2-1 宮廷からの追放
ナタリー・ヴァレンタインが王宮を追放された日は、皮肉にも空が澄み渡るほど晴れていた。
王宮の荘厳な門から外へ出た彼女は、薄いマントを身にまとい、冷え込む朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。胸の奥に残るのは、悔しさ、虚しさ、そして微かに混じる安堵。愛されない結婚、嘲笑と陰口に塗れた王妃生活。そんな日々から解放されたと思うと、決して小さくない喪失感を抱きながらも、不思議な開放感があった。
しかしながら、それは同時に“身ひとつ”で世に放り出されることを意味する。
王太子妃という肩書を失った瞬間、ナタリーにはなにも残らなかった。両親のもとへ帰ることを考えはしたが、実際に侯爵家が彼女を受け入れてくれるかどうかは分からない。なにせ、王宮から放り出された“王妃失格”なのだ。下手をすれば、家ごと王家の怒りを買ってしまう可能性がある。
とはいえ、いきなり街で生活していく手段も思いつかない。まずは侯爵家へ向かって両親に事情を説明し、今後のことを相談しよう——そう決め、ナタリーは石畳を歩き出す。
王都の中心部へ向かう道は、早朝ということもあり人通りがまばらだった。時折、商人が荷馬車を押して通り過ぎていく。王宮の門から伸びるこの大通りを、ナタリーはかつて何度も馬車で往復してきた。王太子妃の身分として——しかし、今日は馬車などない。自らの足で進むしかないのである。
歩くたびに、ドレスの裾がわずかに汚れ、靴は砂埃でくすむ。王宮での生活がいかに“守られた檻の中”だったかを、今さらながら思い知らされるようだった。
そうして数十分ほど歩き、ようやくヴァレンタイン侯爵家の屋敷が見えてきた。大きな門と広々とした庭園は、王都でも随一の格式を誇る。かつてナタリーは、ここで平穏な少女時代を過ごしたのだ。
門の前に立つと、衛兵が怪訝そうにナタリーを見つめる。王宮の侍女や馬車を伴っていない彼女の姿は、まるで見知らぬ来訪者のように映ったのかもしれない。
「……お嬢様、ですか?」
衛兵の一人が、驚いた口調で尋ねる。ナタリーは小さく微笑み、けれどもどこか心細そうに答えた。
「ええ、ただいま戻りました。父上か母上にお会いしたいのですが、通していただけますか?」
衛兵たちは互いに顔を見合わせ、やがて門を開けてくれた。彼らもナタリーが追放された噂くらいは耳にしているだろう。それでも彼女を屋敷に入れないわけにはいかない。ヴァレンタイン家の“元”嫡令嬢なのだから。
屋敷の玄関ホールに案内されると、執事と思しき初老の男が足早にやってきた。
「ナタリーお嬢様……お戻りとは、なんと申してよいのか……」
どこか気まずそうな顔で言葉を濁す。ナタリーは息苦しさを覚えながらも口を開いた。
「ご無沙汰しております。父と母はおいででしょうか? ぜひお話ししたいことがあるのです」
執事は少し渋ったような表情を浮かべたが、「少々お待ちを」と言って奥へ消えた。ナタリーは玄関ホールで待たされる。そのホールは、彼女が幼い頃と変わらず豪奢なシャンデリアが吊り下がり、絨毯が敷かれている。けれども、それがかえって今の自分と家との距離を象徴しているようで、ナタリーには冷え冷えとした気持ちになった。
やがて執事が戻ってくるが、その表情は浮かない。
「……ご両親は、今日の昼過ぎまで外出の予定があるとのことです」
「そう……では、戻られるまで待たせてもらえませんか? 私、もう行くあてもないのです」
ナタリーがそう頼むと、執事はさらに困ったように眉を寄せる。
「ですが……旦那様は、お嬢様を屋敷に入れるなというご意向を示しておりまして……」
脳裏が真っ白になる。思わずナタリーは聞き返した。
「私を、入れるな……? ど、どういう意味なの?」
