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白い結婚~愛なき契約の果てに
白い結婚~愛なき契約の果てに
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年06月10日
公開日
3万字
連載中
名門貴族の令嬢ナタリーは、家のために“形式だけ”の結婚―― 白い結婚を強いられた。 「愛は要らない。君は“飾り”でいい」 そう告げた夫に、ナタリーはただ静かに微笑む。 だがその裏で、彼女は少しずつ“夫の居場所”を奪っていく。 表向きは従順な妻、 裏では王宮の政争を操る冷徹な女帝。 愛を捨てた結婚の果てに、彼女が選ぶ未来とは――? 愛を持たない契約から始まる、 静かで鮮烈なざまぁと逆転の恋愛劇。

第1話 :愛なき王妃

1-1 王太子との婚約


 それは、ナタリー・ヴァレンタインがまだ七歳にも満たない頃だった。

 彼女が生まれ育ったヴァレンタイン侯爵家は、王国でも指折りの古い家系であり、王家との結びつきも強かった。なにより、この家は代々、王国の中枢を支える重鎮を輩出してきた名門である。


 ナタリーは、侯爵家の一人娘として何不自由なく暮らしていた。生まれながらにして金色の髪を持ち、白い肌と大きな青の瞳を持つその姿は、まるで人形のようだと人々に称えられていた。両親も、優秀な家庭教師も、彼女が将来は王都の華になるだろうと期待をかけていた。


 そんなある日、王宮から一本の知らせが届く。王太子アレクシスの婚約者候補として、ヴァレンタイン家の娘に白羽の矢が立ったのだ。ヴァレンタイン侯爵は、幼い娘を王家に嫁がせることが、家名を高める絶好の機会であると感じ、二つ返事で承諾した。


 もちろん、ナタリー自身に意見を聞くようなことはなかった。

 王太子の婚約者に選ばれるということは、この国において最大級の名誉である。家の誇りとして、ナタリーを王家に差し出すのは当然――そんな空気が、侯爵家を支配していた。


 幼いナタリーは、婚約という言葉の意味を十分に理解していなかった。だが、「王太子妃になる」という言葉に込められた重みは、少しずつ彼女の胸に根を下ろしていく。これから先、自分は王宮で暮らし、王子の隣で国を支える存在になるのだと、周囲の大人たちは口々に言う。


 当時の王太子アレクシスは、ナタリーよりも五つ年上だった。まだ十代前半ながら、王宮に住み、王の傍で日々の勉学や武術の鍛錬に励んでいると聞く。ナタリーはときどき、彼の姿を遠目に見る機会があったが、そのたびに「なんてすごいお方なのだろう」と幼心に胸を高鳴らせていた。


 婚約が正式に決まると、ナタリーはそれまでの何倍もの学問と礼儀作法を叩きこまれるようになる。読み書きや算術はもちろん、宮廷作法、貴族の歴史、舞踏のステップ。さらに、王妃となれば外交の場にも立たなければならないため、外国語や異国の文化、歴史までも学習の対象だった。


 両親や家庭教師は口をそろえて「王太子妃にふさわしい教養を身につけなさい」と告げる。ナタリーは幼いながらも、両親の期待に応えるべく必死に努力した。まだ子どもとはいえ、彼女は自分が特別な存在なのだと自覚していたし、何より生来の真面目さと責任感がそうさせたのである。


 数年が経ち、ナタリーが十代の半ばに差し掛かる頃、王太子アレクシスとの婚約は公に発表された。若く美しい王太子妃候補の存在は、王都で話題をさらった。皆、ヴァレンタイン家の娘はどんな才色兼備なのかと噂し、実際に人々の前に現れたナタリーの姿を見て、その端正な容姿と落ち着いた振る舞いに感嘆の声をあげた。


 ナタリーはその頃、まだアレクシスに対して淡い憧れを抱いていた。

 形式ばった宮廷の行事で顔を合わせるたび、アレクシスは礼儀正しくナタリーに挨拶を交わした。年齢の近い貴族の子女たちが控えめに言うには、「王太子は文武両道であり、どんな場面でも落ち着いた態度を崩さない」と評判だった。実際に接してみると確かにそうで、ナタリーは彼の優雅な物腰にどこか安心を覚えたものだ。


