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第2話 地を駆ける竜、交わる命の火花

 悟は、身を低く構えた。

 目の前に立ちはだかるのは、黒い瘴気を纏う異形の魔物。

 あまりに異様な姿。複数の腕、硬質な外骨格、異様に膨らんだ筋肉。そして、その全身から滲み出る、まるで死のような悪臭。


「……クソッ、武器も何もねえ……!」


 冷や汗が背を伝う。拳銃もない、刀もない。

 あるのは、自分の身体と、小さな竜だけ。


(あれ……すごく、こわい。でも、サトルの心が……まっすぐだから……ぼく、がんばる!)


 アカネの声が、心に響いた。

 言葉ではない、意志そのものが染み込んでくるような感覚。


 魔物が動いた!


 黒い影が跳ね、空気を裂く咆哮と共に、爪が悟を狙って振り下ろされた。

 咄嗟に身を翻し、地面を転がって避ける。すぐ横に叩きつけられた爪が、地面を裂く。


「こんなのが……“魔物”かよ……!」


 息が荒い。脳が過去を探る。航空兵としての訓練、格闘術、機体トラブル時のサバイバル術。

 だがそれは、人間同士の戦争に備えたもの。目の前の異形には通用しない。


 だが、その時。


(サトル! こっち乗って! ぼく、走るから!)


「えっ、おい――わっ!」


 アカネの背にすがるように飛び乗った瞬間、彼の身体が地から跳ね上がった。

 アカネは短い四肢で驚くほどの速度で森を駆ける。飛べなくても、獣のように地を走るその動きは軽快で、何より一体となった感覚があった。


 悟は、直感的に悟った。

 アカネは自分の意志に反応し、動いてくれる……まるで、戦闘機のように。


「よし、右だ! その根の影に隠れろ!」


(うん! いけるよ!)


 茂みを駆け抜け、岩陰へ滑り込む。魔物が追うが、アカネの一瞬の加速で突き放す。

 そのまま反転。悟は飛び下り、手頃な木の枝を手に取って構える。


「武器ってのは、使い方次第だ……!」


 魔物が迫る。悟が枝を振り抜く、だが、当然ながら枝は折れ、魔物には傷ひとつ付けられない。


「っの、野郎……!」


 そのとき……アカネが口を開いた。

 喉の奥に赤い光が瞬き、火花が弾ける。


(ああああああっ!)


 咆哮。

 そこから吐き出されたのは、真紅の火炎だった。

 火柱は一直線に魔物へと放たれ、その瘴気を焼き払うように燃え上がる。


 魔物は苦しげに呻き、怯んだ。


 悟はすかさず、飛び込んだ。

 燃え上がる枝の先端を振り回し、顔面を一撃。


 魔物がよろける。アカネが再び咆哮を上げる。

 火と共に、命と命の意志が交わる。


 そして、ついに魔物は倒れた。


 焦げた瘴気の中で、アカネはふらふらと尻餅をつく。


(はぁ……はぁ……ぼく……やった、かな……)


「……ああ、やった。……ありがとう、アカネ」


 膝をつきながら、悟は彼を抱き寄せた。

 汗と煤にまみれた体温が、確かに生きていることを証明していた。


「俺は……お前に助けられたな」


(サトルも……ぼく、まもってくれた)


 静かに、森の風が二人の間を吹き抜けた。

 それは、たった今結ばれた、小さな信頼の証のようだった。


 魔物を退けた翌朝。

 悟は、夜露に濡れた地面の上で、丸まって眠るアカネの背に外套を掛けながら、どこか遠い視線で空を見上げていた。


「……飛べない空、か」


 かつて、空は死に向かう場所だった。だが今、自分はこの小さな竜と共に、生きて地を歩いている。

 それは、特攻兵としての誓いから見れば、恥にも等しい“敗北”の姿だった。


(生き残ることは、罪なのか?)

(……それとも、希望なのか?)