「私も詳しくは……ただ、先日、『万が一ナタリーお嬢様が戻って来ても、家の中に入れるな。関わり合いになれば、王家から睨まれかねない』と仰せで……」
つまり父は、娘が追放される可能性を聞き及んだ時点で、“帰ってきても面倒は見ない”と決めていたのだ。家を守るためには、王家と敵対しうる存在を排除せねばならない。そんな打算があったのかもしれない。
ナタリーは震える唇を噛んだ。
「父は、そんなにも王家の顔色を……。確かに、私が帰ってきたら、ヴァレンタイン家全体への処罰があるかもしれない。でも、私は……」
自分は何も悪いことなどしていない。追放のきっかけとなった出来事も、セリーナの狂言でしかない。だが、王太子の意向がそうである以上、真実など関係がないのだ。父はそのことを理解しているからこそ、ナタリーを切り捨てようとしている。
ひどいとは思う。しかし、それが貴族社会の現実でもある。
執事がすまなそうに頭を下げる。ナタリーはそんな彼に、無理を言うことはできなかった。
「……分かりました。父と母に、もう一度会いに来ます。でも、今日はいったん帰ります。いえ、もう“帰る家”ではないのかもしれませんけれど」
なんとか笑顔を作ろうとしたが、虚しく歪むばかりでうまく笑えなかった。執事もまた胸を痛めているのか、それ以上は何も言わずに背を向ける。
こうして、ナタリーは実家の門を再び潜り出ることになった。戻ってきたときと同じ大通りに立ち尽くし、重い吐息をつく。自分の両親でさえも、追放された娘を受け入れることを拒んでいるのだ。これでは、もはや王都でナタリーの居場所はないに等しい。
ならば、どこへ行けばいいのだろう。
今さら他の貴族に助けを求めても、王家に刃向かうと思われるリスクがある以上、門前払いされるのがオチだろう。ナタリーは生まれて初めて、まったく宛のない放浪の身となったのだ。
だが、だからといって王都を出る勇気もまだない。
王都以外の場所、すなわち地方や外国に行ったとして、どんな生活が待っているというのか。ナタリーはまだ十代後半とはいえ、外の世界をまったく知らない。その日暮らしの農民になろうにも、農作業などやったことがない。
「……とりあえず、夜までには宿を探さないと」
ナタリーは呟き、重い足を引きずるように歩き出す。
ふと、王宮にいたころは当たり前に感じていた「水」と「食事」を得ることが、こんなにも大変なことだとは思いもしなかった。
こうして始まったナタリーの追放生活は、容赦のない現実を容赦なく突きつける。今まで彼女を守ってくれた王家の威光も、実家の家名も、何ひとつ役に立たないのだ。
そしてこの日の夕刻、彼女はあるきっかけで、王都の闇と光を同時に知ることになる。それが、思いがけない出会いへとつながっていくのだが、ナタリーはまだ知る由もなかった——。
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2-2 失った自由と手に入れた自由
王都の街路は、日が沈むとともに活気を失い始める。人通りが激減し、家々は窓を閉ざし始め、屋台などもさっさと店を畳む。王宮周辺は衛兵の巡回が厳重だが、少し外れた区域になると治安はあまり良くない。ナタリーはそんな区域の一つに足を踏み入れてしまっていた。
実家にも泊まれず、当てにしていた貴族の知人にも門前払いされ、そこからなんとなく歩き続けているうちに、王都の裏通りへと迷い込んでしまったのだ。
昼間はまだ活気があった通りも、夜になると街灯の明かりが頼りなく揺らめくだけで、人の気配がほとんどない。ナタリーは足早に歩きながら、宿屋らしき建物を探そうとするが、看板らしい看板が見当たらない。
「どうしよう……」
追放されてまだ一日。すでに絶望感が膨らんできていた。
