悟は、身を低く構えた。
目の前に立ちはだかるのは、黒い瘴気を纏う異形の魔物。
あまりに異様な姿。複数の腕、硬質な外骨格、異様に膨らんだ筋肉。そして、その全身から滲み出る、まるで死のような悪臭。
「……クソッ、武器も何もねえ……!」
冷や汗が背を伝う。拳銃もない、刀もない。
あるのは、自分の身体と、小さな竜だけ。
(あれ……すごく、こわい。でも、サトルの心が……まっすぐだから……ぼく、がんばる!)
アカネの声が、心に響いた。
言葉ではない、意志そのものが染み込んでくるような感覚。
魔物が動いた!
黒い影が跳ね、空気を裂く咆哮と共に、爪が悟を狙って振り下ろされた。
咄嗟に身を翻し、地面を転がって避ける。すぐ横に叩きつけられた爪が、地面を裂く。
「こんなのが……“魔物”かよ……!」
息が荒い。脳が過去を探る。航空兵としての訓練、格闘術、機体トラブル時のサバイバル術。
だがそれは、人間同士の戦争に備えたもの。目の前の異形には通用しない。
だが、その時。
(サトル! こっち乗って! ぼく、走るから!)
「えっ、おい――わっ!」
アカネの背にすがるように飛び乗った瞬間、彼の身体が地から跳ね上がった。
アカネは短い四肢で驚くほどの速度で森を駆ける。飛べなくても、獣のように地を走るその動きは軽快で、何より一体となった感覚があった。
悟は、直感的に悟った。
アカネは自分の意志に反応し、動いてくれる……まるで、戦闘機のように。
「よし、右だ! その根の影に隠れろ!」
(うん! いけるよ!)
茂みを駆け抜け、岩陰へ滑り込む。魔物が追うが、アカネの一瞬の加速で突き放す。
そのまま反転。悟は飛び下り、手頃な木の枝を手に取って構える。
「武器ってのは、使い方次第だ……!」
魔物が迫る。悟が枝を振り抜く、だが、当然ながら枝は折れ、魔物には傷ひとつ付けられない。
「っの、野郎……!」
そのとき……アカネが口を開いた。
喉の奥に赤い光が瞬き、火花が弾ける。
(ああああああっ!)
咆哮。
そこから吐き出されたのは、真紅の火炎だった。
火柱は一直線に魔物へと放たれ、その瘴気を焼き払うように燃え上がる。
魔物は苦しげに呻き、怯んだ。
悟はすかさず、飛び込んだ。
燃え上がる枝の先端を振り回し、顔面を一撃。
魔物がよろける。アカネが再び咆哮を上げる。
火と共に、命と命の意志が交わる。
そして、ついに魔物は倒れた。
焦げた瘴気の中で、アカネはふらふらと尻餅をつく。
(はぁ……はぁ……ぼく……やった、かな……)
「……ああ、やった。……ありがとう、アカネ」
膝をつきながら、悟は彼を抱き寄せた。
汗と煤にまみれた体温が、確かに生きていることを証明していた。
「俺は……お前に助けられたな」
(サトルも……ぼく、まもってくれた)
静かに、森の風が二人の間を吹き抜けた。
それは、たった今結ばれた、小さな信頼の証のようだった。
魔物を退けた翌朝。
悟は、夜露に濡れた地面の上で、丸まって眠るアカネの背に外套を掛けながら、どこか遠い視線で空を見上げていた。
「……飛べない空、か」
かつて、空は死に向かう場所だった。だが今、自分はこの小さな竜と共に、生きて地を歩いている。
それは、特攻兵としての誓いから見れば、恥にも等しい“敗北”の姿だった。
(生き残ることは、罪なのか?)
(……それとも、希望なのか?)
そんな自問に、答えはなかった。
***
正午を少し過ぎた頃、森の切れ目に、小さな村が姿を現した。
藁葺きの屋根、丸太で組まれた柵、家畜らしき小動物の鳴き声。
見れば、畑では何人もの人影が働いている。
獣の耳を持つ者、角の生えた者、耳の長い者……人間とは明らかに異なる種族が混在していた。
「……外国の民、か?」
呟いた悟の脳裏には、戦時中に聞かされた教えが蘇る。
――外国人は信用するな。鬼畜の如き存在だ。
――文化が違えば、思想も違う。決して心を許すな。
思わず、拳が握られる。
(サトル、あの人たち……この森を守ってる村の人たち、だって。おどろいてるけど、悪い人じゃないって)
アカネが耳打ちするように心へ語りかけてきた。
「本当に……そう言ってるのか?」
(うん。……でも、サトルがすごく警戒してるって、伝わっちゃってる)
悟は眉をひそめた。
確かに、村の人々……種族の違う彼らは、明らかにこちらを警戒しつつ見つめていた。
武器を手にする者はいないが、子どもたちを家の陰へ避難させている。
いわば、“よそ者への当然の反応”だ。
だが、悟の本能は……「敵だ」と叫んでいた。
「……アカネ。俺が何を考えてるか、お前には分かるのか?」
(……なんとなく、だけど。すごく、ぎゅって……心が、固くなる)
「……だろうな」
戦時中、日本兵として教えられた価値観は、知らず知らずのうちに彼の思考を縛っていた。
敵か味方か。殺すか殺されるか。
その単純な図式でしか、人を測れない自分。
「俺は、たぶん……ここの連中に、心を開ける自信がない」
(……でも、サトルの声は、あったかいよ。ぼくには、こわくない)
ふいに、アカネの声が胸の奥に染みた。
彼だけは、外見も言葉も違うのに、疑いもせず、悟を信じてくれていた。
「お前、ずるいな。そんなこと言われたら……仕方ねぇだろ」
悟は深く息を吸い、村へと足を踏み入れた。
***
村の広場に着くと、十数人ほどの大人たちが出迎えていた。
その中の一人、銀色の毛並みと狐耳を持つ女性が、一歩前に出てきた。
「……旅人よ。ここは《カリナ村》。そなたは、名を名乗れるか?」
「……神崎悟、だ」
「珍しい名だな。聞いたこともない。そなたの“獣”、その子竜は、どこから来た?」
言葉は通じなかったが、アカネが都度訳してくれる。
しかし、その翻訳が妙に“柔らかい”ことに、悟は気づいていた。
(……多分、本当はもっときつい言い方なんだろうな)
村の者たちは、悟を“得体の知れない存在”として見ている。
だが、アカネが小さな咆哮で何かを訴えると、狐耳の女は少しだけ眉を緩めた。
「……よかろう。一時、休むがよい。武器を持たぬ者に、我らも刃を向けはせぬ」
悟は、心のどこかで「捕虜になったのかもしれない」という感覚を捨てきれなかった。
だが同時に、敵意を抑え、対話をしようとするこの村の人々に、彼は戸惑ってもいた。
(ねえサトル。どうして、にんげんって、見た目がちがうだけで、こわいって思うの?)
「……それはな、お前が生まれる前に、大人たちに教えられたんだよ。“敵”ってやつを」
アカネは、首を傾げた。
そしてぽつりと言った。
(ぼくは……サトルの目、こわくないよ)
その言葉に、悟は返す言葉を失った。
村に受け入れられたわけでもない。彼の警戒心は完全には消えていない。
それでも、この小さな命だけは、彼のことを“敵”とは呼ばなかった。
悟は、村の人々の視線を背に受けながら、アカネと共に歩き出す。
彼の心に、わずかながら、“生きるための場所”という新たな感覚が、芽生え始めていた。