 しかし、ある日を境に、アレクシスの態度が変わり始める。

 ナタリーが十七歳を迎え、いよいよ本格的に結婚の話が進むと思われた時期――アレクシスは、彼女を少しずつ遠ざけるようになった。


 王宮に招かれる機会は増えているはずなのに、アレクシスと会う機会は減っていく。彼は公式の場ではナタリーを王太子妃として紹介するものの、私的な場では決して顔を合わせようとはしなかった。ナタリーが会いに行こうとすると、侍従や側近に制止されることもしばしばあった。


 それでも、ナタリーは「王太子殿下はお忙しいのだろう」と自分を納得させ、必死で王宮の行事に参加し続けた。自分がアレクシスの補佐となり、王妃となる日はそう遠くない。王家とヴァレンタイン家の盟約は固く、もはや二人の結婚は既定路線なのだから――そう信じていた。


 だが、王宮の空気はどこか冷たかった。周囲の貴族たちはナタリーを尊重するふりをしつつも、心の底では「王太子殿下との結婚はどうなるか分からない」と思っているらしいと、噂が漏れ伝わってくる。王宮の侍女たちは、ナタリーの前では頭を下げつつも、その目はどこか上から目線だった。


 ナタリーは、その微妙な違和感に気づいていたが、無視することにした。

 自分は王太子妃になるのだ。それが定められた未来であり、周囲の冷淡な態度は一時的なものだろう、と。


 こうして数カ月が過ぎ、ナタリーは十八歳となった。その春、王太子アレクシスから、ついに直接呼び出しがかかった。王宮の一室で二人きり――それは、彼女が心の底でずっと待ち望んでいた機会だった。


 だが、アレクシスの口から出た言葉は、ナタリーの想像をはるかに超える、酷薄なものだった。



---


1-2 「白い結婚」の提案


 薄暗い王宮の部屋に、ナタリーは通された。

 そこは書斎というには殺風景で、石壁と簡素な家具が並ぶだけの、どこか冷たい印象を与える空間だった。窓から差し込む光は弱く、室内に長い影を落としている。


 部屋の奥に立っていたアレクシスは、ナタリーの姿を認めると、ゆっくりと向き直った。

 久しぶりに見た王太子の顔は、かつてナタリーが憧れた穏やかな少年の面影をほとんど残していなかった。切れ長の瞳には冷たい光が宿り、唇は不機嫌そうに引き結ばれている。


 ナタリーは丁寧に一礼し、声をかける。

「王太子殿下、お呼びいただき光栄に思います。しばらくお姿を拝見できず、心配しておりました」


 しかし、アレクシスは彼女の言葉を遮るように腕を組んだ。

「礼はいらない。要件はただ一つ。お前との結婚の話だ」


 ナタリーの心臓が一瞬だけ跳ね上がった。

(ようやく結婚の日時が決まるのかもしれない。あるいは式の具体的な話――)


 けれども、その予想はすぐに打ち砕かれる。


「結婚はする。だが、お前に夫としての愛情は与えない」


 アレクシスの低い声が響いた瞬間、ナタリーは息を呑んだ。

「……それは、どういう意味でしょうか?」


「文字通りの意味だ。政治的にはお前を王妃に迎える必要があるが、私には愛する女性がいる。お前は形だけの王妃であり、婚姻における義務は果たしてもらうが、私との間に愛情や信頼関係が生まれることはないだろう」


 あまりにも率直すぎる言葉に、ナタリーはその場から動けなくなった。

 自分が幼い頃から必死に学んできたのは、王妃になるためだった。愛される王妃として、国民と王を支え、慈愛の心で人々を照らす――そんな未来を想像しながら、彼女は歩んできたのだ。


 だが、アレクシスは言う。愛など最初から用意されていないと。


「まさか、殿下にはもうお心に決めた方が……」


 ナタリーは恐る恐る問いかける。噂程度には耳にしていた。王太子にはお気に入りの女性がいるのだと。しかし、それをナタリーの前であからさまに口にするなんてことはあり得ないと思っていた。


 けれども、アレクシスはまったく悪びれた様子もなく頷いた。

「愛人だ。名はセリーナ。子爵家の令嬢だが、可憐で優しい女性だ。お前とは違って、私を理解してくれる」


 その言葉に、ナタリーは胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

(私とは違って、優しい女性……?)


