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第20話 風の郷、風の道

 巨体が崩れ落ちた。


 喰い主の体内から噴き出した瘴気が、風に乗って霧散していく。黒煙にも似たその残滓は、空に溶け、やがて清らかな風が吹き返した。


 悟は力尽きたように、地面に膝をついたまま動かなかった。


 肩で息をする。その手には、なお風鋼の刃が握られていた。赤黒く染まった刃先が、やがて微かに光を失っていく。


(……悟! しっかりして!)


 アカネが駆け寄ると、悟はかろうじて片目を開けて笑った。


「……あぁ、大丈夫だ……なんとか、なった……な」


(よかった……でも、まだ……終わってない)


「……ん?」


 アカネの視線の先に、黒い残滓が集まり始めていた。


 それはまるで、喰い主の“屍”から滲み出すように……否、“屍”を通じて何かがこちらを覗いているようだった。


 その中心に、うっすらと浮かび上がった“何か”があった。


 仮面だった。


 白く、のっぺりとした無表情な仮面。目の部分には穴もなく、感情の欠片も読み取れない。


 フィーネが駆け寄ってくる。風の結界が収まり、彼女の顔には疲労が色濃く刻まれていた。


「……仮面……また、現れた……!」


(あれ、前にも……星の下で……見た気がする……)


 仮面はひとしきり脈動した後、瘴気の残り香ごと、空気のひび割れに吸い込まれるようにして消えた。


 何もなかったかのように、静寂だけが残る。


 悟は、しばらくその空を見上げていた。


「……終わったんじゃねぇ……まだ、続いてるんだな」


 風が吹く。


 吹き抜ける風の中で、フィーネはゆっくりと目を閉じた。


 長い銀髪がなびき、風と同調するかのように、その指先が空へと掲げられる。


「……空は、まだ泣いています。喰い主を倒しても……根は、絶たれていない」


 その言葉に、悟は目を細めた。


「……どういうことだ。アイツは、もう……」


「“瘴気の心臓”は、確かにあなたが貫きました。けれど、それは……“芽”に過ぎない」


 フィーネの声は、風に揺れながらも、確かに悟の耳に届いた。


「風が囁いています。……“星の根”が、未だこの地に絡みついていると」


(星の……根?)


 アカネが首をかしげると、フィーネはわずかにうなずいた。


「……風読みの一族に伝わる古い言葉があります。星が堕ちたとき、大地はそれを飲み込み、根を生やしたと」


「……瘴気の根源が、まだ地中にあるってことか」


「はい。私たちの村……“風の郷(さと)”には、その秘密を記した石碑が残されています。風を読む巫女たちは、代々それを守ってきました」


 悟はしばし黙り、崩れた地面を見つめる。


 もはや喰い主の姿はなく、ただ黒く焦げた土があるのみ。


 だが、あの仮面、“何か”は確かにあった。あれを放ってはおけない。


「……じゃあ、行くしかねぇな。“風の郷”ってとこに」


 立ち上がろうとした悟の体を、アカネがそっと支える。


(傷、まだ深いよ。無理しちゃ、ダメ)


「わかってる……でも、止まってる暇はねぇ」


 風が、再び吹いた。


 かつての“戦場”の匂いではない。


 新たな戦いの予感をはらんだ、静かな、けれど確かな風だった。


 空は、透き通るように晴れていた。


 瘴気に覆われていた空域はすでに消え失せ、どこまでも澄んだ青が広がっている。森の緑も生気を取り戻し、風は穏やかに木々の枝を撫でていた。


 その中を、悟たちは歩いていた。


 先頭にはフィーネが立ち、風の流れを指先で感じ取りながら進路を選んでいく。その歩みに迷いはない。彼女は風と共に生きているのだと、悟は感じた。


 アカネは悟の隣を飛ぶでもなく、歩調を合わせてぴたりと寄り添っている。


(この先、山を越えると……風の郷があるんだって)


「山って、結構な標高だな。……足、もつかねぇかもな」


(無理しちゃダメ。……背負えたらいいんだけど)


「いや、それは無理だろ」


 冗談を交わすようでいて、そこにあるのは互いへの確かな信頼だった。


 やがて、森の木々が疎らになり、獣道のような細道が現れた。岩がちで斜面も多く、明らかに人の通る道ではない。


「……ここを登るのか?」


「はい。風の郷は、“風を拒む者たち”から身を隠すため、深い山の上にあります。風を読めぬ者には、道すら見えません」


 フィーネがそう言うと、確かにその先の道筋が、まるで風に導かれるように形を変え始めた。


 木の葉が舞い、枝が揺れ、小石が転がる。


 風のささやきが、道を作る。


 悟は思わず息を呑んだ。


「……本当に、風と生きてるんだな」


「ええ。風の一族は、風を“声”として聞き、それを“道”として読むのです。私の故郷は、そうして守られてきました」


 やがて、岩壁を縫うように続く山道が彼らの前に現れる。苔むした石段に、微かに人工の手が加えられているのが見えた。


(ここ、昔の人が通った跡かも)


「いや……今でも、生きてる人間がいるかもしれねぇな」


 アカネと悟が視線を交わしたそのときだった。


 風が、ふと止んだ。


 フィーネが足を止める。空が、一瞬、妙な静けさをまとった。


「……風が、耳を塞ぎました。……誰かが、こちらを見ています」


 その言葉とともに、山の奥、岩陰の彼方から、かすかに白い“仮面”が、風の流れに乗って揺れていた。


 あの無表情の“仮面”が、再び。


 悟は風鋼の刃に手を添えた。アカネの目も細く鋭くなる。


「……見られてるのか、それとも──導かれてんのか」


 風の郷は、もう近い。


 だがその地は、ただの故郷ではない。


 過去と真実、そして“瘴気の根”が眠る場所。


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