喰い主の腕が振り下ろされる、その直前、悟は地を蹴った。
風が彼の背を押す。アカネもまた、風を巻き起こし、喰い主の攻撃を逸らすように滑空する。
ズシン、と神殿跡が唸りを上げて揺れた。瘴気が波紋のように広がり、草は枯れ、岩が腐り崩れる。
「フィーネ、大丈夫か!」
「こっちは平気……でも、この瘴気、どんどん広がってる……!」
彼女の張った結界の内側にだけ、まだ緑と風が残っている。だがそれすらも、次第に侵されようとしていた。
喰い主は無言だった。ただ、意思のような“圧”だけが空間に満ちていく。
(……悟、あれ……何か、来る)
アカネが警告を発した瞬間、喰い主の“眼”が悟を捉えた。
次の瞬間、視界が、白く塗り潰された。
空も、大地も、アカネの気配も、すべてが遠のく。
どこか別の空間へと引き込まれたような感覚だった。否……喰い主の意識に触れたのだ。
***
空が、焼け落ちていた。
それは悟の“記憶”だった。
爆音、炎、弾ける機体の破片。そして、炎の中で笑っていた戦友の顔。
「死ぬことこそ、美しいのだ」
「国のために、天皇陛下のために……」
声が木霊する。それは悟が幾度となく聞かされた“正義”だった。
しかしその景色の中心に……堕ちた星が、黒く、赤く、沈んでいる。
「……お前は、死にたかったのか?」
誰かの声が聞こえた。低く、重く、喰い主とは思えぬ、だが確かに内側から発せられた声だった。
悟は問われていた。
(死にたかった? あの瞬間に?)
だが彼は、答えを返せなかった。
***
(悟!!)
アカネの声が、頭の中で炸裂した。
意識が引き戻される。
気づけば悟は、喰い主の“眼”を真正面から見据えていた。風鋼の刃を握る手には、汗がにじんでいる。
(……今のは、俺の記憶を、見せられたのか……?)
喰い主の眼が、再びぎらりと光る。
“お前はまだ、過去に囚われている”そんな風に言われた気がした。
「違う……! 俺は――」
悟は叫んだ。
「死ぬためにここに来たんじゃねぇ! 生きるってことを、探すために、この空の下に立ってんだ!」
風が、爆ぜた。
アカネが空へ舞い、風を巻く。
(悟、行こう。今度こそ……前に!)
風鋼の刃が唸る。
悟は走った。
瘴気を裂き、喰い主のもとへ。
喰い主が放った瘴気の触手が、空間そのものを裂くように迫ってきた。
悟は風鋼の刃を斜めに構え、一歩踏み込む。足元に風が巻き上がり、跳躍と同時にアカネがその背後から風の圧力を加える。大気が押し上げるように彼の体を浮かせた。
(アカネ……いい風だ!)
(うん、悟の跳躍に合わせて風を送ってる。落ちる時も、ちゃんと掴まえてみせる)
悟は空中で回転しながら、風鋼の刃を一閃。振り上げられた触手を斬り裂いた。だが、切り離された部分すら黒い霧となって再び再生する。
「斬っても斬っても……無限かよ!」
その間にも、喰い主の体からは瘴気が脈動し続けていた。脈動は地を伝い、神殿跡にひび割れを広げていく。台座の中心が陥没し、黒い液体のようなものが滲み出た。
まるで、この地そのものを喰らっているようだった。
「……このままじゃ、空だけじゃない。大地ごと死ぬ……!」
フィーネが叫び、結界を張り直す。だが結界の膜すら、瘴気に焼かれ始めていた。
「フィーネ、耐えきれそうか!」
「あと数分……もたせてみせるから、今、あれを止めて……!」
悟は唇を噛み、再び跳んだ。
今回は空中で留まらない。跳躍と同時に、アカネが風の渦を生み出し、悟を旋回させる。
(回して、回してくれ……!)
風を受けて、悟の体が空中で横に流れながら弧を描く。その勢いのまま、喰い主の側面へと突っ込む。
風鋼の刃が、瘴気の装甲を斬り裂いた。
中からは、赤黒い瘴気の液が噴き出す。だが、痛覚などないのか、喰い主は微動だにしなかった。
「効いてる……けど、浅い……!」
悟が後退しようとしたその時、喰い主の“眼”が悟を再び捉えた。
ぞわり、と背筋を這い上がる冷たい感触。
その“眼”から放たれた紫紺の光線が、まっすぐ悟を貫こうと走る。
(来る!)
アカネが風の壁を巻き起こした。だが、光線はそれを容易く貫通する。
「ちいっ!」
悟は剣を前に突き出し、風の力と共に斬り払う。
光線と風鋼の刃が交錯する一瞬、空間に火花が走った。
だが、押し負ける!
刃が弾かれ、悟の体が吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
(悟!)
アカネが即座に風で悟の体を包み、落下の衝撃を和らげるように着地を導く。地面に叩きつけられる直前、風が舞い、悟の背を支えた。
ひざをつきながら、悟は歯を食いしばる。
「……攻撃だけじゃ、削りきれねぇ……!」
(悟……あれは、“瘴気の心臓”がある。内部に……!)
「……中、か……!」
アカネの直感は、瘴気に共鳴したことで得た情報だ。
悟は風鋼の刃を逆手に構え直し、血の滲む手を握り締めた。
「だったら、そこをぶち抜くまでだ。……アカネ、あと一回だけ……俺を風で撃ち上げてくれ!」
(わかった。悟なら、届く!)
風が収束する。
悟の周囲に、風が渦を巻く。
彼は地を蹴る。跳躍。
アカネがそれを“風”で押し上げた。
風を纏った刃が、まっすぐに喰い主の胸部に突き立った。
赤黒く脈動していた瘴気の核、心臓めがけて。
刹那、濁流のように瘴気が噴き出し、喰い主の咆哮が空を割った。
「これが、俺の答えだ!!」
そして、喰い主の巨体が沈黙した。