そもそも身分を示す書類も、滞在費を支払うだけの金銭も、ほとんど所持していない。王妃としての生活は衣食住が王宮持ちだったため、個人資産はわずかしかなかったのだ。それも追放時に慌てて掴んだ小袋の中にあるだけ。これで何日過ごせるだろうか。
このままでは夜露をしのぐ場所もなく、野宿する羽目になるかもしれない。ナタリーは夜道を進みながら、思い詰めた表情で唇を噛んだ。
(王宮にいた頃は、たしかに辛いこともあった。でも、少なくとも屋根のある部屋で寝られたし、衛兵だって守ってくれた。いまはすべて失ってしまった……)
その一方で、自分の意志で動いているという実感が、ほんの少しだけ安堵を与えてくれる。誰かに命じられるのではなく、自分で考えて行動する。こんな当たり前のことすら、ナタリーにとっては初めての経験だった。
だが、今はそんな感慨に浸っている余裕はない。
裏通りの一角で、ようやく古ぼけた看板を見つけた。そこには「宿」という文字が書かれている……ように見えるが、字がかすれていてはっきりしない。
ナタリーは意を決して扉を押し開ける。すると、薄暗い照明の下、カウンターに初老の男性が座っていた。
「す、すみません、今宵一晩だけでも泊まることはできますか……?」
震える声で尋ねると、男性はちらりとナタリーを見やった。彼女が貴族の出であることを察したのか、やや訝しげな目つきを向ける。
「……あんた、お嬢さん……こんなところに来るなんて物好きだね」
「いえ、あの、行く当てもなくて……少しだけお金はあります」
ナタリーが小袋を示すと、男性はフッと鼻を鳴らした。
「いいだろう。部屋は空いてる。ただし、安宿だからな。上質なベッドとか、期待するなよ」
なんとか宿を確保できたことに、ナタリーはほっと息をついた。金額を払い、簡素な鍵を受け取ると、薄暗い階段を上がって指定された部屋へ向かう。
ドアを開けると、狭い空間にベッドと小さな机が置かれているだけ。窓は小さく、外灯の明かりがわずかに差し込んでいる。
「……贅沢は言えないか」
王宮の豪華な寝室とは比べようもないが、雨風をしのげるだけでもありがたい。ナタリーはベッドに腰を下ろし、荷物を床に置いた。深呼吸しようとしたが、埃っぽい空気にむせそうになる。
それでも、自分の意思で得た寝床という事実が、わずかながらの達成感を与えてくれた。この部屋がどんなにみすぼらしくても、王宮の“幽閉”とは違う自由がある。ナタリーは目を閉じ、自分を励ますように小さく呟いた。
「大丈夫、私は一人でも生きていける。……きっと、なんとかなるわ」
その夜、ナタリーはベッドに横たわりながら、王宮での屈辱の日々を回想した。
愛のない結婚。王妃の座を剥奪されるように追放された屈辱。親にすら見放された孤独。でも、それらを思い返すたびに、不思議と心が軽くなるような感覚があった。
——私は、もう誰の命令にも従わない。自分で考え、自分で生きる。
翌朝、宿の主人に頼んで簡単な朝食を取った後、ナタリーは王都の街を歩き回った。仕事を探そうと思ったのだ。どんな仕事でも構わない。ただ、ずっとこのまま部屋に閉じこもっていてはお金も尽きる。
だが、いざ仕事を探そうにも、貴族令嬢として育ったナタリーには職業経験など一切ない。市場で野菜を売るにしても、文字が読める人手が要る文官の仕事を探すにしても、彼女にとっては未知の領域だ。
「うちは雇えませんよ。貴族の娘さんなんて扱いきれない」
「王太子に追放された女なんかを雇ったら、こっちが睨まれる」
そうした断りの言葉を何度も聞かされ、ナタリーは肩を落とす。
追放されたという噂が早くも街に広まっているのかもしれない。人々の視線がどこか冷たく感じられる。
「これが、失った身分の重さ……」
