カナカナカナカナ
薄暗く湿っぽい、ぶなの林の奥からヒグラシの鳴き声が響いた。倫子は露草が咲く奥座敷で椅子にもたれ掛かっていた。黒いキャミソールのしどけない胸元には汗が流れた。倫子は洋平の目に囚われていた。その真剣な眼差しに彼女は目を逸らした。
「動かないでくださいね」
「ごめんなさい」
キャンバスに向かい木炭を握る洋平は、獲物を仕留める黒いピューマだった。倫子はしなやかな獰猛さに身体の芯が熱くなるのを感じ、胸が高鳴った。洋平の真剣な眼差しは、洋介の目を逸らす態度とは違い、倫子を虜にした。倫子はその視線に溺れそうになる自分を抑えた。
「疲れましたか?」
「モデルなんて初めてで、緊張しています」
顔料で汚れたエプロンを身に着けた洋平は、目を細めて筆を握った。
「もう、絵の具を塗るんですか?」
洋平はチューブを絞り出し、露草色の油絵具をパレットに塗りつけた。油絵具をテレピンオイルで溶かすと、ツンと鼻に付く油のにおいがした。思わず倫子は顔をしかめた。
「うわっ!臭っ!」
その不細工な表情に洋平は吹き出し、彼女は顔を赤らめて頬を膨らませた。
「これはね、下書きなんですよ」
「絵の具が下書きなんですか」
「はい・・・・」
洋平が筆を動かす手には、倫子を捉えようとするような一瞬の躊躇が見えた。
「木炭で予め線を引いて絵具でなぞっておけば、油絵具を重ねても下絵が消える事はありませんからね」
その時、倫子は洋介を思い出した。一度犯した罪は消えることがない。洋介が不倫相手と別れたとしても、倫子の心に付いた傷は一生癒えることはないだろう。あの出張から倫子は洋介の言動に敏感になった。どこかでポロリと中村莉子のことを匂わせるのではないか、不倫のにおいを嗅ぎつけようとする自分が嫌らしく思えた。倫子は、フィジーで洋介が他の乗客と笑い合っていた時の遠い目を思い出した。あの時、すでに彼の心は中村莉子に傾いていたのかもしれない。
「やっぱり・・・・」
倫子は、やっぱり、という言葉に、洋平が知る真相を恐れながらも、どこかで彼の言葉に救いを求めていた。
「はい?」
「洋平さん、やっぱりって・・・どう言う意味ですか?」
洋平の筆を動かす手が止まった。その目はカンバスに釘付けになり、ゆっくり目を瞑ると眉間にシワを寄せた。倫子はそのただならぬ気配に、黒い名刺がよぎった。洋平は洋介の不倫のことを知っていた。
「・・・倫子さん」
洋平はパレットと筆をテーブルに置くと倫子に向き直った。倫子は息を呑んだ。心臓の音がうるさく、ヒグラシの鳴き声が遠くに聞こえた。
「洋介さん、誰か他に好きな人がいるんですね?」
洋平は目を見開き、手は両膝を掴んだ。その沈黙が倫子の胸に重く響いた。
「倫子さん、知っていたんですか」
「はい、少し前に・・・気が付きました」
洋平の声には、洋介と交わした過去の会話の重さが滲んでいた。倫子は、彼がどれだけ知っているのか、尋ねるのをためらった。洋平は汚れた手を布で拭き、エプロンを外した。古びた畳を踏みしめる音が静かな座敷に鳴り、倫子へと近づいて来た。倫子は緊張で身体を強張らせた。ゆっくりと畳に膝を突いた洋平は畳に両手を置いた。
「洋平さん、どうしたんですか!?」
驚いた倫子が洋平の顔を覗き込むと、彼は目をきつく瞑り唇を噛んでいた。
「申し訳ありません」
「え、なんで、なんで洋平さんが謝るんですか!?」
洋平は深々と頭を下げた。倫子はその突然の出来事に驚き、慌ててその肩を掴んでいた。その肩は逞しく、力強さを感じた。
中村莉子は大学の同級生だと言った。いつも3人で出掛けるような仲だった。莉子は洋平と交際を始めたが洋介の縁談が決まった頃から様子がおかしくなった。莉子は洋平と話していても落ち着かず、LIMEの返信も滞りがちになった。洋介が倫子と結納を交わした頃、洋平は見てはならないものを見てしまった。
「・・・そんな」
倫子は言葉を失った。洋平は、洋介が莉子とベッドで抱き合っているところを見てしまった。洋平はその時の衝撃を思い返し、首を横に振った。洋平は洋介に掴み掛かり、左薬指の指輪を莉子に叩きつけた。洋平は、莉子と3人で笑い合った大学の日の記憶を思い出した。あの頃の彼女の笑顔が、洋介の腕の中で変わってしまった瞬間を、彼は今も忘れられなかった。
「それで、指輪を外したんですね」
倫子は洋平の言葉に、洋介の裏切りがさらに重くのしかかるのを感じた。同時に、洋平の真剣な謝罪が、彼女の心に温かな光を灯すようだった。
「どうして黙っていたんですか」
「それは・・・」
「話して欲しかった・・です」
倫子の声は震え、洋平は一瞬言葉を探すように沈黙した。
「倫子さん」
洋平の声には、倫子への仄かな恋情と、莉子に裏切られた過去の痛みが混じっていた。
コオロギの鳴き声と共に、西陽が湿ったぶなの林に黒い影を作った。光の軌跡を描きながら揺れる露草に蛍がとまった。薄暗い座敷で倫子の頬に一筋の涙が伝った。洋平はゆっくりと腕を伸ばすと倫子を優しく抱き締めていた。突然の出来事に倫子の息は止まったが、洋平に洋介の姿を重ね合わせその身を任せた。倫子は洋介の裏切りを思い出し、かつて愛した彼の笑顔が今は遠く感じられた。洋平の腕が、その空虚を埋める唯一の現実だった。
(・・・蛍)
倫子の目に、蛍の光が映った。