数分後、渡辺悠斗から電話がかかってきた。声には慌てがにじんでいた。
「美雪さん、どうしてお金を振り込んでくれたんですか? 学費は自分でなんとかするつもりでしたのに!」
「学生は学業に専念すべきよ。単位を落としたら卒業できなくなるかもしれないでしょ?」
ベッドに寝転がりながら、私はわざとらしくない程度の気だるい声で言った。
「いいから、姉さんの言うことを聞いて。D大は良い大学なんだから、時間を全部バイトに費やさないで。しっかり勉強して将来に備えなさい。卒業して働き始めてから返せばいいのよ。」
「僕……」
悠斗の声が、詰まったように聞えた。
胸が少し痛むと同時に、自分の狡猾さを感じた。この少年の純粋さにつけ込んでいる。
彼は私を親切な人間だと思っている。まさか、気前の良いふりをしているとは気づくまい。
萌香のことはさておき、私は心から、悠斗くんのような自立心の強い人間を評価している。
彼の境遇で、D大でやっていくのは、並外れた努力を必要とするに違いない。
「もういいの。これからお金に困ったら、遠慮なく言ってきなさい。応援だと思って。卒業したら返せばいいし、それでも気が引けるなら、利息をつけてくれればいいから」
その程度の金は私にとって大した額ではない。けれど、それで心のバランスが取れ、彼を助けられるなら一石二鳥。
悠斗くんは明らかに追い詰められていた。そうでなければ、始業式の前日までバイトをしているはずがない。
電話を切り、彼は送金を受け取り、メッセージを送ってきた。
『ありがとうございます、美雪さん!必ず返します!』
私は返信せず、スマホを置いて眠りについた。
翌朝、私は念入りに身支度を整えた。白いワンピースは優雅で上品、薄化粧で顔色も良く見える。
チェロを背負い、藤田さんに車でD大まで送ってもらった。
学園に戻ると、感慨無量だった。
元気いっぱいの新入生たちを見て、自分が入学したばかりの頃を思い出した。まるで昨日のことのようだ。
あの頃は、光哉が在籍する大学に合格し、彼の後輩になれたことに胸を躍らせていた。宝くじが当たるよりも嬉しかった。
記憶を頼りに音楽学部のホールへ向かうと、ホールの周囲は大きなガラス張りで、中央には階段状のステージが設けられている。
今日、私のように演奏のために母校に戻ってきた卒業生は全部で八十人。
演奏曲は、定番の名曲『美しく青き空』。
ステージには既に各人の位置がマークされていた。私たちは臨時に配置を決め、それぞれの場所に付いた。
リハーサルはなし。全ては互いの呼吸にかかっている。
しかし、皆元はD大音楽学部の出身だ。社会に出て研鑽を積んではいるが、その実力は衰えていない。そうでなければ、こんな依頼は引き受けられない。
優美な旋律が流れ出す。熱情あふれる音符が全身を包み、心身ともにリラックスした。
見物する学生たちが次第に増えていき、私たちの即席オーケストラもますます気持ちが乗ってきた。いくつかのクラシック名曲を演奏し続け、お昼近くになってようやく一息ついた。
湧き起こる拍手に、満足感が胸に広がる。
聴衆の中に視線を走らせると、渡辺悠斗の姿が見えた。
彼は立ち止まり、目を輝かせて私を見つめている。
私が気づいたのを見て、彼は少し恥ずかしそうに、しかし親しみを込めて手を振った。
私は笑顔でうなずき、応えた。演奏会が終わった後、私は彼の方へ歩み寄った。
「悠斗くん」
「美雪さん!チェロを弾かれるなんて!すごいですね!」
悠斗くんは惜しみなく称賛の言葉を口にした。
「大学ではチェロが専攻だったのよ」
私は楽器を背負ったまま、彼と歩きながら話した。
この場所に身を置くと、一瞬で若返り、学生時代にタイムスリップしたような気分になった。
「音楽ができる女の子って、すごく魅力的だと思います」
顔の傷はほぼ治っていたが、口元や目の端にうっすらと痕が残っている。スポーティーな短パン姿で、日差しを浴びて爽やかな印象だった。
その言葉に、私は胸の鼓動が一瞬速まった。
まさか、彼は……?
しかし次の瞬間、悠斗くんは私の推測を打ち砕いた。
「うちの萌香も音楽やってるんですよ。彼女は声楽で、楽器じゃないんですけど」
ああ、果奈と同じ歌手志望なんだ。
私は心の中でそっとため息をついた。
どうやら悠斗くんは萌香にかなり惚れ込んでいるようだ。彼女を奪うのは容易ではなさそうだ。
だが、光哉が萌香を落とせば、私にもチャンスが巡ってくる。
私の目的は、あくまで心のバランスを取るためであって、真実の愛を探すことではないのだから。
「悠斗くん!!」
前方に萌香の姿が現れた。
彼女も白いワンピースを着ていたが、そのはちきれんばかりの若々しい雰囲気が、私よりもずっと清純さを際立たせている。
私と悠斗くんが一緒にいるのを見ても、彼女は少しも訝しむ様子はなく、むしろ驚きと喜びで声をかけてきた。
「美雪さん!どうしてここに?」
「さっきホールで演奏してて、偶然悠斗くんに会ったのよ」
私は優しい笑みを浮かべた。
「さっきホールで素晴らしいオーケストラの演奏があったって聞きました!美雪さんも出られてたんですか?すごく残念!サークルの用事で、見逃しちゃって」
萌香の可愛らしい顔は本気の悔しさでいっぱいだった。本当に残念がっているのが伝わってくる。
悠斗くんが口を挟んだ。
「だから君を探しても見つからなかったんだよ。電話も繋がらなかったし」
萌香の目に一瞬、不自然な影が走った。どこか疲れた様子で、口元の笑みも力強さに欠けていた。
「携帯をマナーモードにしてたから、気づかなくて…」
「始まったばかりで忙しいわよね。一緒にランチどう?おごるわ」
私は二人を誘うように微笑んだ。
萌香は首を振った。
「美雪さん、ありがとうございます!でも、これから寮の整理もしないといけないし、学食で軽く済ませます。悠斗くんは?」
悠斗くんは当然、彼女に付いていく。たとえ昨夜、私が二十万も貸したばかりだとしても。
「僕も学食で。美雪さん、今度は僕と萌香がおごります」
悠斗くんは真摯にそう言った。
「ええ、それじゃあ、私は先に失礼するわ」
私は無理強いはせず、うなずいてその場を離れた。
藤田さんが待っていた。車に乗り込み、「帰りましょう」と告げた。
車はD大の広々とした並木道を走る。
学生時代、毎日のように頭をひねって光哉との偶然を装い、こっそり後を追いかけた日々の情景が、自然と頭に浮かんだ。
ふと、横を銀色のレクサスがゆっくりと通り過ぎた。
窓が半分降りて、見えた横顔、光哉だった。
彼がなぜ突然、そんな目立たない車でD大にいるんだろう?
唯一の説明は、萌香に会うため、そして目立たないようにするため。
道理でさっき、萌香の目が泳ぎ、疲れた様子だったわけだ。
ここ二日間、光哉にさんざん「絡まれていた」に違いない。
こうした強引なアプローチは、誰しも最初は受け入れ難い。ましてや、心に想い人がいる彼女なら尚更のこと。
彼はさっき私を見ただろうか? しかし彼の頭は萌香のことで一杯だろうし、おそらく他のことを気にしている余裕などなかっただろう。