ひとたび王家の庇護を失った瞬間、ナタリーはなにもできない無力な存在になってしまった。それでも、諦めるわけにはいかない。夜までには今日泊まる宿をまた探さなければならないのだ。
そんな焦りを抱えたまま、彼女は王都の大通りを歩き回る。ちょうど昼下がりの時間帯で、人混みが最も多い。道端には露店が並び、行商人や旅人、貴族の馬車が行き交う。視界に入るすべてが慌ただしく動き、ナタリーはその雑踏に呑まれそうになった。
これまで、ナタリーは馬車の窓越しにしか見なかった世界を、今は自分の足で歩いている。その事実が示すように、彼女はもう“王妃”でも“侯爵令嬢”でもない。ただのひとりの人間だ。
失ったものは大きい。しかし、同時に得たものもある——そう思いたかった。
自由。束縛されない生き方。だが、その自由がどれほど過酷なものかも、彼女は同時に痛感し始めている。
やがて夕方になり、ナタリーはまたしても途方に暮れそうになる。今日も有力そうな職や貴族の推薦は得られなかった。金銭はすり減る一方。せめて次の宿代を確保しなければ、夜露をしのぐことすらできない。
「……どうすればいいの……」
不意に、足元がふらつく。朝からほとんど何も口にしていない。王妃の頃は当たり前のように出されていた三度の食事を、今は自分で賄わなければならないという現実がここにもあった。
そんなナタリーに、思わぬ声がかかるのは、ちょうど暮れかけた街角だった。
「そこのお嬢さん、ずいぶんお疲れの様子だな。大丈夫かい?」
低く、落ち着いた声。彼女が顔を上げると、そこには黒いマントを羽織った男が立っていた。毛並みの良い黒馬を連れ、まるで闇に溶け込むような雰囲気を漂わせている。貴族の雰囲気はあるものの、その姿はどこか普通の貴族とは違う気配をまとっていた。
ナタリーは警戒心を抱きながらも、相手の威圧感に呑まれ、思わず言葉を返す。
「だ、大丈夫です。ご心配なく……」
しかし、男は微かに笑みを浮かべると、彼女を観察するようにじっと見つめた。
「君、貴族の出身だろう。いまは何をしている? さっきから仕事を探しているようだが、上手くいっていないようだね」
自分の行動を見られていたのか。ナタリーの胸に警鐘が鳴る。とはいえ、ここで嘘をついても仕方がない。正直に言うしかなかった。
「……私は、追放された身です。仕事を探していますが、どこにも雇ってもらえなくて……」
「なるほど。追放された貴族令嬢、ね。ふむ、聞いたことがある。王太子の妃が追放されたという噂を」
男の瞳が、夜の闇を帯びるかのように冷たく光る。ナタリーは身を竦ませた。
(この人、いったい何者……? わざわざこんな場所で声をかけてくるなんて)
しばしの沈黙が流れる。周囲を行き交う人々も少なくなり、二人きりの空間のように感じられた。男は黒馬の手綱を引きながら、ゆっくりとナタリーに近づく。
「君、ナタリー・ヴァレンタインだろう。名前も知っているよ。そう警戒しなくてもいい。私は君に害をなすつもりはない」
「……なぜ、私の名前を?」
「王太子の“白い結婚”の相手だという話は、貴族社会では有名だったからね。私も、噂くらいは耳にしていたさ。愛されなかった王妃が追放された、と」
その言葉に、ナタリーは思わず顔を背ける。
そこまで知られているとなると、もはや王都中に自分の存在は知れ渡っているに違いない。それでも、この男はあからさまな蔑視の態度を示すわけではなく、むしろ興味深そうに見つめてくる。
「さて、ナタリー。君は今後どうするつもりだ?」
問いかけに、ナタリーは曖昧に首を振るしかない。
「分かりません……今日の宿すらまだ決まっていないのですから」
「ならば、うちで働かないか?」
その言葉に、ナタリーは思わず相手の顔を見上げた。
「え……?」
男は何かを思いついたように微笑む。だが、その微笑みはどこか冷たい光を含んでいるようにも見えた。
