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第5話 白檀の女

 出張から帰って来た洋介の様子がおかしかった。いつもなら出張先の土産物やスマートフォンで撮った写真を見せる。それが玄関の引き戸を閉めるなり、倫子から目を逸らして脱衣所に向かった。どうしたのかと聞くと、洗濯物が多いからと言って洗濯機に着替えを放り込んだ。慌てた手つきで洗濯機のスイッチを押すと、いきなりバスルームのドアを閉めた。


(・・・変なの)


 倫子は洋介の不可解な行動に首を傾げつつ、旅行鞄を片付けようと持ち上げた。すると、倫子が使っている柔軟剤とは違う香りが匂い立った。倫子の視線はバスルームの洋介に向けられた。旅行鞄の中身を確認すると、ポケットに一枚の名刺が入っていた。黒地に箔押し、趣味の良いデザインではなかったが、大手広告代理店の名前が入っていた。


中村莉子なかむらりこ


 この名刺からそのホワイトムスク、白檀の香りがした。倫子は洋介が脱いだジャケットの匂いを嗅いだ。襟元から名刺と同じ香りがする。倫子はその場に立ち尽くした。そして、洋平の、やっぱり、という言葉と、結婚披露宴で呟いた、倫子さん、洋介にはもったいないよ、という言葉が頭で渦を巻いた。洋平はこのことを知っていたのかもしれない。彼の真剣な目が、まるで警告だったように感じられた。倫子の胸に重い石が沈み込んだ。その重さが、彼女の希望の全てを押し潰すようだった。


(洋介さん、不倫していたんだ!)


 倫子はこれまで気づかなかった自分の鈍さを呪った。帰宅が遅かったのも、出張が増えたのも、この女性と会っていたからだった。洋介は穏やかで優しい夫の顔をしながら、息をするように平然と倫子を裏切り続けていた。


(いつから?まさか・・・)


 披露宴で、華道の師範が『見合い結婚なら知らないこともある』と鋭い目で洋介を見た時、彼の顔つきが変わった。倫子はこれまでのことを思い返して愕然とした。倫子が名刺を裏返すと『また会いたい』と手書きのメッセージが書いてあった。彼女は名刺を握り潰した。一瞬、洋介に名刺を突きつけて叫びたい衝動に駆られたが、唇を噛んで堪えた。


 その時、洋介がタオルで髪を拭きながらバスルームから出て来た。倫子は平静を装い笑顔でビールを準備した。洗濯機は中村莉子の気配を洗い流している。だが、倫子の心に残る香りは、決して消えることがなかった。倫子はその洗濯機で洗濯するのかと思うと怖気が走った。


「今日の出張どうだった?」


 倫子の声は震えを抑えるように低かった。


「いやぁ、取引先の担当者が・・・なに?」


 洋介は倫子から目を逸らした。


「ううん、なんでもない」


 倫子は今は黙っておくことにした。洋平ならばこの痛みを分かってくれるような気がした。彼女は洋平に相談しようと考えた。彼の真剣な目が、倫子の心に唯一の光のように感じられた。


 その時、洋介のハーフパンツのポケットで、スマートフォンがLIMEの着信を知らせた。洋介は素知らぬ顔で、ビールをグラスに注いでいたが指先が小刻みに震えていた。倫子はその相手が中村莉子だと直感した。


「見なくてもいいの?」


 倫子の声に洋介は目を伏せた。


「取引先からだから」


 時刻はPM10:00をすぎていた。こんな時間に取引先からLIMEの連絡があるだろうか。嘘をつくならばもっと上手い嘘をつけば良いのに。倫子の心はあのフィジーで見た深淵の闇のように冷えていった。その闇が、彼女の全ての希望を静かに呑み込んでいった。

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