霧が、尾根の向こうから立ち上っていた。
悟たちが最後の岩段を登りきったその先に、風の郷……“風読みの一族”の村が姿を現した。
山の斜面にへばりつくようにして築かれた小さな集落。茅葺の屋根が風に揺れ、木製の橋が渓谷を渡っている。家々は石と木で作られ、自然の地形を壊すことなく調和していた。
だが、人の気配は希薄だった。
鳥の声、風の音、木々の葉擦れ……それ以外、何もない。
(……ひと気、ないね)
「……まるで、誰かに“黙れ”って命令されたみてぇな空気だ」
悟の言葉に、フィーネが小さくうなずいた。
「村は……既に、風に覆われています。瘴気に近づきすぎたせいかもしれません」
彼女は一軒の家に足を向けた。扉の前に立ち、風の流れを読むように目を閉じる。
そして、静かに扉を開いた。
そこには、白髪の老婆が一人、床に座していた。目を閉じているのか、薄く開けているのか判別がつかない。その存在すら、風の中に溶け込みそうな気配だった。
「……巫女フィーネ。戻ったのですね」
その声は、風が吹き抜けるようにか細く、だが明瞭だった。
「……エルナ様。ご無事で……」
フィーネが跪くと、老婆“風読みの長”は首をゆっくりと横に振った。
「風は……囁いています。星の根は、すでに動き出していると」
「“星の根”……それは、瘴気の源なのか?」
悟の問いに、老婆の視線がそっと彼に向けられた。
「あなたが、“空を喰らう者”を退けたと聞いています。……だが、あれは瘴気が芽吹かせた“枝葉”にすぎません。根は、大地の下……遥か昔、星が堕ちたとき、最も深くまで突き刺さりました」
(……瘴気の“根”が……)
「それは、この村の下にあるってことか……?」
「正確には、この山の地中深く“風の封域”と呼ばれる場所に。封じたのは私たちの先祖です。……瘴気の“源”は、まだ生きています」
悟は風鋼の刃に目を落とす。
幾度となく瘴気を断ち切ってきたこの刃が、今もなお微かに震えている。まるで、根に近づくにつれて、何かが共鳴しているように。
「……だったら、行くしかねぇな」
老婆はその言葉に、わずかに笑みを浮かべた。
「封域を開くには、“風を継ぐ者”の導きが必要です。……巫女フィーネ、あなたがその役目です」
「……はい」
フィーネは深く頭を下げた。その背中には、風を背負う覚悟が宿っていた。
そして、悟とアカネは、その背を追い、再び歩き出す。
“星の根”へ。瘴気の源が眠る、闇の奥へと。
***
翌朝、風は止んでいた。
いや、“止まっているように見える”だけだった。
風の郷全体が、まるで息をひそめるかのように、ただじっとしている。木々は揺れず、鳥も鳴かず、空気すら張り詰めた膜のように重く感じられる。
それは、封域が開かれる前触れだと、フィーネが告げた。
村の外れ、崖の縁に築かれた祭壇。そこが“風の封域”への門であるという。
悟、アカネ、そしてフィーネは、祭壇の前に立っていた。
白石を積み重ねた環状の遺構。中央には風の紋章が刻まれた石盤があり、風を象る四本の柱が周囲を囲む。その下に、地下へ続く風道(ふうどう)が隠されているという。
「ここが……封域への扉か」
「はい。これより、“風の開門儀”を行います。……長き封印が、再び口を開くのは、百年ぶりのこと」
(……風が、ざわざわしてる。怖がってるみたい……)
「怖いのは……俺もだ。でも、やるしかねぇ」
フィーネが両手を組み、静かに呟く。
「風よ、眠りを破ることを許してください。巫女の声に、応えてください」
祭壇の柱が震え、風が渦を巻いた。
空気が震え、足元の石盤に淡い光が走る。風の紋章が浮かび上がり、封じられていた通路が、石と風の音を立てて開いていく。
冷たい空気が吹き上がった。それはまるで、地中の“何か”が、外気に触れて目を覚ましたかのようだった。
開かれた通路は、黒く、深く、底が見えない。
悟は一歩、前に出た。
「行こうぜ、アカネ」
(うん……でも、気をつけて。なにか、いる)
「……わかってる。あの仮面が、また出てくる気がする」
闇へと踏み込んだその瞬間、背後で風がひときわ強く吹き抜けた。
まるで、何かが、“風ではないもの”が、それを押し出したかのように。
地の底へと続く石の階段。封域は、静かに、そして確かに彼らを迎え入れた。
そこには、“星の根”と呼ばれる瘴気の根源、そしてあの仮面の主が待っている。