“空喰い”を退けた森の高台に、小さな焚き火が静かに燃えていた。薪がパチパチと音を立て、赤い火の粉が夜空に舞う。風は静かで、森はまるでこの一日の出来事を忘れたかのように穏やかだった。
悟は火の前に座り、風鋼の刃を膝に横たえていた。剣は、どこか誇らしげに微かに輝いている。刃の表面に映る火のゆらめきが、まるでそのまま空の戦場を映し出すようだった。
(……今日は、よく戦った)
アカネが焚き火の向こう側、悟の真正面で横になっている。翼を折り畳み、くるんと尾を丸めるようにして、眠るでもなく、静かに悟を見つめていた。
悟は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「お前は……ああやって、いつも俺を見てるよな」
(うん。悟が、どこかへ行ってしまいそうだから)
「そうか……」
言葉は、それ以上続かなかった。戦闘の疲れが、骨の芯まで染みていた。それでも悟は、空を見上げた。
そこにはもう、裂け目も瘴気もなかった。わずかに星が瞬き、月が、静かに世界を照らしている。
フィーネが、少し離れた場所で何かを祈るように座っていた。手を組み、瞳を閉じ、静かに風の音を聞いているようだった。
「空を読むってのは、ああいうのを言うんだろうな」
(風の音、聴こえる?)
「昔は……プロペラの風切り音ばかりだった」
悟の言葉に、アカネが微かに首を傾けた。
(プロペラ……?)
「飛ぶための道具さ。空を裂いて進むための……あれで飛べたときは、怖くなかった。空の上でだけは……自由だったから」
焚き火の赤が、悟の横顔を照らす。その瞳に、かつての戦場の空が映っていた。
「でも、あの空には、敵しかいなかった。けど……今は違う。今の空は……守りたいと思う。お前や、フィーネや……そういう誰かの空なんだ」
(……うれしい)
アカネの声は、とても優しかった。
悟は、火の中の薪が崩れる音に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。
焚き火の音、風の囁き、小さな竜の気配。どれもが今、彼にとって何よりの安らぎだった。
だが……その穏やかなひとときに、かすかに、異質な風が混じった。
フィーネが突然、顔を上げる。
「……風が、ざわめきました」
悟も立ち上がり、剣に手を添える。
「何か、来るのか?」
フィーネは頷き、遠くの空を指さす。
「明日、北の空に新たな裂け目が開くでしょう。……場所は、“星の墓標”」
その言葉に、悟の顔が引き締まる。
「そこが、次の戦場か」
(……一緒に行く)
アカネが静かに立ち上がる。翼を少し広げて、月光を受けながら、悟の隣へ寄り添う。
夜空は穏やかだったが、彼らの歩む道に、安穏はない。
それでも、風は、前へと吹いていた。
***
夜が明けた。
霧のように薄く漂っていた瘴気の残滓も、風に払われ、森の空は清らかさを取り戻していた。フィーネは早朝から風の流れを読んでいたが、目を伏せたまま言った。
「風が導いています。“星の墓標”へ行かねばなりません。……空が、そこから壊れようとしています」
悟は、アカネの背に手を添え、視線を空へ向けた。雲の向こうに、うっすらと光の筋が走っている。まるで“空の裂け目”の予兆が、あらかじめ傷痕のように走っているようだった。
「道案内は任せる。行こう、アカネ」
(うん。風が……急いだほうがいいって、言ってる)
荷を背負い直し、悟たちは森を抜ける道を歩き出した。鳥の声がちらほらと戻ってきていたが、風はどこかせかすように強まっていた。
“星の墓標”までは、徒歩で丸一日分ほどの距離だった。
道中、フィーネは口を閉ざしがちだった。悟もまた、黙々と歩く。森が開けた場所に出たとき、ようやくフィーネが呟いた。
「……“星の墓標”は、かつて空を守る者たちが集った祈りの地。風読みの一族が、遥かな時代から空の異変を記録してきた場所でもあります」
「空を守る者……あんたみたいな“空読み”が、そこに代々?」
「ええ。でも、今は……あそこに誰もいない。私の一族は皆、瘴気の影に倒れました」
フィーネの声には、どこか決意と寂しさが入り混じっていた。
悟は言葉を返さなかった。ただ、その背中を一歩後ろから見守っていた。
(……フィーネ、寂しそう)
アカネのテレパシーが、悟の中に響く。
「ああ……でも、強いよ。だから俺たちは、支える側だ」
やがて、丘を越えた彼らの視界に、それは現れた。
白い石で築かれた神殿のような構造物。風に削られ、半ば崩れながらも、空を見上げるように立っている。その中央には、巨大な円形の台座。そして、その頭上には……
バリバリバリッ!
