目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第24話 空の道、影の空域へ

 風の郷の空は、驚くほど澄み渡っていた。

 前日までの霧は消え、木々は静かに葉を鳴らし、風はどこまでも清らかだった。


 その中心に、立っていた。

 全長二メートルの赤き竜、アカネ。かつての幼い姿はそこにはなく、今は誇り高き“紅竜”として、風にその存在を刻んでいる。


 悟はその隣に立ち、空を仰いだ。


 風が交差する。

 青空の高みに、ひと筋、ふた筋と筋雲のような風の軌道が現れる。やがてそれらは渦を巻き、空の一点に収束していった。


「……出たな。空の道」


 フィーネが小さく頷く。


「風と風が重なる一瞬だけ開かれる空の裂け目……“風の断層”。あれが、次なる領域への入口です」


 悟は問い返した。


「その先に、あの仮面の本体がいるんだな?」


「はい。ただし、そこは最果てではありません。あくまで、“空の心臓”へ至るための通過点。仮面の存在は……瘴気の本流の一角です」


 悟は静かに頷き、風鋼の刃の柄を握りしめた。


「なら、叩き潰すだけだ。道を塞がれちゃ、先に進めねぇ」


 アカネが、一歩前へ出る。

 赤い翼が風を受けて大きく広がった。


(悟。……乗って)


 悟は目を見開いた。


「……お前……本当に、もう……」


(うん。あたし、もう……悟を背負えるよ)


 風が吹いた。


 それはまるで、二人の間にあった“ひとつの壁”を、そっと吹き払うような柔らかな風だった。


 悟はゆっくりと手を伸ばす。

 かつて夢見た背中。ともに空を翔けるという、あの幻のような未来。


「じゃあ……頼むぜ、相棒」


(任せて)


 悟は、アカネの背に飛び乗った。


 しっかりと鱗の隆起に足をかけ、身体を預ける。

 アカネの体は微かに沈み、そしてそのまま、大きく地を蹴った。


 風が巻く。地面が遠ざかる。


 ついに、悟は空へと舞い上がった。


 風と、竜と、特攻隊員がひとつになった瞬間だった。


「アカネ……!」


(うん……飛べる! 悟と一緒に、ちゃんと飛べるよ!)


 空の断層が目前に迫る。

 その先は、黒く揺れる空間。影のように歪んだ空が、まるで空そのものの“裏側”のように口を開いている。


 フィーネが地上から叫ぶ。


「“影の空域”です! 瘴気の本流、仮面の本体がいる領域! ……どうか、無事で!」


 悟は振り返らず、ただ前を見た。


 空の心臓……その最奥エルグラードに辿り着くために。


 道はまだ遠く、瘴気の根は深い。


「行くぞ、アカネ! あの仮面をぶち破って、先へ進む!」


(うん! 風が、あたしたちを選んでる!)


 紅竜の翼が大きく羽ばたく。

 二人はそのまま、空の裂け目へと突入していった。


 風が、彼らを飲み込むように包み、そして、姿を消した。


***


 空が、裏返っていた。


 悟とアカネが“空の道”を抜けた先……そこに広がっていたのは、異常そのものの風景だった。


 上下の感覚は曖昧で、地平線すら存在しない。

 空が空を映し、雲が逆さまに流れ、風は渦を巻いて戻ってくる。


 空間そのものが“意思”を持っているかのように、歪み、ねじれ、脈動していた。


(……ここ、空じゃない)


「まるで……空の“裏側”だな。影がひっくり返ったみたいだ……!」


 悟はアカネの背にしがみつきながら、視界のすべてに神経を研ぎ澄ます。

 風鋼の刃がかすかに唸りを上げ、何かの“気配”を知らせている。


 瘴気。


 だが、今までのように肌を刺すような濁流ではなかった。

 これはもっと冷たい。内側から染み込んでくるような、静かな毒。


 そのとき、風が止んだ。


 アカネの翼が急に重くなる。空気の支えが、失われる。


(悟、風が……動かない!)


「っ、くそ……!」


 空間の一角に、ぽっかりと“穴”が開いた。

 そこから“仮面”が現れた。


 以前と同じ、無表情の白面。だがその背後には、人のような形をした影がうごめいていた。


 仮面が、こちらを見ていた。

 何も語らず、ただ存在する“圧”だけで空を支配している。


 やがて、言葉が響く。


『おまえたちは、試される』


 それは悟の中に直接流れ込んでくる声だった。


『空の心臓へ至る資格……竜の器としての証明。示せ』


 アカネが低く唸る。


(……こいつ……瘴気だけじゃない。竜の力まで……混ざってる!?)


 仮面の影が動いた。


 空間を引き裂くように、黒い斬撃が走る。

 悟とアカネは辛うじて横へ飛び、距離を取る。


「こいつ……動けるのか……!」


(悟、来る!)


 影が裂け、仮面の主の腕が現れる。

 竜の鱗に似た瘴気の装甲。仮面の“中身”はまだ明らかにならない。


 だが、アカネの咆哮がそれを押し返した。


 空気が震え、瘴気の波が後退する。


(今のあたしなら……!)


 アカネが突進する。翼をたたみ、紅竜の体が矢のように空を裂いた。


 風を纏い、悟が跳躍する。


「喰らええええええっ!!」


 風鋼の刃が、仮面の影を断ち裂いた。


 しかし。


 手応えは、ない。


 刃は通った。確かに斬ったはずだ。


 だが、仮面は微動だにせず、ただ、静かにこう告げた。


『おまえたちは、まだ届かない』


 その瞬間、空が崩れた。


 重力が逆転し、風が千切れ、視界が白く染まる。


「アカネっ!」


(悟っ!)


 二人は弾かれ、別々の方向へと放り出されていく。


 空が、閉じようとしていた。


 仮面の影はなお静かに佇んだまま、言葉のようなものを最後に残した。


『……おまえたちには、まだその空は踏ませない』

『背負うには、なお……小さすぎる』

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?