封域からの脱出後、風の郷にはしばしの静寂が訪れていた。
瘴気の根は打ち払われ、仮面の姿も消えたが、それが“終わり”ではないことを悟たちは知っていた。
「アカネに、導きの時が来たようじゃな」
そう口にしたのは、風読みの長・エルナだった。
風の郷の奥、さらに山深く。風すら届かぬ場所に、“竜の魂の祠”があるという。かつて皇竜がその地に残した分体が眠っており、それは分体でありながらも、“導かれし竜”だけが継承を許されるという。
「アカネ、おぬし……感じておるのじゃろう?」
(うん……あそこに、“何か”がいる……懐かしい感じがする)
アカネの目が細くなる。いつになく真剣な表情だった。
悟は迷わなかった。
「行こう、アカネ。……お前が行きたいなら、迷う理由なんてねぇ」
***
山道は険しかった。
風の加護が届かないせいか、空気は重く、霧が道を覆っていた。
だが、アカネの足取りは確かだった。
まるで、生まれる前から知っているかのように。
やがて、霧が晴れた先に、小さな祠が姿を現した。
苔むした石の鳥居。風に削られた獣道。その奥に、静かに息づくような、何かの“気配”があった。
アカネは一歩、祠の中へ踏み入った。
悟は外で待つ。フィーネもそれに倣った。
そして、静寂が、破られた。
咆哮。
それは、天を揺るがすほどの重厚な声だった。
祠の奥から、赤い光が溢れる。
まるで火のように、だが決して熱くはない。それは“力”そのものの輝きだった。
アカネの姿が、光の中でゆっくりと浮かび上がる。
小さな体は、うねるように形を変えていく。
翼が広がり、尻尾が太く、しなやかに。
足も、首も、胴も、全てが一回り……いや、二回り大きくなっていた。
やがて、光が収まる。
そこに立っていたのは、全長二メートルの紅竜。
以前よりも鋭く、凛々しく、力強い姿へと変貌したアカネだった。
彼女はゆっくりと悟のほうを向き、言葉を紡いだ。
(……悟、ただいま)
その声は、以前よりも落ち着いていた。
子供らしさが抜け、大人びた響きと余裕がある。だが、根底にあるものは変わらない。
あの無邪気で、真っ直ぐで、そして優しい心。
悟は笑った。
「……でけぇな、おい」
(ふふん、どう? かっこいい?)
「……ああ。最高に頼もしいよ、アカネ」
風が吹いた。
祠の周囲に、葉が舞う。
それは、竜の継承が無事に果たされた証。
新たな力を得たアカネは、今や瘴気の根にも対抗しうる、風と竜の“希望”となった。
***
夕暮れが、山を染めていた。
竜の魂の祠から戻ったアカネの姿は、沈黙する風の郷に、新たな気配として染み渡っていった。
ひと気の絶えた家々に残る“風の記憶”が、かすかに揺れる。
まるで、かつて老竜がこの地を訪れた日を、記憶しているかのように。
悟は村の外れ、小さな高台に腰を下ろしていた。
隣には、変わらずアカネがいる。
いや、変わらず……というには、あまりに大きく、たくましくなっていた。
(なんか、座ると枝とかバキバキ折れるんだけど……)
「だろうな。前は隣に立っても目線が合ったのに、今は見上げてる」
(ふふん、敬意を持って見上げるがよい)
「おい調子乗るな。……でも、マジで助かった。あの封域、アカネがいなきゃヤバかった」
(悟も……あのとき、仮面に飲まれそうになってた)
「……ああ」
風が吹く。冷たくもなく、ただ静かに吹き抜ける夜の風。
「聞こえたんだ。あいつの声。……『おまえは死を選んだはずだ』って」
(でも、悟は違った)
「……あぁ。もう“死ぬための理由”じゃなくて、“生きるための意味”を選びてぇって思った」
(じゃあ、次は……)
アカネがそっと顔を寄せる。
(その“意味”、一緒に見つけよう)
「……あぁ」
そのときだった。
突風が、谷間から吹き上がる。
風の郷の中心部、巫女の祭壇に設けられた“風見の柱”が、異様な音を立てて回り始めた。
悟とアカネは、すぐに立ち上がる。
フィーネが駆け寄ってくる。
「……風が……警告しています。何かが、こちらへ向かっていると」
「瘴気の残滓か……?」
「いえ、これは……“風ではない風”。あの仮面の気配に、近い……!」
風見の柱が止まり、真北を指した。
その先は、遥か彼方、黒雲に覆われた山脈の先。
フィーネの瞳が細められる。
「……“影の空域”です。地図にも残らぬ空の裂け目。そこに、瘴気の本流が……」
「……仮面の“本体”が、そこにいるってことか」
アカネの目が鋭くなる。
(行こう、悟)
「……ああ。風が教えてくれた。次が最後の戦いになるって」
フィーネは小さくうなずき、空を見上げる。
「では、明日には風の郷を発ちましょう。風が開く“空の道”が、一時だけ現れるはずです」
“空の道”。
風読みの一族に伝わる、風と風が交差して開く幻の航路。
それは、地図にも記されぬ場所へ導く、唯一の風……仮面の主が待つ最終決戦の舞台へ通じるもの。
風が、再び吹いた。
その風の先に、今、戦いの“意味”が待っている。