地下への階段は、まるで無限に続いているかのようだった。
石を削り出して作られた壁は、かすかに風の紋を刻んでいる。その古びた線は、何世代もの巫女の手で修復されながら継がれてきたものだと、フィーネは言った。
だが、やがて紋章は掠れ、次第に瘴気の黒い苔のようなものが壁を覆い始めた。
空気が、変わる。
冷たい。
重い。
生き物の吐息のように、ぬるりと纏わりついてくる。
アカネがぴたりと悟の隣に寄り、尾を少し逆立てた。
(……ここ、やばい)
「あぁ……下手すりゃ、呼吸してるだけで持ってかれそうだ」
悟は口元を布で覆いながら、風鋼の刃を構える。刃の表面が、かすかに軋む音を立てた。
封域の最深部、石段を下りきった先には、広い円形の空洞が広がっていた。
天井からは根のような瘴気の触手が無数に垂れ下がり、中央には巨大な“瘴気の塊”が脈動している。それは、まるで胎児のように丸まり、呼吸のように膨らんでは萎んでいた。
瘴気の“根”だ。
しかし、悟がその存在に見入った次の瞬間、
視界が、歪んだ。
空間が、ぐにゃりと揺れたのだ。
「っ……ぐ……!」
頭を抱える。刃を持つ手が震え、立っていられなくなる。
(悟!?)
アカネが駆け寄ろうとするが、彼女の足もまた重く引きずられた。瘴気が意識を蝕んでくる。まるで夢を流し込まれるように、現実がぼやけていく。
そして、悟の意識は“そこ”へ引きずり込まれた。
……視界に、戦闘機の影が落ちる。
……爆音。炎。血。戦友の叫び。焼け落ちる街並み。
……そして、突撃前夜、鏡に映った自分の顔。
『死んでこそ、靖国で会える』
『お前は、国家の楯となれ』
その言葉を、信じていた。
それ以外に、生きる理由がなかった。
でも。
でも、なぜだ……なぜ、今、心の奥が疼く?
なぜ、ここで死ぬのが怖い?
「……うるせぇよ」
悟は呻き声を漏らした。
「今さら、俺の中で戦争を繰り返してんじゃねぇよ……!」
そのとき。
闇の中から、仮面が現れた。
のっぺりとした白。感情のない目の穴。
いや、穴などなかった。ただ“見られている”としか言えない感覚。
仮面の奥から、声が響いた。
『なぜ、迷う』
それは、外からではない。悟自身の心から、響いてきた。
『おまえは、捨てたはずだ。“生”など』
「……ああ、捨てたさ。捨てた。あの時の俺は……!」
悟は、ぐらつく膝で立ち上がる。
地面に手をつきながら、顔を上げる。
「でもな。もう一度、生きるって決めたんだよ……この世界で!」
その叫びと同時に、アカネの風が吹いた。
(悟っ!!)
風が瘴気を払い、意識を呼び戻す。
仮面はかすかに揺れ、次の瞬間、瘴気の奥へと消えた。
悟は肩で息をしながら、闇を睨みつけた。
「俺はもう、ただの“死ぬための兵隊”じゃねぇ……!」
風鋼の刃が再び、彼の手で構えられる。
その光は、瘴気の根へと向けられていた。
瘴気の根が、動いた。
地下の空洞に響く、ぬるりと這うような音。それは土と肉が混ざり合うような不気味な音色で、悟の背筋を冷たくなぞった。
中央に脈動していた瘴気の核、“星の根”が、まるで悟の決意に応えるように、ずるりと形を変える。
触手のように伸びた根が一本、天井を裂きながら振り下ろされた。
「来るぞっ!!」
悟は咄嗟に横へ跳び、風鋼の刃を振るう。根の先端をかすめ、腐肉のような粘液が飛び散った。足元の岩が溶けるように崩れる。
(これ……毒!?)
「瘴気が濃すぎる。まともに浴びたら……」
(悟、動かないで! “風”で流す!)
アカネが翼を広げ、空気を逆巻かせた。風が瘴気を断ち、悟の周囲を防壁のように包む。
その一瞬、空間の奥、瘴気の影がまた“形”を取った。
仮面。
今度は、ただの幻影ではなかった。瘴気の流れが仮面の形を取り、その内側から明確な“存在感”が滲み出している。
それは、まるで人のような輪郭を持ち、ただし目も口もない仮面を顔に貼りつけたまま、こちらを見ていた。
『……おまえが、“生”を選ぶのか』
声が、悟だけに届く。
『かつての戦友は、おまえに何を託した? “死”ではなかったのか?』
「……確かに、あいつらは死んだ。俺は置いていかれた」
風鋼の刃を構え直す。両手には力が入り、呼吸が深くなる。
「だけどな、あのときと今は違う。俺は、この世界で出会った奴らと……まだ、行く道がある」
(悟……!)
仮面は静かに手を伸ばす。瘴気が絡みつき、触れられた瞬間に意識を奪われるような、そんな不穏な気配を孕んでいた。
そのときだった。
フィーネが叫んだ。
「風よ!! 我らが守り手に応えよ!!」
彼女の声がこだました瞬間、空洞の天井から純白の風が降り注いだ。
それは瘴気を払う“浄化の風”……風読みの巫女だけが扱える、古の祈りの力だった。
風が根を裂き、瘴気を吹き飛ばす。仮面の姿も一瞬、ぐらりと揺らぐ。
「今だ、悟さん!!」
風を受けて、悟は跳んだ。
アカネが風を巻き上げ、跳躍を後押しする。
宙を舞う。再び。
その手には、風を纏った“刃”。
「行けええええええええっ!!」
風鋼の刃が、仮面の胸を貫いた。
瘴気が悲鳴のような振動を発し、空洞全体が揺れる。
だが、仮面は……消えなかった。
ただ、静かに口が動いたように見えた。
『……ならば、“本体”のもとへ来い』
その声とともに、仮面は崩れ、瘴気の奥へと溶けていった。
根は裂かれ、空洞の壁がひび割れる。封域そのものが崩壊し始めていた。
「逃げるぞ!! アカネ、フィーネ!!」
(うん!)
「っ、はい!」
三人は風の渦の中、崩れゆく封域から脱出を図る。
だがその背に、“真の瘴気”の気配が、ゆっくりと、目を覚ましていくのだった。