 自分は王太子妃になるために、完璧な振る舞いを身につけてきた。それでも「優しい」とは言ってもらえなかった。常に冷静沈着であるように、失敗のないように――そう教えられてきた結果、こうして夫になるはずの王太子からは「冷たい女」と思われていたのだろうか。


 アレクシスは続ける。

「正式な結婚式は挙げる。国のためには、王妃が必要だ。しかし、私の心はお前のものではない。それを理解して、黙って王宮で王妃としての務めを果たすなら、婚約を破棄する必要はない」


「ですが……そんな……」


 ナタリーは必死に言葉を探す。だが、頭がうまく働かない。

 彼女が思い描いていた「結婚」のイメージとはあまりにもかけ離れていた。それでも、ここで拒絶すればヴァレンタイン家は王家に逆らうことになるだろう。


 アレクシスはナタリーの苦悩など意に介さず、さらに言葉を投げかける。

「お前に選択肢はない。王家に背くことは、家とお前自身の破滅を招く。それは分かっているだろう?」


 ナタリーはただ頷くしかなかった。

 たとえ形だけでも、王太子との結婚はヴァレンタイン家にとって揺るぎない栄誉だ。もしここで婚約を解消しようものなら、彼女も家も、王宮の怒りを買ってしまう。


「愛のない結婚など……」

 思わず小さく呟くと、アレクシスは嘲笑を浮かべた。

「お前の好きなように呼べばいい。そうだな――『白い結婚』とでも言うか。名ばかりの夫婦だが、国民の目には華々しく映るだろう。その程度で十分だ」


 ナタリーは心がぐらつくのをこらえた。

(こんな結婚、あまりにも惨い。だけど、断ることはできない……)


 彼女は微かに首を縦に振った。

「……分かりました。私は、王家と国のために、王太子殿下との結婚を受け入れます」


 その瞬間、アレクシスは勝ち誇ったように微笑んだ。

「賢い判断だ。式の準備は速やかに進めるつもりだ。お前は王宮で暮らし、王妃教育をさらに受けるといい。国民の前では、うまく愛し合っているふりをしてくれ」


 ナタリーの胸には、冷たい絶望と、奇妙な安堵が入り交じった感情が広がっていた。

 これが自分の運命なのだ。抗えない、変えられない――王太子にとっては形だけの妃となることで、家名も、立場も、守れるだろう。


 だが、その代償として、ナタリーが本当に望む「愛される結婚」は、最初から存在しなくなるのだ。



---


1-3 王宮での屈辱の日々


 王太子アレクシスとの結婚式は、国民の大きな祝福を受けて盛大に行われた。

 華やかなドレスを身にまとい、教会で永遠の愛を誓う――はずの儀式は、ナタリーにとっては偽りに満ちたものだったが、外部から見れば絢爛なロイヤルウエディングそのものだった。


 王都の大聖堂には多くの貴族が参列し、民衆も沿道に押し寄せた。皆が「美しい王太子妃の誕生」を祝福し、ナタリーに声援を送る。ナタリーは微笑みを浮かべながら手を振った。しかし、その笑顔は演技でしかなかった。


 アレクシスは華やかな結婚式の最中でも、愛人セリーナの姿を探していたようだ。

 少なくとも、ナタリーにはそう映った。ふと視線を感じて振り向くと、最前列に座る少女――金色の髪をふんわりと巻き、純白のドレスを纏ったセリーナが、悲しげな瞳でアレクシスを見つめていた。


(なぜ、愛人が公の式典に参加しているの……?)

 ナタリーは内心の動揺を抑えながら、誓いの言葉を口にする。もちろん、アレクシスからは愛の言葉など望めない。形式的な宣誓だけが、二人を王と王妃候補の関係に仕立て上げていた。


 こうして「白い結婚」は成立した。

 ナタリーは王妃としての地位を得る代わりに、夫の愛を放棄する運命を受け入れたのだ。


 結婚式が終わり、ナタリーは正式に王宮へ移り住む。

 だが、そこから始まった生活は、彼女が想像していたものとはまるで違った。


 王妃としての仕事は、公式行事や王家の祭典への出席、国の慶弔への対応など多岐にわたる。ナタリーは真面目な性格ゆえに、それらを一つ一つ完璧にこなそうとした。生来の努力家でもあり、幼い頃から王妃教育を叩きこまれているため、彼女の振る舞いに大きなミスはなかった。


