新婚旅行から日本に帰って1ヶ月が過ぎた頃から、洋介が変わった。帰宅時間が遅い日が続き、出張も増えた。彼は『大きなプロジェクトを任されたんだ』と意気揚々と出勤して行った。倫子はそんな後ろ姿に手を振ったが、洋介は振り返ることはなかった。洋介は疲れた顔で帰宅するのに、仕事の話をする目は輝いていた。けれど倫子の問いかけにそっけない返事をするようになった。
倫子は洋介の希望で仕事を辞めた。これまでのキャリアを捨てた彼女は心の中にぽっかりと大きな穴が出来たような気がした。掃除、洗濯、いわゆる専業主婦だ。最近では洋介の外食が増え、食事はひとり寂しく食べた。倫子は庭先で洗濯物を取り込みながら、色褪せた紫陽花を眺めた。ふと、紫陽花のウェディングブーケを拾い手渡してくれた、あの落ち着いた声を思い出した。
その日、倫子は近所のスーパーマーケットまで買い物に出掛けていた。雲行きは怪しくやがて鈍色の空になり、雨が降り出した。倫子は傘を持たず途方に暮れていた。あぁそうだ!傘を買えばいいんだと踵を返したが、誰も考えることは同じで傘は売り切れていた。タクシーでも呼ぼうかとスマートフォンを取り出した時、片手に持っていた買い物袋が軽くなった。見上げるとそこには、洋平が傘をさして立っていた。
「洋平さん、どうしてここに」
「この先に画材屋があるんです」
「画材屋さん」
洋平は実家の離れで油画を描いてそれを生業にしていた。筆が痛んだので買いに来たのだと言った。黒いTシャツにジーンズ、面白いことに下駄を履いていた。倫子は吹き出しそうになるのを堪え、その横顔を見上げた。夫と同じ顔だが意思の強さを感じた。帰る方向が同じだから一緒に帰りましょうと、洋平は目を細めた。その笑顔に、倫子の心はざわめいた。倫子を雨傘に入れる時、洋平は一瞬、彼女の目を真っ直ぐ見つめ、すぐに視線を逸らした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
倫子と洋平はひとつの傘に入って歩いた。倫子の肩と洋平の腕が触れ、その温もりに彼女は俯いて顔を赤らめた。2人は交わす言葉もなく、洋平の下駄の音だけが路地に響いた。倫子はこの時間に心地よさを感じた。ふと、夕飯の支度をする匂いが家屋から漂って来た。
「洋平さん、うちでお夕飯食べていきません?」
こんなことをしてはいけない、と心のどこかで囁かれたが、寂しさがそれを押し潰した。洋平は目を見開いて驚いた。倫子は洋介の顔を思い浮かべながら、洋介と洋平は兄弟なのだから問題はないと、自分に言い訳をした。
「・・・・え、それは嬉しいんですが・・どうして」
洋平の落ち着いた声は、洋介のそっけない返事とは違い、倫子の心の穴を埋めるような温かさがあった。
「洋介さん、いつも帰りが遅くて」
洋平の眉間にシワが寄り、雨傘の柄を握る手に力が入った。
「洋介、帰りが遅いんですか?」
「はい」
「やっぱり、そうか」
その意味はよく分からなかったが、洋平は洋介の帰宅が遅い理由を知っている口調だった。その声に、どこか複雑な感情が混じっていた。初め洋平は断ったが、シャツも濡れているから、と倫子に強く勧められ、夕飯を一緒に食べることになった。倫子は自分でも大胆なことをしていると思いつつ、玄関の鍵を開けた。洋平を誘った瞬間、倫子は自分の心が裏切るような高揚感に震えた。
倫子の住む家は木造の平屋建てで昭和の香りがした。この家には、洋平たちの祖母が生前、住んでいた。裏庭にはぶなの林が鬱蒼と茂り、この季節になると清らかな小川に蛍が飛んだ。
「懐かしいな、こんなに小さかったんだ」
洋平は、大黒柱に刻んだ身の丈を懐かしくなぞり、縁側から一面に咲いた露草を眺めた。倫子は洋介のシャツを出し、洋平に着替えるように促した。サイズはぴったりでやはり双子なのだと倫子は思った。洋平は、シャツを手渡された時に触れた倫子の華奢な指に胸が温かくなった。
「倫子さん」
「はい?」
洋平は倫子の横顔をじっと見つめ、一瞬何か言おうとしてやめた。彼の目は穏やかだが、その内になにかを秘めていた。
「俺の絵のモデルになってくれませんか?」
「モデル、ですか?」
倫子はゴクリと息を呑んだ。洋介の顔が一瞬よぎり、彼女は目を伏せた。心臓が跳ね、耳に響いた。
「いえ、今すぐという訳ではありません」
「・・・・・はい」
「考えておいて下さい」
「分かりました」
その夜、倫子は久しぶりに暖かな食卓を囲むことが出来た。献立は鶏の唐揚げと里芋の煮物だった。洋平は鶏の唐揚げを『美味しいです、母の唐揚げより美味しい』と喜んで口に運び、おかわりをした。洋介は穏やかに笑うだけで、言葉にしてくれることはなかった。洋平の言葉に心が温かくなったが、倫子は洋介の笑顔を思い出し、胸が締め付けられた。