「簡単な話だ。君には頭脳と教養があるだろう。どうやら経済や貴族社会の礼儀作法にも精通しているらしい。そういう人材を探していたところなんだ。もし君が望むなら、私のもとで顧問のような形で働いてほしい」
「そ、そんな。私にできることでしょうか」
もちろん貴族教育は受けてきた。しかし、追放されてしまった以上、その知識がどこまで通用するのか——ナタリーは自信がなかった。
すると、男は一歩近づき、その冷徹な瞳をさらに研ぎ澄ませながら言う。
「君の能力を生かす場はある。……私の名を教えておこう。私はエドモンド・ヴァーレン。公爵の位を持ち、王宮とはやや距離を置いている立場だ」
ヴァーレン公爵家。ナタリーもその名を聞いたことがある。王宮の行事にはあまり姿を見せないが、莫大な資産を有し、政界にも裏から影響力を持つ一族だという噂があった。
「公爵……そんなお方が、どうして私なんかに……」
「追放された君が、今さら王宮に戻るのは難しい。だが、私の手元で働けば別だ。私は王太子とも癒着はしていないし、君の過去を責めるつもりもない。むしろ、王太子やその愛人を失脚させたいと思っている口だ」
ナタリーは思わず息を呑む。失脚……つまり、エドモンドは王太子アレクシスやセリーナに恨みを抱いているのかもしれない。そして、そのために彼女——追放された元王妃——を利用しようという意図があるのではないか。
もちろん、そんな思惑に巻き込まれることを恐れる気持ちはある。だが一方で、彼女は自分がどれだけ追い詰められているか、嫌というほど理解していた。
(ここで公爵の提案を断ってしまったら、私はどうなるの? また明日も仕事を探して街をさまよい、宿代が尽きたら路頭に迷う……?)
それはあまりにも無謀だ。
ナタリーは公爵の顔を見据え、決心を固めるように唇を引き結んだ。
「……私にできることがあるのなら、ぜひやらせてください。ただ、私は本当に無力な存在です。あなたにご迷惑をかけるかもしれません」
「覚悟があるなら、問題はない。それに、君ほどの才覚があれば十分通用する。おそらく、王宮で培った知識や素養は私にとって貴重な財産となるだろう」
エドモンドの言葉はどこか確信に満ちていた。まるで、最初からこうなることを見越していたかのように。
「では、今から私の屋敷に来い。部屋も用意してやる。それなりの待遇はするつもりだが、当然ながら仕事の成果が求められる。よろしいか?」
ナタリーの胸に迷いがないわけではない。しかし、もう他に選択肢はないと悟っていた。公爵の言う「仕事の成果」が何を指すのか、そして彼がどんな目的で王太子の失脚を望んでいるのかは分からない。
それでも、ナタリーは暗い夜道の中で、唯一差し伸べられた手を取る以外に道はなかったのだ。
「……はい。お世話になります」
ナタリーは深々と頭を下げ、黒衣の公爵への従属を誓う。
これが、彼女にとっての“もうひとつの契約”の始まりだった。愛のない婚姻から追放され、今度はどんな運命に巻き込まれていくのか——。
しかし、今のナタリーにはそれを考える余裕すらなかった。
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2-3 黒衣の公爵との出会い
エドモンド・ヴァーレン公爵の屋敷は、王都の外れに近い高台にあった。
王宮周辺の貴族街とは一線を画す場所でありながら、豪勢な門構えと広大な敷地は明らかに高位貴族のものであることを示している。
ナタリーは黒馬に乗ったエドモンドの後を追うように、屋敷の前に到着した。門を開けると、丁寧な身なりをした執事らしき老人が出迎える。
「お帰りなさいませ、エドモンド様。それと……お客様ですね?」