 しかし、それをアレクシスが評価することはない。

 むしろ、ナタリーが必死に務めを果たすほどに、彼の態度は冷ややかになっていった。


「お前は形式ばかりだな。国民も、そんな仮面を被った王妃など見たくないだろう」


 まるで嫌味のように、アレクシスはナタリーに皮肉を言う。

 王妃の努力が「仮面を被っている」と酷評されるのは、なんとも理不尽だったが、ナタリーには言い返す術がなかった。


 さらに、アレクシスは堂々とセリーナを王宮に招き入れた。

 セリーナには専用の部屋が用意され、王太子の近侍として振る舞うことが許されている。形式上は「王太子妃の友人」という名目だったが、王宮の誰もが彼女を愛人だと知っていた。


 ナタリーが公式行事に出席している間、アレクシスはセリーナとともに王宮の庭を散策したり、夜遅くまで自室で語り合ったりしている。ときどきセリーナは、ナタリーの前で「殿下とこんなに仲がいいのは私だけですわ」と言わんばかりに微笑むことさえあった。


 ナタリーはそのたびに、自分が何のために王妃として存在しているのか分からなくなる。

 公式の場では王妃として立派に振る舞い、王太子を支える。だが、王太子の私的な部分を満たすのはセリーナ。自分は愛されない王妃――いわば、形式上だけの装飾品。


 それでも、ナタリーは耐えた。

 家のためにも、王妃としての責任を果たすべきだと思ったからである。王宮では、彼女の気丈な姿勢を「冷たい女」と揶揄する声があったが、彼女は笑顔で受け流した。そうするしかなかった。


 しかし、王宮の人間は残酷だ。

 ナタリーがどんなに王妃の務めを果たしても、彼女を快く思わない者たちは「殿下から愛されていない王妃」と揶揄し、セリーナと比較して嘲笑する。


「殿下はあの方(セリーナ)に首ったけのようですわね。王妃様はお気の毒」

「愛されない王妃なんて、ただの置物でしょう」


 侍女の誰かが陰でそんな噂をしているのを、ナタリーは耳にしてしまった。

 彼女は涙をこらえながら、薄暗い廊下を一人で歩く。広大な王宮は、あまりにも冷たい。


 夜、ナタリーは自室に戻り、一人でベッドに腰掛けると深い呼吸をする。

 ここには、旦那であるはずのアレクシスは来ない。彼は愛人の部屋で夜を過ごしている――誰もが知る事実だった。


「私、王太子妃だよね……?」


 自嘲するように小さく呟く。

 いったい、何のために結婚したのか。こうなると分かっていれば、あの時に婚約を破棄する道もあったのではないか――そんな思いが頭をよぎる。


 だが、後悔したところで、すでに引き返せない。王妃になった以上、家も、そして自分自身も、もう逃げ道はない。


 こうして、ナタリーは「白い結婚」における王妃としての日々を過ごし続けた。

 愛のない夫婦生活、愛人に奪われた夫の心、そして周囲からの嘲笑――それでも彼女は、必死で耐え抜こうとする。自分の人生がこれで終わるわけではないと、そう信じていた。



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1-4 王妃失格の烙印


 王妃としての生活が始まって半年ほど経った頃、決定的な事件が起こる。

 それは、セリーナと王太子アレクシスが仕組んだ、あまりにも露骨な罠だった。


 ある夜、王宮の大広間で貴族を招いた宴が開かれた。王妃ナタリーもホステスとして参列し、笑顔で来賓を迎え、振る舞いに気を遣っていた。大きなシャンデリアの下で、美しく着飾った貴族たちが集い、音楽とワインを楽しむ。ナタリーはその中心で、王妃としての責務を全うしていた。


 ところが、宴の中盤、セリーナが突然大声で叫んだのだ。

「きゃあああっ! 何てことをなさるのです、王妃様!」


 その場の全員が息を呑んだ。ナタリーは驚いて振り向く。

 見ると、セリーナがワインをかぶったまま、床に倒れ込んでいた。彼女のドレスは濃い赤色に染まっている。ワインをこぼした犯人は、どうやらナタリー――という体になっていた。


