昭和二十年、南方の海は、陽炎のようにゆらめいていた。
空を裂いて突き進むのは、一機の四式戦闘機キ84、通称「疾風(はやて)」。そのコックピットに座るのは、17歳の少年、神崎 悟だった。
エンジン音が耳を震わせる。風圧で揺れる機体。眼下に広がるのは、米軍の艦隊。白く波を割って進む空母や駆逐艦。
彼らこそが、祖国を蹂躙し、仲間を殺し、そして母の暮らす街を焼いた“鬼畜”たち。
怒りではない。怖れでもない。悟の胸にあるのは、ただひとつの覚悟だった。
「……これで、いい」
ポケットには、母に宛てた手紙がある。
《本日、私は憎っくき米艦に特攻します。
その際は良くやったとあなたの息子を褒めてやってください。
日本のため、天皇陛下のため、そしてお母さんのために、私は行きます。
出来るなら一目お会いしとうございました。》
思いを込めて綴った文は、かすかな未練と祈りだった。
母に、せめて無事を願っていてほしい。いや、それすら甘えなのかもしれない。
仲間が次々と散っていく中、自分だけが「恐い」などと思ってはならないのだ。そう教えられてきた。
悟は操縦桿を握りしめる。
突入角を調整し、弾幕をすり抜ける。その先に見える空母の甲板。
全身が熱を帯び、鼓動が速くなる。
「天皇陛下、万歳――!」
叫んだ。瞬間、機体が爆音と共に閃光に包まれる。
視界が白に染まる。機体が軋み、破裂する。空気が押し寄せる。
死の瞬間。
だが……意識は、そこで断ち切られなかった。
***
……風の音がする。
それはエンジンの轟音ではなく、木々を揺らす穏やかな風音だった。
「……ん、ぐ……っ」
どこか、湿り気のある土の匂いが鼻を突いた。
悟はゆっくりと目を開ける。視界を覆うのは、木々の葉。薄暗く、深い森。
南の空のはずが、ここは……?
「……敵地か……? 捕まったのか……?」
反射的に身を起こす。周囲に米兵の姿はない。機体もない。傷もない。
夢か? 生きてるのか? 幻覚か?
その時……
地響きのような重低音と共に、彼の視界を覆い尽くす影が、前方に現れた。
「……っ!?」
それは、山のように巨大な生物だった。
黒々とした鱗、しなやかに波打つ尾、そして、何より、悟を見下ろす双眸。
金色に輝く瞳は、まるで人のように感情を湛え、静かに彼を見つめていた。
「……敵の……新兵器……か……?」
言葉が震える。恐怖が、喉をつかむ。
拳銃を探そうとするが、腰には何もない。
その時、不意に、声が響いた。
いや、“声”ではない。頭の中に、直接、流れ込んでくるような感覚。
「お主の最後の気持ち、このまま死なすには惜しい気がした。
元の世界には戻せぬが、ここでもう一度“生きる”という意味を考えてみるが良い」
「……誰、だ……!?」
「我は、世界の空を見守るもの。お主の魂に、かすかなる光を見た」
その“声”に導かれるように、悟の意識はふわりと浮かび上がっていく。
肉体が持ち上がったのではない。感覚が、空へ。
気がつけば、自分はその巨大な生き物の背にいた。
その巨体が翼を広げ、地を蹴る。次の瞬間、空が開け、風が駆け抜けた。
地上は遠ざかり、眼下に広がるのは虹色の木々の森、空に浮かぶ島、奇妙な建造物……。
「……なんだ、ここは……? 本当に、生きてるのか……?」
“それ”は答えない。だが、確かにこの風は、本物だった。
悟の「死」は、終わっていなかった。
ここから、彼の「生」が始まろうとしていた。
冷たい風が頬を撫で、眼下の世界が遠ざかっていく。だがこれは、特攻機「疾風」による飛行ではなかった。
竜の背の上。生温かく、かすかに震える鱗の感触が、悟の掌を通して伝わってくる。
