目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第2話 紫陽花のブーケ

 ー2ヶ月前


 倫子と洋介の結婚式披露宴は金沢市で有名なラグジュアリーホテルで盛大に行われた。煌きらめくシャンデリア、濃紺の絨毯。ざわめきの中、お久しぶりでございます、お世話になっておりますと、親戚や来賓が席次表を片手に挨拶を交わし着座していた。その扉の外には倫子と洋介が出番を待っていた。倫子が見上げると洋介は緊張の表情で、腕を組んだ肩に力が入っていた。彼女がその頬をつねると、洋介は頭を掻きながらはにかんだ。


「どきどきしますね」

「倫子ちゃんは平気なの?」


 不安げな表情の洋介は倫子の顔を覗き込んだ。倫子は洋介の優しさに惹かれたはずだったが、最近は、披露宴の引き出物すら決められない彼の優柔不断さに苛立つ瞬間が増えていた。本当にこれでいいのかと、彼女の心は一瞬揺れた。


「私も緊張しています」

「僕、もう倒れそうだよ」


 洋介は緊張で震える手を倫子の手にそっと重ね、『僕、頑張るよ』と小さく笑った。そして、倫子ちゃん。動かないで、紫陽花のヘッドドレスについた、かすみ草の葉を摘んだ。この優しさと気遣いは、倫子の迷いを打ち消した。


「倫子ちゃん、とっても綺麗だよ」

「洋介さんも素敵です」


 ウェディングプランナーが、お時間になりました、と倫子に耳打ちをした。倫子の鼓動は激しく波打ち、大きく息を吸って深く吐いた。洋介の顔は強張っていた。


「洋介さん、しっかりして!」

「う、うん」


 扉の向こうの騒めきに、自然と背中が伸びた。


「では、新郎新婦さま、扉が開きます」

「はい」


 チャイコフスキーの花のワルツが大音量で流れ、披露宴会場の扉が大きく開いた。四方八方から照らすサーチライトに目が眩くらんだ洋介は怯み、その背中を倫子が支えた。ライトの残像が飛び交う蛍のように見えた。


「洋介さん、大丈夫ですか」

「ちょっとびっくりした」


 洋介の笑顔に微笑み返しながら、倫子は心のどこかで苛立ちを抑えた。披露宴会場に向かい深々と頭を下げると拍手が湧き起こった。親戚や友人の笑顔に見送られ、円卓の合間を縫い高砂席へと向かう。


 倫子と洋介が着座した。縁のある主賓の挨拶が始まり倫子と洋介は口角を上げながらお辞儀をしたり頷いたりと忙しない。乾杯となればまた席を立たねばならなかった。


 やがてヴァイオリンがバッハのG線上のアリアを生演奏で奏で歓談や余興が始まった。来賓の円卓には紫陽花をイメージした装花が彩りを添え、大勢のバンケットサービススタッフが手際よくフレンチのフルコースを配膳した。


「笑うのも疲れるね」

「そうですね」


 倫子の友人や洋介の会社の同僚たちの祝辞が続き、高砂に配膳されたソルベデザートが溶け始めた。


 親戚の挨拶が終わりひと息ついた。今度は倫子が通っている華道の師範が烏龍茶の小瓶を持って高砂に挨拶に訪れた。彼女は薄水色の加賀友禅の着物に豪華な帯を締めていた。本日はありがとうございます、倫子が深々と頭を下げると、師範は烏龍茶をコップに注ぎながら、洋介を一瞥した。


「倫子さんのご主人様、素敵な方ね。どこでお知り合いになられたの?」

「お見合いなんです。親戚に勧められて」


 師範の目が鋭く変わり、加賀友禅の色留袖の袖で口元を隠した。


「あらあらあら、お見合いならまだこれからね」

「これから、ですか?」

「お互い知らないことがたくさんあるんじゃない?」

「知らないこと、ですか?」


 意味深な言葉を残し洋介を一瞥した師範の背中に、彼は気分を害したような表情になった。普段は温厚な洋介にしては珍しく、倫子は不自然なものを感じた。大丈夫かと尋ねると、なんでもないよといつものように目を細めて肩をすくめた。彼女は安堵したが、やはり心のどこかに引っ掛かりを感じた。


「新婦様、お色直しでございます」


 倫子はウェディングドレスからカラードレスに着替えるため、席を立った。洋介は軽く手を振ったが、彼女はその笑顔をなぜか遠くに感じた。倫子の中にわだかまりが残った。洋介の顔色の変化に疑問を感じた彼女は紫陽花のブーケを強く握りしめた。


 披露宴会場を後にした倫子は新婦控室へと向かった。披露宴会場裏の長椅子には、見慣れた顔の男性が俯いていた。ウェディングプランナーは一瞬、その男性を洋介と見間違い、披露宴会場を振り返った。倫子は、双子のお兄さんなんです、と彼が新郎の兄であることを説明した。それでは少し外しますね、ウェディングプランナーは気を利かせてその場を離れた。


「あの」

「はい、なんでしょう」


 洋平とは結納の日以来の再会で、倫子は困惑した。紫陽花は色を変える。手にした紫陽花のブーケは、揺れる自分の心を洋平に見透かされているような気がした。倫子は洋介にはない、落ち着いた洋平の魅力に惹かれ始めていた。緊張で頬が赤らみ、ブーケを持つ手が震えた。ダウンライトの仄暗い廊下に、華やかなヴァイオリンの音色が漏れ聞こえてきた。扉一枚隔てたこの場所だけが、切り取られた空間のように感じた。


 パサっと音を立て紫陽花はドレスの裾に落ちた。洋平は言葉もなく立ち上がると流れるような動きでブーケを拾った。洋平の落ち着いた仕草には、洋介の優柔不断さとは異なる、静かな確信があった。倫子の心は、その確信に絡め取られそうだった。その時、洋平は、倫子さん、洋介にはもったいないよ、そう呟いた。倫子にはその意味が分からず首を傾げた。ふと、整髪料の香りなのかウッディで落ち着いたムスクの匂いがした。『どうぞ』左目尻のホクロにシワが寄ると、彼は目を細めて洋介と同じ顔で微笑んだ。倫子の胸はときめいた。けれどこんな気持ちは間違っている。洋介の重さが倫子にのしかかった。彼女は首を横に振った。倫子はブーケを受け取る時、彼の指が一瞬自分の手に触れ、指先から甘い電流が走った。


「あ・・・ありがとうございます」

「どういたしまして」

(あれ?指輪が)


 洋平はさりげなく左手を隠した。洋平の左薬指からプラチナの指輪が消えていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?