 もちろん、ナタリーはワインなどこぼしていない。気づいたときにはセリーナが悲鳴を上げ、周囲が大騒ぎになっていたのだ。


 しかし、セリーナは泣き顔で周囲に訴える。

「王妃様が、私にわざとワインをかけたのです……!」


 その瞬間、アレクシスが立ち上がり、ナタリーを睨みつけた。

「お前……なんという無礼を……!」


 ナタリーは混乱しながら必死に否定する。

「ち、違います! 私は何も――」


 だが、アレクシスはナタリーの言葉を聞こうともせず、セリーナを優しく抱きしめた。

「大丈夫か、セリーナ。怖かっただろう」


「はい……王妃様がいきなりワインを……。私、何かお気に障ることをしたのでしょうか……」


 その光景を見た貴族たちは一斉にヒソヒソとささやき始める。

「まさか、王妃様が嫉妬で……?」

「王太子殿下のお気に入りをいじめるなんて……」


 ナタリーは必死で真実を訴えようとするが、誰も耳を貸さない。

 アレクシスがそう望んでいるからだ。王太子の意向に逆らう者などいない。


「お前は王妃としての品格を欠いている」

 アレクシスは冷酷な声で言い放ち、ナタリーに向けて指を突きつける。

「これでは、王宮の秩序を乱す存在でしかない。国民の目がある前で、愛人を傷つけるとは……愚かな女だ」


 ナタリーは言葉を失った。どう弁解しても、今この場では無駄だと分かったからだ。

 宴の来賓たちも、あからさまにナタリーを冷たい目で見る。既にこの場は、ナタリーが罪を犯したことになっている。


「王太子妃としての務めを果たせないのであれば、このまま王宮にいてもらう必要はない」

 アレクシスの言葉は、宣告にも等しかった。

「――お前には、しばらく王宮を出て頭を冷やしてもらう」


 それは、事実上の追放に等しい処分だった。


 周囲からの視線が痛いほど突き刺さる。セリーナはアレクシスの腕の中で、震えるふりをしながら勝ち誇った笑みを浮かべていた。


(……私が何をしたと言うの。何もしていないのに、こうして罪を押しつけられて……)


 ナタリーは悔しさと虚しさで胸がいっぱいになった。言い返せない自分が歯がゆい。周囲の誰一人、自分を信じてくれない現実が苦しかった。


 こうして、ナタリーは正式に「王妃失格」の烙印を押され、王宮を去ることになった。

 結婚してから半年、愛されることなく、ただ務めを果たそうとした結果がこれだ。


 ナタリーは、わずかばかりの荷物をまとめると、王宮の門を出た。侍女も護衛もつけられず、まるで罪人のように放り出される。王太子妃であったはずの彼女は、一夜にして何もかもを失ってしまったのである。


 だが、不思議とナタリーの心は静かだった。

 深い傷を負っているのは確かだが、絶望の淵にあるはずなのに、どこか安堵の感情も混じり合っていた。


「やっと……自由になれたのかもしれない」


 追放されたという事実は、彼女にとって同時に「名ばかりの結婚からの解放」を意味していた。

 愛されない夫に仕え、嘘の笑顔で王妃を演じ続ける日々が、ようやく終わったのだ。


 行くあてもない。だが、ナタリーは自分の足で立ち、前を見据える。

 これまでの人生で、彼女は自分の意思で何かを決めたことなどほとんどなかった。周囲に期待され、王太子妃として仕え、そして捨てられた――その連続だった。


(ならば、これからは私の意思で生きてみよう)


 そう決意しながら、ナタリーは長い石畳を歩き出した。

 冷たい風が吹き、彼女の金色の髪を揺らす。かじかむ指先を握りしめて、進んでいく先に何があるのかは分からない。だが、どんなに過酷な道であっても、あの王宮の幽閉よりははるかにマシだ――そう感じられるほどに、彼女は絶望を味わったのだ。


 これが、ナタリー・ヴァレンタインの「白い結婚」の終わりであり、新たな物語の始まりだった。


 これから先、彼女の前にどんな運命が待ち受けているのか。そのときのナタリーは、まだ知る由もなかった。


 しかし、彼女の胸には一つだけ確かな思いがあった。

 ――私は、もう二度と「愛のない結婚」には囚われない。

 いつか本当に自分を尊重してくれる人と出会い、今度こそ「白」ではなく、温かな色の結婚を掴んでみせる――。


 そう決めたとき、ナタリーの背中を、まるで祝福するかのように朝日が照らしていた。



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