白江県郊外の古びた社宅街。ここは40年より前に化学工場が建てた社員寮で、隣にはとっくに廃墟となった巨大な工場の跡地が広がっていた。
麻倉崇人はその化学工場に勤めていた頃、ここに家を割り当てられた。
工場は十年前に倒産し、片桐財閥に買収されたものの、そのまま放置され、再開発計画は決まってないまま。計画が進めば、周辺の建物はすべて取り壊される。
資本家は元より利益を追求するものだが、光哉のような生まれながらの商人は、その点で特に計算高い。
彼が提示する立ち退き補償額は常に最低基準ぎりぎり。一円たりとも余分には出さない。
しかし、誰もが彼が萌香のため、突然気前の良い慈善家に変貌するとは予想しなかっただろう。
住民代表として交渉に臨んだ崇人は、光哉とのやり取りは険悪な雰囲気になるだろうと覚悟していた。
ところが、光哉は崇人に対して異様に丁重で、なんと補償案を修正し、各世帯に予想をはるかに超える金額を支払うと言い出したのだ。
この一手に、萌香は複雑な思いだった。
腹が立つのは、そもそもこの問題を引き起こしたのが光哉なのに、その一方で感動せずにはいられない自分がいた。彼が自分のために、そこまでしてくれるなんて!
車内で、私はぽつりぽつりと灯るこの古い団地をぼんやりと見つめていた。
前世、光哉が補償案を変えたことを知り、父に内情を探ってもらったことがあった。ただその時は、それがひとりの女性のためだとは全く知らなかった。
時間を考えると、それはまさに光哉が萌香を追いかけ始めて半年が経った頃。わずか半年で、もうここまで狂っていたのか。
麻倉家の正確な住所はわからなかったので、塀も警備もないその団地の中を、車でゆっくりと周回した。
一周し終えた時、暗がりに見覚えのあるブガッティが停まっているのが目に入った。
光哉は黒い服を着て、ボンネットにもたれかかっていた。
長い足を気ままに車体に預け、うつむき加減でタバコに火をつける。
高級車、美形男子、夜闇と煙…その光景はまるで映画のワンシーンのようだ。
萌香の立場になって考えてみた。あれほど高慢な男が、あなたのために湯水のごとくお金を使い、姫を守る騎士のように敵を取り除き、その眼差しはあなただけに向けられている。
そしてあなたは、若くて可愛いという以外、これといった取り柄もない。
ふと理解した。私だって、たぶん抗えないだろうと。
顔を上げてじっと見つめている方向を追うと、萌香の家の窓が視界に入った。あの棟で、一階を除いて明かりがついているのは五階だけだった。
私は光哉の携帯に電話をかけた。
「用件は?」
冷たい声が返ってくる。
「別に。でるかどうか試してみただけ」
窓越しに少し離れた彼の姿を見ながら答えた。
やっぱり、電話は切られた。
少し意外だった。他の女の住むマンションの下で熱い眼差しを注ぎ、どうやってものにしようか考えを巡らせている最中に、彼はまだ「形だけの妻」である私の電話に出る余裕があったのか?
ため息をつくと、私は車を走らせた。
光哉家の邸宅に戻ると、使用人たちがちょうど掃除を終えたところだった。麻倉はるがわざわざ私を待っているようで、不安げな表情を浮かべていた。
「奥様!」
彼女はきまり悪そうに口を開いた。
私は持ち帰りの弁当をテーブルに置き、穏やかに言った。
「麻倉さん、どうしたの?」
彼女は緊張した面持ちで私を見つめ、皺だらけの顔に申し訳なさが満ちていた。
「今日、奥様のお部屋をお掃除している時に、化粧品を落として割ってしまいまして…お値段を伺って、給料から差し引かせていただきます」
「どの?」
私が尋ねる。
彼女は急いでポケットからハンカチを取り出し、中には瓶の破片が包まれていたジョニー・ブラウンの化粧水。市場価格で九十万円近いはずだ。
はるさんの一ヶ月の給料ではとても足りない金額。
彼女の卑屈な様子を見て、胸の中がざわついた。
こんな普通の女性が将来光哉の義母になるなんて。
今は数十万円の給料のために働きづめなのに、娘の出世で一気に天にも昇るような身分になる。
一方、私や光哉の家の地位は、何代もかけて積み重ねてきた結果なのだ。
「いいんですよ。あの瓶も半分以上使ってたし。次から気をつけてください」
理由のわからない疲労が襲い、特に光哉が麻倉家のマンションの下で黙って見上げていた光景を思い出すと、この世界がなおさら虚ろに感じられた。
はるさんは何度もお礼を言い、感謝と申し訳なさでいっぱいだった。
私は無言で振り返り、階段を上がった。
シャワーを浴びて、パックをしながら寝転がっていると、寝室のドアが開いて、光哉が戻ってきた。
「両親は赤桐県に戻られたわよ。芝居を打ち終わったの」
彼が近づくのを見て、布団に顔を埋めたまま言った。
「知ってる」
彼は真っ直ぐにクローゼットに向かい、パジャマを取り出すと、振り返りもせずに部屋を出ていった。
私は自嘲気味に息をつくと、顔からパックを剥がし、眠る準備をした。
優佳からの電話に目が覚めた。
「美雪!この前話してたイベントの仕事、チェロが抜けちゃったんだけど、まだ行ける?」
はっとした。すっかり忘れていた。眠気が一気に吹き飛んだ。
「行く!」
お金がなくたっていい。目的は稼ぎじゃない。自分を充実させて、昔の夢を再び掴むことだ。
優佳は喜んだ。
「やった!すぐに時間と場所送るね!絶対時間通りにね!」
「わかった」
私は即座に返事した。
電話を切ると、すぐに情報が入った。
場所は母校のD大音楽ホール、三日後──まさに大学の新学期初日だった。
このイベントは実質的にD大音楽科のプロジェクトで、卒業生だけを対象としたもので、先輩たちの演奏で新入生の大学生活を始めてもらうのが目的だ。
卒業して以来、私はD大の敷地を踏んだことがなかった。
懐かしい場所を訪ねたり、寄付をしたり…そんなことはすべて、光哉を中心に回る日々に妨げられてしまった。
これが新しい始まりになるだろうか?少し期待が膨らんだ。
母校の顔を潰さないため、私は三日間みっちり練習に打ち込んだ。どうせ光哉は夜中に帰ってこないので、朝から晩まで練習室に籠もった。
チェロの音に浸っていると、三日間はあっという間に過ぎ去った。
旋律の移り変わりとともに、前世の様々な出来事が脳裏に蘇り、音色もまた違った味わいを帯びているようだった。
その夜、気持ちよくシャワーを浴びた後、渡辺悠斗に電話をかけた。
「美雪さん!」
向こうは騒がしく、バーの音楽が流れている。
「悠斗くん、どこにいるの?明日は入学式でしょ、まだバーなんかで?」
私はまるで姉のように言った。
悠斗の声は騒音にかき消され、かすれていた。
「美雪さん、今バイト中です!うるさくてよく聞こえません、後でかけ直します!」
私は電話を切り、代わりにメッセージを送った。
学費まだ足りないの?この前の医療費、使わなかった?
悠斗はすぐに返信してきた。
父さんの医療費が足りなくて、そっちに回しちゃいました。
私はさらに尋ねず、すぐに二十万円を振り込んだ。
男を落とすための覚悟なら私にもある!
何せ、光哉のような「達人」がお手本を見せてくれたのだから。