ動かした。


「嫌よ」


携帯が鳴った。光哉からだ。


「出てこい!」


「あなたたちのことには関わりたくないの」窓越しに、彼の燃え上がるような目を見据えて言った。


私は考えをまとめていた。もし光哉が萌香に出会う前に離婚できなければ、彼が切り出すまで耐え、貰うべき株を確実に手に入れれば損はないと。前世では、彼は萌香を一年追いかけてから私に離婚を切り出し、私も一年粘ったが結局負けた。


生まれ変わって復讐ばかり考えるのは虚しい。この世ではまだ悲劇は起こっていない。悪夢のために現実で狂った人間になりたくはない。


「出てこい!」


光哉は、まさか私が拒否するとは思っていなかったらしい。


涙で顔がぐしゃぐしゃの日菜子が戻ってきて、また彼の服を掴んだ。

アイドルでもあるまいか、光哉の前でそんなにしつこく絡むなんて? 私はかつての自分を思い出した。人を笑う資格はなかった。


光哉が私をギロリと睨みつけると、日菜子の腕を掴んで自分の車に押し込み、猛スピードで走り去った。


私はほっと一息ついた。


両親が車に戻ってきた頃には、私はもう眠りかけていた。


「そんなに長々と話して! 美雪が待ちくたびれてるじゃない!」

母が父を咎めた。


「だって関西地区の開発プロジェクトの承認の話で相談しなきゃならなかったんだよ」


父はシートベルトを締めながら説明した。


私は後部座席にもたれかかり、うつらうつらしていた。

昔は光哉を追いかける夢を見たものだが、今は夢に出てくるのは前世のことばかり。まるで天が私にあの惨劇を忘れさせまいとしているようだった。


「母さん、豚の角煮が食べたい」


母が隣に座ると、私はすぐに母の腕を抱きしめ、寄りかかった。これが母の匂いだ。


「こんな遅くに豚の角煮?」


母は私の手の甲を軽く叩いた。


「今日はどうしたの? 光哉と喧嘩でもしたの? 普段は十日も半月も実家に顔を出さないのに」


「だって昔は恋愛で目が曇ってたんだよ!」


私は笑いながら言った。


「これからはお母さんの心のよりどころになるからね」


私が一方的に光哉に惚れ込んでいたことは、周囲も知っていた。母は驚き、父はハンドルを切り損ねそうになった。


父が尋ねた。

「光哉のことが、もう好きじゃないのか?」


好きだよ。でも、諦めることに変わりはない。どうせ彼を繋ぎ止められはしない。彼は萌香のものだ。


「父さん、結婚して五年も経つのに、愛なんてね。ただ彼だけを中心に生きてるんじゃなくて、他にもやるべきことがあるって思ったの」


「とっくにそうすべきだった! あのガキ、毎日のようにスキャンダルを流して、とっくに目障りだったんだ!」


父は突然威勢よくなった。


私も便乗した。

「そうだよね、あの軽薄な男!」


私が火をつけたせいで、両親は光哉に対する不満を一気に吐き出した。


両親が私のためにどれだけ我慢してきたかを初めて知り、胸が痛み、申し訳なさで頭が上がらなかった。

家に着いたのは真夜中を過ぎていた。シャワーを浴びると、私は倒れ込むように寝た。


どれくらい経っただろう。母が部屋のドアをノックし、私はぼんやりと尋ねた。

「母さん、どうしたの?」


「豚の角煮が食べたいって言ったでしょう? 少し作ったんだけど、食べてから寝ない?」


私は一気に目が覚め、ベッドに座ったまま数秒間呆然とした。そして、目の端が急に熱くなった。

生まれ変わってから、私は一度も泣かなかった。前世の夢を見ても、ただ目を覚ますだけだった。


でも、母が真夜中に私の食べたいと言った豚の角煮を作ってくれたその瞬間、私はどうしても涙を止めなかった


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