「客というよりは、今日から私のもとで働いてもらう女性だ。ナタリー・ヴァレンタイン。部屋を用意してやってくれ」
執事は驚いたように目を見開いたが、すぐに深々とお辞儀をする。
「かしこまりました。……ナタリー様、こちらへどうぞ」
ナタリーが執事の後に続いて門をくぐると、鬱蒼と茂る庭園があり、その奥に黒い屋敷が建っているのが見えた。黒い石造りの壁が月光を遮り、どこか重厚な雰囲気を醸し出している。
王宮とは異なる威圧感に、ナタリーは圧倒されるような思いだった。
(同じ貴族の屋敷でも、ずいぶん趣が違うものね……)
玄関ホールに足を踏み入れると、思いのほか内装は洗練されていた。黒と金を基調とした調度品が並び、壁には異国風の絵画がかけられている。照明はやや暗めで、しんと静まり返っていた。
「夜が遅いので、案内は簡単で構わない。ナタリーを自室に通してやれ」
後ろから声が聞こえ、ナタリーは振り向く。そこにはエドモンドが立っていた。
「お前の仕事は、私の顧問だ。表向きには『ヴァーレン公爵家の秘書』という扱いになる。王都の人間関係や貴族の動向、政治の裏事情など、君が王宮で培った知識を生かしてもらうつもりだ」
「私に、そんな大役が務まるのでしょうか……」
「務まらなければ追放するだけだ。だが、おそらく問題はないだろう」
淡々としたエドモンドの言葉に、ナタリーは一瞬だけ胸の奥が疼く。追放——その言葉は、まだ彼女にとって忌まわしい記憶を呼び起こす。
だが、ここで怯えては何も始まらない。ナタリーは意を決して問う。
「公爵様は、私に何を期待しているのですか?」
エドモンドは薄い笑みを浮かべ、微かに肩をすくめた。
「さっきも言った通りさ。王太子の失脚……あるいは、彼を取り巻く貴族たちの勢力を崩すことに興味があるんだ。私個人の復讐と言ってもいい。君には、その手助けをしてもらうことになるだろう」
「復讐、ですか……」
王太子アレクシスと愛人セリーナの顔が脳裏に浮かぶ。ナタリー自身も、彼らに対して強い怒りと憎しみを抱いているのは事実だった。でも、ただ追放されただけの自分が、彼らに復讐するなど考えもしていなかった。
(私は何がしたいのだろう……。王太子に仕返しがしたいわけではない。ただ、あの理不尽な扱いを受け続けた挙句、何もかも失った悔しさはある。もし、私があの人たちに対してできることがあるとすれば……)
ナタリーが逡巡していると、エドモンドはわずかに目を細める。
「君は被害者だ。それを思えば、私と利害が一致しているとも言えるだろう。もちろん、やりたくないなら強制はしない。だが、その代わり私の屋敷にいる資格も失うことになる」
つまり、助けを得るならエドモンドの意図に協力しろということだ。
ナタリーは数秒間考え込み、やがてはっきりと頷いた。
「……分かりました。私にできることがあれば協力します。王妃として勉強したこと、すべてあなたに捧げます」
その言葉に、エドモンドは初めて満足そうに微笑む。
「いいだろう。期待しているよ、ナタリー・ヴァレンタイン」
こうして、ナタリーは黒衣の公爵——エドモンド・ヴァーレンと不可解な契約を結ぶことになった。
愛のない結婚から追放された先で、彼女は今度こそ真の自分らしさを取り戻せるのか。それとも、新たな陰謀に絡め取られてしまうのか。
夜の帳が屋敷を覆うなか、ナタリーは執事に案内されて二階の一室へ通される。そこは王宮ほど豪華ではないが、落ち着いた内装の寝室で、十分に快適な家具が揃っていた。
「こちらがナタリー様のお部屋になります。今後はここでお休みくださいませ。着替えや必要なものがあれば、お申し付けください。公爵様の指示で、できる限りの対応をさせていただきます」
執事の丁寧な言葉遣いから、エドモンドがそれなりにナタリーを客人(あるいは準ずる立場)として遇しているのが分かる。