空に裂け目が走った。
青空を引き裂くように、紫がかった瘴気の線が、空の真ん中に現れる。そこから滴るように、黒い光がぽつ、ぽつと降り注ぎ始めていた。
「間に合わなかったか……!」
悟が風鋼の刃を抜いた。そのときだった。
ズゥウウウ……ン……
重低音のような音が、空の彼方から鳴った。いや、響いたというより、魂の底に押し込まれたような、異常な感覚。
(……あれ、来る!)
アカネの警告と同時に、裂け目の中心から、何かが“落ちてきた”。
それは、まるで彗星のように尾を引きながら、黒と赤の塊となって空を裂いて降りてくる。
「“空喰い”……いや、違う、これは……!」
フィーネが一歩後退る。
「瘴気の中心核……“堕ちた星”が、実体を持って顕現しようとしている……!」
悟はアカネと目を合わせる。
「止めるしかねぇな」
(うん。空を、守ろう)
風が、また吹き始めた。今度は彼らの背を押す、決意の風だった。
空の裂け目から落下してきた“堕ちた星”は、神殿のような台座の上空に停止したまま、鼓動のようにゆっくりと脈動していた。
それは直径十数メートルはあろうかという黒く禍々しい塊で、表面は溶岩のように赤黒く光り、時折、内部から瘴気が泡のように吹き出していた。何かが中から出ようとしているのか、それとも、すでに“生まれつつある”のか。見る者にただの天体ではないという不快感を植えつける存在だった。
「まるで、空そのものに巣食う病だ……」
悟が呟く。
“風鋼の刃”が風に鳴った。
その刃先が向けられた先……堕ちた星の下に、瘴気の光が集まり始める。
形を得た“何か”が、ゆっくりと地に降り立った。
黒い甲冑のような外皮に覆われた巨躯。背中には折れた翼のような瘴気の膜が広がり、顔らしき部位には一つだけ、巨大な眼が縦に走っている。
「これは……“空喰い”の主か……?」
「いいえ」
フィーネが、震える声で言った。
「これは、“喰い主(くいぬし)”。瘴気そのものが意思を持って形成された存在……この世界を喰らい尽くす災厄です」
(悟……風が、怖がってる)
アカネが背後から静かに囁くように送ってきた。今まで感じたことのない、不協和音のような風のざわめき。森全体がこの存在に恐れおののいているようだった。
「だが、逃げるわけにはいかない。あれを野放しにしたら、空も、大地も、人も、全部終わる」
悟は風鋼の刃を持ち直し、深く呼吸をする。風が、その動きに同調するかのように流れた。
喰い主が、動いた。
その巨大な脚が大地を踏みしめた瞬間、神殿の床石が砕け散る。瘴気が一気に広がり、空が一段と黒く染まりかけた。
フィーネが結界のような風の盾を展開し、後衛に回る。
(悟、行こう。私たち、やれる)
「……ああ。空を護るって、決めたからな」
その瞬間、悟とアカネの間に風が走った。
空へ。
いや、地を駆け、瘴気の主へと迫る。
悟は風鋼の刃を振るい、瘴気の触手を断ち切った。だがその度に、瘴気の煙が吹き出し、地面が腐っていく。
(このままじゃ、持たない……!)
悟が跳び退いたその隙に、喰い主が腕を振り上げた。
空間が歪む。
「来るぞ!」
地を抉るような衝撃が、彼らに迫った。