 そんな自問に、答えはなかった。


***


 正午を少し過ぎた頃、森の切れ目に、小さな村が姿を現した。


 藁葺きの屋根、丸太で組まれた柵、家畜らしき小動物の鳴き声。

 見れば、畑では何人もの人影が働いている。

 獣の耳を持つ者、角の生えた者、耳の長い者……人間とは明らかに異なる種族が混在していた。


「……外国の民、か?」


 呟いた悟の脳裏には、戦時中に聞かされた教えが蘇る。


――外国人は信用するな。鬼畜の如き存在だ。

――文化が違えば、思想も違う。決して心を許すな。


 思わず、拳が握られる。


(サトル、あの人たち……この森を守ってる村の人たち、だって。おどろいてるけど、悪い人じゃないって)


 アカネが耳打ちするように心へ語りかけてきた。


「本当に……そう言ってるのか?」


(うん。……でも、サトルがすごく警戒してるって、伝わっちゃってる)


 悟は眉をひそめた。

 確かに、村の人々……種族の違う彼らは、明らかにこちらを警戒しつつ見つめていた。

 武器を手にする者はいないが、子どもたちを家の陰へ避難させている。

 いわば、“よそ者への当然の反応”だ。


 だが、悟の本能は……「敵だ」と叫んでいた。


「……アカネ。俺が何を考えてるか、お前には分かるのか?」


(……なんとなく、だけど。すごく、ぎゅって……心が、固くなる)


「……だろうな」


 戦時中、日本兵として教えられた価値観は、知らず知らずのうちに彼の思考を縛っていた。

 敵か味方か。殺すか殺されるか。

 その単純な図式でしか、人を測れない自分。


「俺は、たぶん……ここの連中に、心を開ける自信がない」


(……でも、サトルの声は、あったかいよ。ぼくには、こわくない)


 ふいに、アカネの声が胸の奥に染みた。

 彼だけは、外見も言葉も違うのに、疑いもせず、悟を信じてくれていた。


「お前、ずるいな。そんなこと言われたら……仕方ねぇだろ」


 悟は深く息を吸い、村へと足を踏み入れた。


***


 村の広場に着くと、十数人ほどの大人たちが出迎えていた。

その中の一人、銀色の毛並みと狐耳を持つ女性が、一歩前に出てきた。


「……旅人よ。ここは《カリナ村》。そなたは、名を名乗れるか?」


「……神崎悟、だ」


「珍しい名だな。聞いたこともない。そなたの“獣”、その子竜は、どこから来た?」


 言葉は通じなかったが、アカネが都度訳してくれる。

 しかし、その翻訳が妙に“柔らかい”ことに、悟は気づいていた。


(……多分、本当はもっときつい言い方なんだろうな)


 村の者たちは、悟を“得体の知れない存在”として見ている。

 だが、アカネが小さな咆哮で何かを訴えると、狐耳の女は少しだけ眉を緩めた。


「……よかろう。一時、休むがよい。武器を持たぬ者に、我らも刃を向けはせぬ」


 悟は、心のどこかで「捕虜になったのかもしれない」という感覚を捨てきれなかった。

 だが同時に、敵意を抑え、対話をしようとするこの村の人々に、彼は戸惑ってもいた。


(ねえサトル。どうして、にんげんって、見た目がちがうだけで、こわいって思うの?)


「……それはな、お前が生まれる前に、大人たちに教えられたんだよ。“敵”ってやつを」


 アカネは、首を傾げた。

 そしてぽつりと言った。


(ぼくは……サトルの目、こわくないよ)


 その言葉に、悟は返す言葉を失った。


 村に受け入れられたわけでもない。彼の警戒心は完全には消えていない。

 それでも、この小さな命だけは、彼のことを“敵”とは呼ばなかった。


 悟は、村の人々の視線を背に受けながら、アカネと共に歩き出す。

 彼の心に、わずかながら、“生きるための場所”という新たな感覚が、芽生え始めていた。

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