風の郷の空は、驚くほど澄み渡っていた。
前日までの霧は消え、木々は静かに葉を鳴らし、風はどこまでも清らかだった。
その中心に、立っていた。
全長二メートルの赤き竜、アカネ。かつての幼い姿はそこにはなく、今は誇り高き“紅竜”として、風にその存在を刻んでいる。
悟はその隣に立ち、空を仰いだ。
風が交差する。
青空の高みに、ひと筋、ふた筋と筋雲のような風の軌道が現れる。やがてそれらは渦を巻き、空の一点に収束していった。
「……出たな。空の道」
フィーネが小さく頷く。
「風と風が重なる一瞬だけ開かれる空の裂け目……“風の断層”。あれが、次なる領域への入口です」
悟は問い返した。
「その先に、あの仮面の本体がいるんだな?」
「はい。ただし、そこは最果てではありません。あくまで、“空の心臓”へ至るための通過点。仮面の存在は……瘴気の本流の一角です」
悟は静かに頷き、風鋼の刃の柄を握りしめた。
「なら、叩き潰すだけだ。道を塞がれちゃ、先に進めねぇ」
アカネが、一歩前へ出る。
赤い翼が風を受けて大きく広がった。
(悟。……乗って)
悟は目を見開いた。
「……お前……本当に、もう……」
(うん。あたし、もう……悟を背負えるよ)
風が吹いた。
それはまるで、二人の間にあった“ひとつの壁”を、そっと吹き払うような柔らかな風だった。
悟はゆっくりと手を伸ばす。
かつて夢見た背中。ともに空を翔けるという、あの幻のような未来。
「じゃあ……頼むぜ、相棒」
(任せて)
悟は、アカネの背に飛び乗った。
しっかりと鱗の隆起に足をかけ、身体を預ける。
アカネの体は微かに沈み、そしてそのまま、大きく地を蹴った。
風が巻く。地面が遠ざかる。
ついに、悟は空へと舞い上がった。
風と、竜と、特攻隊員がひとつになった瞬間だった。
「アカネ……!」
(うん……飛べる! 悟と一緒に、ちゃんと飛べるよ!)
空の断層が目前に迫る。
その先は、黒く揺れる空間。影のように歪んだ空が、まるで空そのものの“裏側”のように口を開いている。
フィーネが地上から叫ぶ。
「“影の空域”です! 瘴気の本流、仮面の本体がいる領域! ……どうか、無事で!」
悟は振り返らず、ただ前を見た。
空の心臓……その
道はまだ遠く、瘴気の根は深い。
「行くぞ、アカネ! あの仮面をぶち破って、先へ進む!」
(うん! 風が、あたしたちを選んでる!)
紅竜の翼が大きく羽ばたく。
二人はそのまま、空の裂け目へと突入していった。
風が、彼らを飲み込むように包み、そして、姿を消した。
***
空が、裏返っていた。
悟とアカネが“空の道”を抜けた先……そこに広がっていたのは、異常そのものの風景だった。
上下の感覚は曖昧で、地平線すら存在しない。
空が空を映し、雲が逆さまに流れ、風は渦を巻いて戻ってくる。
空間そのものが“意思”を持っているかのように、歪み、ねじれ、脈動していた。
(……ここ、空じゃない)
「まるで……空の“裏側”だな。影がひっくり返ったみたいだ……!」
悟はアカネの背にしがみつきながら、視界のすべてに神経を研ぎ澄ます。
風鋼の刃がかすかに唸りを上げ、何かの“気配”を知らせている。
瘴気。
だが、今までのように肌を刺すような濁流ではなかった。
これはもっと冷たい。内側から染み込んでくるような、静かな毒。
そのとき、風が止んだ。
アカネの翼が急に重くなる。空気の支えが、失われる。
(悟、風が……動かない!)
「っ、くそ……!」
空間の一角に、ぽっかりと“穴”が開いた。
そこから“仮面”が現れた。
以前と同じ、無表情の白面。だがその背後には、人のような形をした影がうごめいていた。
仮面が、こちらを見ていた。
何も語らず、ただ存在する“圧”だけで空を支配している。
やがて、言葉が響く。
『おまえたちは、試される』
それは悟の中に直接流れ込んでくる声だった。
『空の心臓へ至る資格……竜の器としての証明。示せ』
アカネが低く唸る。
(……こいつ……瘴気だけじゃない。竜の力まで……混ざってる!?)
仮面の影が動いた。
空間を引き裂くように、黒い斬撃が走る。
悟とアカネは辛うじて横へ飛び、距離を取る。
「こいつ……動けるのか……!」
(悟、来る!)
影が裂け、仮面の主の腕が現れる。
竜の鱗に似た瘴気の装甲。仮面の“中身”はまだ明らかにならない。
だが、アカネの咆哮がそれを押し返した。
空気が震え、瘴気の波が後退する。
(今のあたしなら……!)
アカネが突進する。翼をたたみ、紅竜の体が矢のように空を裂いた。
風を纏い、悟が跳躍する。
「喰らええええええっ!!」
風鋼の刃が、仮面の影を断ち裂いた。
しかし。
手応えは、ない。
刃は通った。確かに斬ったはずだ。
だが、仮面は微動だにせず、ただ、静かにこう告げた。
『おまえたちは、まだ届かない』
その瞬間、空が崩れた。
重力が逆転し、風が千切れ、視界が白く染まる。
「アカネっ!」
(悟っ!)
二人は弾かれ、別々の方向へと放り出されていく。
空が、閉じようとしていた。
仮面の影はなお静かに佇んだまま、言葉のようなものを最後に残した。
『……おまえたちには、まだその空は踏ませない』
『背負うには、なお……小さすぎる』