片桐家の邸宅に戻ったのは、丁度お昼時だった。麻倉はるが私の帰宅を見つけ、恭しく挨拶をした。
食卓には相変わらず手の込んだ料理が並んでいたが、ついさっき会った光哉や萌香のことを思い出し、食欲は湧かなかった。箸もつけずに私は二階へ上がった。
「奥様、お体の具合でも……? お医者様をお呼びしましょうか?」
はるが気遣って、後を追ってきた。
スキンケア用品の弁償を免除して以来、彼女の気遣いは一層強まっていた。
もし彼女が萌香の母親でなければ、こんなに気の利く家政婦さんを心から評価したかもしれない。
「食べたくない。皆で分けて食べて」
私はベッドに横になり、苛立ったような声で言った。
はるはそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていった。
もつれた思いを抱えたまま、私は眠りに落ちた。もし千里たちが次々に電話をかけてこなければ、翌日まで寝続けられたかもしれない。
千里の甲高い声が興奮に満ちていた。
「うわっ!! 女神だって! D大のあのチェロの女神降臨だってさ!」
「え?」
私は寝ぼけており、何のことやらさっぱりだった。
「リンク送った! 早く見て! 今すぐ!」
そう言うと彼女は電話を切った。
携帯電話には、果奈と優佳からもそれぞれ三回ずつ着信履歴が残っている。
千里が送ってきたリンクを開くと、そこには動画があった。今日のD大講堂での演奏の様子だ。
私は一番左に座っている。撮影者が誰かはわからないが、カメラは頻繁に私に寄り、まるで密かに想いを寄せる人のように。
動画の下には、ネットユーザーの熱狂的な称賛が並んでいた。「雰囲気抜群の女神様」「かつてのD大音楽学部の光」……
それらを読んでいるうちに睡気は吹き飛び胸が高鳴った。
褒められるのが嫌いな人なんているだろうか?
小さい頃から褒められることは多かったが、そのほとんどは父の肩書目当てだった。
こんなふうに、純粋に自分の魅力だけで多くの人に愛されるなんて、生まれて初めての体験だ。
千里がタイミングを見計らってまたかけてきた。
「どう? 予想外だっただろ? 突然バズっちゃってさ、ははは…」
「本当に驚いたわ」
私は上機嫌だった。
「どうやら私の魅力、衰えてなかったみたいね!」
「そりゃそうよ! あの頃だって、光哉に目がくらんでたからさ。他にもいっぱいアプローチしてくる人がいたのに、なんであんな男に一途に尽くしてたんだか」
千里はその話になると今でも憤慨している。
「昔の話はいいよ、今は割り切ったんだから」
過去を思い出すと、胸の奥がざわついた。
「割り切ったんなら、お茶でも飲みに来いよ! ちょうどヒマしてるし、せっかくだから君をSNSジェンドに仕立てちゃおうか!」
千里の空想はますます膨らんでいった。
「私たち四人でまたバンドを組もうよ、優佳がボーカルで、私たち三人が伴奏! 完璧だ!」
彼女はヒマすぎて頭がおかしくなったんじゃないかと思った。
「将来の話はさておき、今どこ? ご飯食べに行こう、お酒は抜きで」
丸一日何も食べておらず、増量計画は止められない。
千里は快く承諾した。
「オッケー! いい料亭知ってるんだ、お茶も美味しいし、料理は五つ星ホテルよりイケてる! 場所送るね!」
住所を受け取り、着替えて外出した。
料亭の入り口で父に遭遇したのは思いがけなかった。父は何人かの友人と別れの挨拶を交わしていた。
「お父さん!」
私は声をかけた。
「美雪? こんなところで何してるんだ?」
父は私を見て驚いたようだった。そばにいた数人の叔父さんたちもこちらに目を向けた。
そのうちの一人が目ざとく言った。
「望月さん、お嬢さんって、今日D大でチェロを弾いていた方じゃないですか? ネットでめっちゃ話題になってますよ!」
父の顔にかすかに誇らしげな色が走ったが、口調は控えめだった。
「いやいや、何を言う。大学で習ったものを、何年もほったらかしにしてたんだから」
「何年もブランクがあって、あの腕前ですか? 望月さん、お嬢さん、すごいですね!」
「お顔立ちもいい、見るからに品のあるお顔立ちです」
そんなお世辞を聞きながら、私は少し得意になると同時に笑えてきた。
この細身の私のどこが『品のある顔立ち』なんだろう?
千里からまた催促の電話がかかってきた。私は急いで父に言った。
「お父さん、友達が待ってるから、先に行くね!」
「ああ、行っておいで。私も帰るから」
父は手を振った。
私はうなずいて中へ向かおうとしたが、ふと、数日後に家に食事に行く話をしようと思い出した。
振り返ると、ちょうど父の車から四十歳前後の女性が降りてきて、街灯の下に立っているところだった。
白と黒のツートンカラーのタイトスカートを着たその女性は、艶めかしさの中に知性を感じさせる。
父に恭しく頭を下げたその瞬間、ほどよく開いた襟元から、かすかに胸元の曲線がのぞかれる。
父が何か言うと、車の後部座席に乗り込んだ。その女性は助手席に座った。
前の運転手は男性じゃなかったの? 女性に変わったの?
なぜか胸がざわついた。
「美雪、入り口で接客係してるの?」
果奈がちょうど到着し、私がぼんやりしているのを見て、冗談めかして肩をポンと叩いた。
「待ってたのよ、特別レセプション、感動した?」
私は我に返り、笑いながら彼女の腕を組んだ。
「行こう、千里が命乞いしてるわ!」
果奈と個室に入ると、お茶の香りが漂い、隅のスピーカーから流れるクラシック音楽が気分を爽快にしてくれた。
千里は茶碗を手にポーズを取っており、優佳にSNS用の写真を撮らせて、アプローチ待ちの男性たちを誘惑しているところだった。
昔は彼女のことを恋多き女で愛をわきまえていないと思っていたが、今では彼女が現実をよく見ている人間だと気づいた。
「美雪、果奈、早く早く!」
私たちが入ってくるのを見て、千里はポーズを解して座り、にこにこ手招きした。
「料理注文しといたから、信じて、絶対感動するから!」
私と果奈は茶卓のそばに腰を下ろした。
「わかった、信じるよ!」
四人で席に着くと、淡い色合いの着物をまとい、玉かんざしを挿した茶師が、優美な趣を添えていた。
私は甘みの強いキンツンメイを頼んだ。茶師が手際よく淹れてくれ、茶葉の産地、価格、風味をささやくように説明する様は見事だった。
お茶を味わいながら、次々と運ばれてくる料理は、確かに一級品の味だった。
給仕がドアを開けて料理を運び入れた一瞬、光哉と拓也が廊下を通り過ぎていくのがかすかに見えた。