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第3話 深淵


 新婚旅行は南の島、フィジーを選んだ。開放的なフィジーなら、洋介との全てをリセット出来るような気がした。飛行機から降り、南国の花の香りを胸いっぱいに吸った倫子と洋介は微笑みあった。倫子はこれから始まる新しい暮らしへの期待でいっぱいだった。隣には目を細めて肩をすくめる優しい笑顔。何もかもが輝いて見えた。


 海岸沿いに建つホテルの部屋からはマリンブルーの海が一望出来た。洋介は倫子の首筋に唇を這わせ、互いの鼓動を確かめ合った。けれど彼女は一瞬、結婚式で感じた別の熱い視線を思い出した。洋介の指先が肌をなぞると彼女は息を止め身体を震わせた。倫子はあの視線を振り払うように、洋介の腕に強くしがみついた。


「こんな綺麗な場所、ずっと一緒にいたいね」

「・・・そうですね」


 その言葉があまりにも純粋で、倫子は逆に現実から遠く感じられた。


 翌日、沖合の珊瑚礁でのシュノーケリングツアーに参加した。白い船はエメラルドブルーの海を滑るように進み、白い波を作った。青空は澄みわたっていたが、倫子の胸は曇り空だった。


 洋介は外資系の企業に勤務し英語は堪能だ。彼は倫子を一瞥しただけで、スタッフや乗客と会話を楽しんでいた。洋介の笑顔が他の乗客に向けられるたび、倫子は自分が置き去りにされる気がした。倫子はひとり会話にも入れず遠く離れるフィジーの椰子の木を眺めていた。それは洋介から離れてゆくような気がした。こんな時、あの人はどうしただろう。倫子は洋平のムスクの香りと左目尻のホクロを思い出していた。


「倫子ちゃん、着いたよ!」


 倫子が青空にたなびく雲をぼんやりと眺めていると、不意に肩を叩かれた。それがあまりにも突然だったので、彼女は洋介の手を振り払っていた。彼は怪訝そうな表情になったが気を取り直して、目を細めた。


「どうしたの?」

「ごめんなさい、ビックリして」

「いいよ。気にしないで」

(気にしないで!?少しくらいは気を遣ってよ!)


 洋介の言葉に倫子は憤りを感じたが、新婚旅行で喧嘩はしたくない。倫子は平静を装い、精一杯の笑顔で振り返った。その笑顔に安堵した洋介は、手際よく倫子にシュノーケリングの装備を着けた。彼はシュノーケリングの経験もあるといった。華道の師範が言ったように、新婚旅行で洋介のいろいろな顔があることを知った。見合いから1ヶ月、結納から2ヶ月でのスピード結婚、倫子は30歳を間近にして少し焦っていた。


 浅瀬の珊瑚礁は太陽に照らされ、ガラスのように透き通っていた。それは、これまで鬱々としていた倫子の心を拭うように美しかった。白い珊瑚にイソギンチャクが寄せては返す波に揺れ、色彩豊かな魚たちが群れをなしていた。倫子は夢中になり珊瑚礁の世界を楽しんだ。


 気が付くと洋介から随分離れ、ふと足元を見て身の毛がよだった。そこに広がっていたのは深淵。絶望を感じさせる漆黒の闇。漆黒の闇を見た瞬間、倫子は洋介との未来がその闇に呑まれる気がした。倫子は自分の心の底に同じ闇が広がるのを感じ、息が止まった。彼女はいつの間にか珊瑚礁から離れた外洋にまで流されていた。恐怖に声も出なかった。それでも洋介は気づかない。一瞬、洋平の落ち着いた声が頭をよぎった。冷静に、冷静にと自分に言い聞かせ、ゆっくりと脚を動かし、腕で水を掻いた。珊瑚礁に戻って来た倫子の身体は恐怖で震えていた。


「あれ、倫子ちゃん。どこ行ってたの?」

「・・・・・・・」


 無神経な洋介を無視して、倫子は無言で砂浜に上がった。洋平なら、彼女の恐怖に気づき、落ち着いた声で励ましただろうか。倫子はあのムスクの香りを思い出し、それをすぐに振り払った。洋介も次いで海から上がって来た。


「倫子ちゃん、怖かったよね?僕、ちゃんと見てなくてごめん」

「・・・・・・」


 洋介は倫子の胸のうちを察することなく、目を細めて白い大理石で出来たハートのオブジェを指差した。オブジェには潮で錆びた鐘が付いていた。


「この島に来たカップルは、もう一度ここに来るんだって」

(どうしてあなたは私の気持ちに気づかないの?)

「そうなんですね」


 洋介は写真を撮ってもらおうと、現地スタッフに声を掛けていた。倫子は笑顔を作ったが、虚しさが込み上げた。


「・・・・・・・」

「また来たいね!」


 現実味のない言葉に倫子は悲しくなった。帰りの船の中でも洋介は他の乗客と英語で会話を楽しんでいた。離れてゆく恋人たちのオブジェを眺めながら、なにもかもが海の底に沈んでゆくようで、洋介とはこの場所を訪れることはないような気がした。その予感が、倫子の胸に静かな波のように広がった。


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