ヘッドセットの配布を担当していたのは萌香だった。
彼女は私の前に来て、丁寧に機器を置くと、ほのかに微笑んだ。
次に光哉の番。同じ微笑みを向けた萌香に、彼は珍しく「ありがとう」と返した。
この些細な違いこそが、萌香が彼の中で特別な存在であることを示していた。
萌香の視線は光哉の顔を一瞬掠めたが、その目には隠しきれないほどの眩しさが宿っていた。
どんなに意志の強い女性でも、彼の顔の魅力を否定はできまい。
若い娘はすぐに顔を赤らめる。ただの「ありがとう」という言葉で、萌香の頬がほんのり染まった。
ふと、彼女がさっき光哉の目をわざと避けたのは、自分がときめくのを恐れたからではないかと思った。
そんな小さな出来事もすぐに過ぎ去り、経済フォーラムが始まった。白江県と赤桐県の共同発展と周辺地域計画について、具体的な実施策が協議される。
白江県はこの数年勢いがすさまじく、市場はほぼ飽和状態。外への拡大は必然の流れだ。
私はこういった話には疎く、父・望月政雄や光哉、そして義父・片桐仁貴の発言を少し聞く以外は、ほとんど上の空だった。
フォーラムが終わり、父が私を見つけて声をかけてきた。
「美雪、お前も来ていたのか?」
「家にいて退屈だったから、見に来たの」
私は答えた。
父は私がこういう場に馴染まないことをよく知っている。退屈に決まっているのに私がいるのが、どうやら意外だったらしい。
「光哉と一緒か?」
父は少し離れたところで人と談笑している光哉を見やった。彼の挙措動作には、いつもの統率力が滲み出ている。商界の人間の中でも、光哉は若すぎるほどだが、すでに頭角を現していた。
私はうなずいた。
「ええ」
「まあ、いいだろう。お前は光哉の妻なのだから、こうした場に出て自分の立場を確かなものにすべきだ」
と父は深い意味を込めて言った。
ちょうどその時、義父がやって来た。
「望月さん、ご無沙汰しております!」
「片桐社長! 本当に久しぶりですな!」
父は差し出された手を握り返し、二人の老紳士は親しげに話し始めた。
私はその隙にさっと離れ、萌香の姿を探し始めた。
もう給料をもらって帰り支度をしている頃だろうか? 会議センターを何周かして、やっと裏口で彼女を見つけた。どうやら給料を受け取り、配車を待っていた。
「美雪さん!」
私の姿を見て、萌香は嬉しそうに声をかけた。
「麻倉さん、言ってた歓迎のアルバイトって、ここだったの?」
私は早足で近づき、ごく自然に話しかけた。
「はい。夏休み最後のバイトです。終わったら、悠斗とご飯を食べに行くんです! よかったら一緒にいかがですか?」
彼女は熱心に誘った。
私は迷わずうなずいた。
「いいわね。でも、二人の邪魔にならないかしら?」
萌香の顔がまた赤くなった。
「デートじゃないですよ! ただ一緒にご飯を食べるだけですから、全然構いませんよ」
男って、こうしてすぐに顔を赤らめる女の子が好きなんだろうな。まるで可憐なピンクのバラのようだ。
彼女が構わないと言うのなら、厚かましくもご相伴にあずかることにした。
渡辺悠斗は約束の焼肉店で待っていた。
私の姿を見て、明らかに慌てた様子で立ち上がった。
「美雪さん、萌香」
「今日、バイトで美雪さんに会ったから、誘ったんです! 今日は私のおごり!」
萌香は親しげに私の腕を組んだ。まるで親友のように。
「悪いわね、渡辺君。私、二人の邪魔になっちゃって」
私は申し訳なさそうに笑った。
悠斗は慌てて首を振った。
「いえいえ、とんでもない! どうぞおかけください!」
私と萌香は同じ側に座り、悠斗は向かい側に座った。
食材を注文し、テーブルに据えられた炭火コンロの上に鉄板が置かれ、大小の皿が並べられた。
萌香は私もD大卒の先輩だと知り、俄然張り切り、ぺちゃくちゃと学校の話をたくさんしてくれた。
悠斗は私たちのために焼肉を焼くのに忙しく、時折萌香を慈しむような眼差しを向けたが、その目が私を掠めるときには、少し複雑な色を帯びていた。
ちょうどいい雰囲気の中、萌香の携帯電話が鳴った。
彼女は何気なく手に取って見た。メッセージだった。
私は盗み見るようにして、末尾が888の番号を目にした。光哉以外に考えられない。
ついに彼も動いたのだ。
そのメッセージを見て、萌香の表情が一変した。訝しさと驚きが入り混じっている。
彼女は返信せず、携帯を置いた。
「萌香、誰から?」
悠斗が笑いながら尋ねた。
「迷惑メールです、セールスの」
萌香はうつむき、焼けた肉を口に運びながら答えた。声に少し力がなかった。
私は哀れみを込めて悠斗を見た。このおバカさんは相変わらず楽しそうに肉を焼いている。スーツをビシッと決めた男が、自分の彼女を狙っていることに全く気づいていない。
どんな心境からか、私は立ち上がった。
「ちょっとトイレに行ってくる」
トイレに着くと、悠斗にメッセージを送った
『あの高級車、気に入らなかったのかしら? あの日、持って帰らなかったの? 鍵は表門に捨てられたままだったわ。片桐家の邸宅の警備が厳重でよかった。さもなければ、とっくに盗まれていたところよ』
メッセージを送ると、私は化粧を直し、耳にかかった髪を整えて席に戻った。
悠斗はもう私の顔を見ることができず、ただ黙々と肉を焼いていた。
私の言動は、彼の目には、どうやら若い男を養おうとしている金持ちの女に映っているらしい。
萌香もそわそわし始めた。光哉が返信がないと見て、直接電話をかけてきたのだ。
彼女はびっくりして、着信表示を見ると慌てて電話を切り、素早くメッセージを返信した。内容までは見えなかった。
「麻倉さん、そういう迷惑電話はさっさとブロックしちゃえばいいのよ」
私は知らないふりをして、親切に忠告した。
「はい、わかってます」
彼女は携帯の画面を伏せて置くと、うなずいた。
彼女が何を返信したのかはわからないが、光哉はついにこれ以上彼女を煩わせることはなかった。
しかし、これは一時の平静に過ぎない。彼が狙った相手なら、たとえ月宮の姫であろうと、何とかして引きずり下ろす男だ。
それぞれが思いを胸に秘めたままの焼肉となった。
終わると、悠斗が私と萌香を送ると言ったが、私は断った。
「渡辺君、麻倉さんだけ送ってあげて。私はタクシーで帰るから」
「そうですか…。美雪さん、お気をつけて」
悠斗は相変わらず私の目を見られなかった。
「大丈夫よ」
私はタクシーを拾い、悠斗と萌香が乗った車が去っていくのを見届けてから、藤田さんに迎えに来るよう電話した。
十五分後、藤田さんが到着した。
彼の無口で忠実な様子を見て、私はため息をついた。
「藤田さん、光哉もあなたみたいに、呼べばすぐ来てくれたらいいんだけどね」
藤田さんの目玉がわずかに動いた。しばらく沈黙した後、彼は言った。
「奥様、今すぐご主人様にお電話しましょうか?」
私は額を押さえた。
「運転に集中してちょうだい。お願いだから、話さないで」
藤田さんはうなずき、私を乗せて片桐家の邸宅へと一路車を走らせた。
義父母はまだいるだろうか? 光哉はもう帰っているのだろうか?