「ありがとうございます。急に押しかけたというのに、すみません」
ナタリーが頭を下げると、執事は微笑み、部屋を出て行った。
部屋に一人残されると、ナタリーはふと窓の外を見やる。
王宮にいた頃とは違う、冷たいが澄んだ夜風がカーテンを揺らす。そこには、ただ静寂が広がっていた。
「私は、これからどうなるのだろう……」
自問しながら、ベッドに腰を下ろす。追放され、宿もなくさまよった末に辿り着いたのが、この黒衣の公爵の屋敷だ。まだ何も分からないし、エドモンドの真意も読めない。
だが、確かなのは、少なくとも今夜はここでゆっくり休めるということ。
王太子妃だった頃、いくら豪華な寝室があってもナタリーの心は休まらなかった。愛人に夫を奪われ、“白い結婚”の名のもとに孤独を強いられたあの日々。
「私は、やり直せるの……?」
呟く声は誰にも届かない。
けれども、これまでとは違う一歩を踏み出そうとしている自分を、ナタリーは感じ取っていた。王宮では見えなかった未来が、この屋敷の暗闇の奥で待っているかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなる気がした。
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2-4 新たな契約
翌朝、ナタリーは早めに目を覚まし、屋敷の廊下を静かに歩いていた。昨夜は疲れが溜まっていたのか、意外にもぐっすり眠ってしまったようだ。
部屋を出ると、執事がナタリーを待っていたらしく、丁重に挨拶をしてくる。
「ナタリー様、おはようございます。朝食の準備が整っております。公爵様がダイニングでお待ちですので、ご案内いたします」
ナタリーは少し緊張しながら「お願いします」と答えた。王妃の頃も、王太子アレクシスと食事を共にする機会などほとんどなかった。今度はどんな雰囲気なのか、予想がつかない。
ダイニングルームに入ると、大きなテーブルの中央にエドモンドが座っていた。暗い色合いのジャケットを着こなし、まるで王宮のような高貴な姿というよりは、黒い鷹のような鋭さを纏っている。
「来たか。座れ」
エドモンドは短く言い、ナタリーは遠慮がちにテーブルの一端へ座った。すぐに給仕が紅茶と軽い朝食——パンやスープ、果物などを並べていく。
エドモンドは食事の手を止めずに口を開く。
「まずは、私の屋敷の規則について説明しよう。君は“秘書”という形で私の仕事を補佐する立場になる。具体的には、貴族社会の情報収集、文書の作成、時には私の代理で交渉の場に赴くこともあるかもしれない」
「はい……。私で務まるでしょうか」
「貴族同士の礼儀作法や、王宮の政治事情に明るい者はそう多くない。君ならば問題ないはずだ。むろん、実際にやってみて判断するがね」
ナタリーはパンを一口かじりながら小さく頷く。
(今まで王妃として学んだことが、ここで生きるなんて……。でも、何もできないよりは、ずっといいわ)
エドモンドは淡々と話を続ける。
「もう一つ。私の目的は、王太子アレクシスとその取り巻きを失脚させ、ひいては王国の権力構造を変えることだ。君が追放された経緯を考えれば、協力してくれるだろう?」
「……そうですね」
ナタリー自身、アレクシスやセリーナに対して恨みがないと言えば嘘になる。ただ、それを具体的にどう晴らすのか、までは想像が及ばない。
「もちろん、ただ利用するだけではない。成果を上げれば、それ相応の報酬を支払おう。君自身が新たな人生を築くための力となるはずだ」
「報酬、ですか……」
「金銭であり、人脈であり、あるいは地位かもしれない。君が何を望むかは分からないが、いずれにせよ君にとって損のない話だろう」
エドモンドは口元に微笑を浮かべる。その笑みはどこか冷淡にも見えるが、同時に彼なりの誠意であるようにも感じられた。