「まさか……生きている……いや、生かされたのか……?」
何がどうなっているのか、理解は追いつかない。
だが、今確かに、この巨大な竜が自分を空へと運んでいる。
それは夢ではない。皮膚に感じる空気、視界を流れる雲の速さ、どれもが現実だ。
やがて、森の中心、まるで山のようにそびえる一本の巨木が見えてきた。
その樹は他とは明らかに異質で、幹から発光する脈動が走り、まるで生きて呼吸しているように見える。
《ここが我が終の地》
竜の声が、再び悟の心に響く。
降下と共に重力が身体に戻ってくる。竜は音もなく、巨木の根元へと舞い降りた。
大地に降り立ったその瞬間、異変が始まった。
「おい、どうした……!?」
竜の体が、静かに、しかし確実に変化していく。
黒く硬質な鱗が樹皮と溶け合い、翼が光の粒子となって空中に舞い上がる。
まるで、この世界そのものに還っていくかのように。
「我はもはや朽ちるのみ。この身は、この大樹と共に、世界の礎とならん。
だが、ここで終わりではない。お主に、我が分体を託す。
新生の竜。空と生命を繋ぐ命。……その名を、刻め」
「分体……?」
悟が言葉を漏らした時、竜の巨体は完全に巨木の根へと吸い込まれ、跡形もなく消えていた。
直後……閃光。
樹の根元から溢れ出すように、紅蓮の光が立ち上がる。
その中から、ひとつの命が、そっと地上に降り立った。
赤い小竜だった。
全長一メートルほど。艶のある赤い鱗は、燃えるような生命力を湛えていた。
二本の小さな角、翼はまだ未成熟で、まるで幼い子供のような佇まい。
だがその瞳は、確かに、先ほどの老竜と同じ輝きを持っていた。
「お前が……」
小竜は、悟を見つめたまま、かすかに首を傾げた。
(……はじめまして、ぼくの名前、まだないけど……きみ、誰?)
悟の頭に、ふわりと幼い声が響く。
それは音声ではなく、思考に直接入り込んでくる感覚……テレパシーだ。
「俺は……神崎悟。日本の……軍人だった」
(にほん? ぐんじん? なんのこと?)
「……だよな。通じるわけないか」
苦笑が漏れた。
異世界、異種族。そもそもこの存在が“何なのか”すら、彼の常識では測れない。
だが、不思議と、この小さな竜の声には敵意も警戒もない。
ただ純粋に、自分という存在に興味を持っているような、そんな無垢さがあった。
「……そうだな。じゃあ、お前の名前、つけてやるよ。赤い鱗だし、炎みたいだ……アカネ、ってのはどうだ?」
(アカネ……? アカネ……! うん、いい名前! ありがと、サトル!)
「っ――!」
思わず胸が熱くなる。
名前を呼ばれたこと。それだけで、忘れていた何かが呼び覚まされたような気がした。
しかし、感傷に浸る暇はなかった。
森の奥から、突然、不穏な空気が吹き込んできた。
音……否、咆哮が響いた。低く唸るような、獣の叫び。
「……なんだ?」
一歩、また一歩。森の影から、何かが現れた。
複数の腕。黒い瘴気を纏い、眼は爛々と赤く光る。
その姿は、まるで地獄から這い出た悪夢。生物とは呼べぬ、グロテスクな魔物だった。
(サトル、あれ……あぶない! すっごく……にがいにおいがする!)
アカネが怯えたように、悟の足元に身を寄せる。
悟は、咄嗟に周囲を見渡した。武器はない。逃げ道もない。
「くそ……!」
だが、彼の目には、守るべきものが映っていた。
赤き命。老竜の遺志。生まれたばかりの、新たな“空”の象徴。
「来いよ、化け物。俺は……お前なんかに、負けない」
かつて「死」を選んだ少年が、今、初めて「守るために生きる」覚悟をした瞬間だった。