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第17話 空に響く咆哮

 “空喰い”の触手が唸りを上げて振り下ろされた。


 悟は咄嗟にアカネとフィーネを背後に庇い、地を蹴った。風鋼の刃が空を裂くように抜かれ、目の前に迫る触手へと閃いた。斬撃は手応えもなく、腐敗した空気だけを切り裂いて消える。


「斬れない!?」


(瘴気が、実体のように纏わりついてる……!)


 アカネが叫ぶように脳内へ送ってくる。確かに、目の前の“空喰い”は物理的な存在のようでいて、その一部は空気と同化しているかのように、境界が曖昧だった。


 別の触手が、地面をなぎ払うように横薙ぎに襲いかかってきた。悟はフィーネの手を引き、アカネの後ろへと飛び退く。風が巻き起こり、巻き上がった砂塵が視界を奪った。


「フィーネ、巻き込まれるな! 下がってろ!」


「でも、空の気が……あの裂け目が……鼓動を早めてる……!」


 空に浮かぶ亀裂。その裂け目の中央部が脈動するように脈打ち、そこから瘴気の圧があふれ出していた。まるで世界そのものが病に侵されているかのような息苦しさが、肺を満たす空気を腐らせていく。


(悟、風を感じて)


「……風?」


(この空に流れる風は、“空喰い”の瘴気を嫌って、逃げてる)


 アカネの瞳が空を見上げている。鱗の隙間から発せられる風の魔力が、まるで竜巻のように彼女の周囲で渦を巻き始めていた。


(私、風の流れに乗る。風鋼の刃も、その風で……)


「つまり、風を纏って斬るってことか」


(うん。やってみる)


 悟は小さく息を吸い、再び風鋼の刃を構えた。風が刃に沿って流れ、薄く青白い光を帯びていく。その感覚はまるで、「疾風」と同調していたあの頃の機体との一体感。


 “空喰い”の触手が再びうねりながら迫ってきた。


「アカネ、行くぞ!」


(任せて!)


 アカネの翼が空を裂くように羽ばたく。空を切る軌道で悟と共に跳躍し、迫る触手の間をすり抜けて、風鋼の刃が煌めいた。今度は斬れた。瘴気の膜が引き裂かれ、触手の一部が黒い液体を噴き出しながら崩れ落ちる。


「やった……!」


 だが、喜ぶ暇はない。空喰いの本体、中央の眼が悟を睨みつけるように瞬いた。


(悟、あれはまずい!)


「来るか――!」


 空喰いの体内から、瘴気の奔流が爆発的に放たれた。それは魔力でも、風でもない、“腐敗”そのものが実体化したような塊。避けきれないと悟が悟った瞬間……


 アカネが前へ飛び出した。


(私は守るって決めた!)


 彼女の咆哮が空を震わせる。風が一気に渦巻き、瘴気を逆流させるかのように巻き返す。風鋼の刃がその流れに乗り、悟は疾風のように空喰いへ肉迫した。


「これで終わりだっ!」


 風と共に踏み込んだ斬撃が、“空喰い”の中央の眼を貫いた。


 瞬間、裂け目が一気に脈動を止め、瘴気が空中で逆巻くように渦を描いた。その中心で、“空喰い”の体が溶けるように崩れていき、風の中に霧散した。


 空に、静寂が戻った。


(……終わった?)


「いや……裂け目が、閉じていく」


 フィーネが空を見上げて呟く。確かに、裂け目はゆっくりと、まるで息を引くように、音もなく閉じていった。


 風が戻る。空が、晴れる。


 悟は風鋼の刃を静かに納めた。


「……空を、守れたか」


(うん、きっと)


 アカネの体から、まだ淡い風の魔力が残光のように漂っていた。


 それはまるで、風の中に生きる者たちが、再びこの空の下で呼吸できることを、そっと教えてくれるようだった。


***


 戦いの余韻が、森の静けさを取り戻し始めていた。


 “空喰い”の残骸も瘴気も、風と共に霧散し、空の裂け目は完全に閉じていた。広がっていた瘴気の気配は、まるで存在しなかったかのように掻き消え、冷たく張りつめていた空気に、柔らかな春風が戻ってきた。


(……風が、澄んできた)


 アカネがそっと囁くように伝える。


 その翼には、先程までの闘志とは異なる、どこか神聖な静謐が漂っていた。悟はその様子に、小さく息をついた。


「無事で、よかったな」


(悟が、いたから……)


 アカネが小さく首をすくめる。頬を風が通り抜け、悟の額にかいた汗を拭い去った。


 フィーネがようやく立ち上がり、両手で胸元を押さえて空を見上げた。


「空が……少しだけ、澄んだような気がします」


「あれが“空喰い”ってやつか。てっきり、もっと現実味のない化け物かと思ったけど、あんな化け物が空を喰らってるなら、この世界の空が病むのも無理はないな」


「ええ……あれは、瘴気が“意思”を持った時に生まれる現象。瘴気の中でも極めて悪性の力です。だから、空に裂け目ができると……」


 フィーネはそこで言葉を止め、首を振った。


「いえ、説明は後です。まずは、今のお二人に、礼を」


 フィーネは深く膝を折り、静かに頭を下げた。


「空の巫女として……空を守ってくれたこと、感謝します」


「巫女が頭を下げるなんて、やめてくれ。俺は……」


(悟は、空を飛ぶのが好きだから)


 アカネが遮るように入ってくる。その言葉に、悟は不意に笑みを零した。


「……そうだったな」


 どこか遠い記憶の中、戦闘機のコクピットで見上げた青空が蘇る。あの空の向こうには敵がいた。だからこそ飛んだ。だが……


 今、目の前に広がるこの空は、守るべきものだった。


「なあ、フィーネ」


「はい?」


「この空の裂け目……どこにでも現れるのか? それとも、狙われやすい場所とか、あるのか」


「……実は、あります。それを……お伝えしなければならないことが、もうひとつ」


 フィーネの瞳が揺れる。


 その視線の先には、空の彼方に浮かぶ、雲をまとった巨大な浮遊大陸があった。


「“神の天蓋”……瘴気の根源が、そこにあると古文書は記しています。今回の裂け目も、あの方向から流れてきたものです」


 悟はその名に眉を潜めた。


「神……?」


「名前だけです。でも、あそこには、何かが“空の構造”を乱している……それは確かです」


 アカネが翼を小さく畳み、肩をすくめるように言った。


(きっと、私たちがそこへ行く時が来る)


 悟は、風鋼の刃の柄をそっと握った。


 何かが、動き出している。


 そして、自分もまた、この空を守る一人として、その流れの中に立っているのだと。


 空の彼方を見上げながら、悟は思う。


 次に向かうべき場所が、少しずつ見えてきているのだと。

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