ナタリーは少し考え、問いかける。
「私が望むもの……。正直に言うと、今は何が欲しいかすらよく分かりません。ただ、できることならば、自分の足で生きていけるだけの力が欲しいです」
「それなら、なおのこと私のもとで働くといい。君の才覚を示せば、その力は手に入るだろう」
そう言われ、ナタリーは改めて決意を固める。
(私が王太子のもとで学んだ知識を、自分の意思で使えるなんて。これは大きなチャンスなのかもしれない。追放された私に、こんな機会が与えられるなんて思いもしなかった)
朝食を終えると、エドモンドはナタリーを書斎へと連れていった。そこには大きな机と大量の書類が並び、まるで王宮の一室を思わせるほど整理されている。
「ここが君の仕事場だ。まずは、この国の現状を把握するために必要な資料を読んでもらう。君は王太子妃だったから、ある程度は知識があるだろうが、私が掴んでいる情報とは温度差があるかもしれない」
机の上には、王国内の主要貴族の相関図や、各領地の経済状況を示す書類、さらに近隣諸国との外交情報などが整然と並べられていた。ナタリーはその量に少なからず驚く。
「こんなに詳細な情報……どうやって手に入れたのですか?」
「私なりのコネと、人脈があるのさ。王太子やその取り巻きよりも、ずっと広く、そして深い部分に。君にはまず、これを読み込んで理解してもらいたい。それから、私の狙いを具体的に説明しよう」
ナタリーは敬意すら覚えながら書類に目を走らせる。そこには貴族たちの嗜好や弱点、領内の不満や癒着の実態、さらには王宮の資金の流れまでもが細かく記されていた。
王太子や王妃教育の中で得た知識はあくまで“表面”に過ぎなかったのだと、今さらながら痛感する。
「まるで……これでは王宮の中枢を操れるほどの情報量ですね」
「そのために集めたのだからな。私は、この国があまりにも王太子を中心とした旧貴族勢力によって腐敗していると思っている。その体制を変えるために、手段は選ばない」
エドモンドの目に宿る感情は、野心とも言えるし、復讐心とも言えるかもしれない。だが、それが純粋な悪意から来るものなのか、それとも国を変えたいという正義感なのか、ナタリーにはまだ判断がつかなかった。
「……私は、ただあの人たちに、自分の身勝手さを思い知らせたい。あの“白い結婚”で私を縛り、挙句に追放した理不尽を、そのまま許していいとは思えません」
ナタリーは書類に視線を落としながら静かに言う。
アレクシスとセリーナがどうなろうと、自業自得だと思えるほどの恨みが自分の中にある。それだけの思いを抱かせたのは、紛れもなく彼らの仕打ちだ。
「その気概があるなら、十分だ。私は君を“道具”とは思わない。君は君の意思で動けばいい。ただ、協力関係を結ぶ以上、私の方針には従ってもらう必要がある」
エドモンドの声に、ナタリーは微笑みで応える。
「分かりました。……よろしくお願いします、エドモンド様」
こうして交わされた契約は、ナタリーにとっての新しい人生の始まりでもあった。
追放という傷を抱えながら、彼女はここで自分の力を発揮しようと決意する。国を変える大きな陰謀の片鱗が、すでにこの黒い屋敷の中で動き始めているのだろう。
かつての「白い結婚」は、名ばかりの夫婦生活だった。だが、今度は“契約”という形で結ばれた関係。しかし、その内実は、王太子との婚姻生活よりもずっと濃密で、互いの目的を共有する強固な絆になり得るかもしれない。
ナタリーは書類を抱え、深呼吸してから机に向かう。
——ここから、自分の物語を取り戻すんだ。そう胸に誓いながら、ペンを取った。
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