“空喰い”の触手が唸りを上げて振り下ろされた。
悟は咄嗟にアカネとフィーネを背後に庇い、地を蹴った。風鋼の刃が空を裂くように抜かれ、目の前に迫る触手へと閃いた。斬撃は手応えもなく、腐敗した空気だけを切り裂いて消える。
「斬れない!?」
(瘴気が、実体のように纏わりついてる……!)
アカネが叫ぶように脳内へ送ってくる。確かに、目の前の“空喰い”は物理的な存在のようでいて、その一部は空気と同化しているかのように、境界が曖昧だった。
別の触手が、地面をなぎ払うように横薙ぎに襲いかかってきた。悟はフィーネの手を引き、アカネの後ろへと飛び退く。風が巻き起こり、巻き上がった砂塵が視界を奪った。
「フィーネ、巻き込まれるな! 下がってろ!」
「でも、空の気が……あの裂け目が……鼓動を早めてる……!」
空に浮かぶ亀裂。その裂け目の中央部が脈動するように脈打ち、そこから瘴気の圧があふれ出していた。まるで世界そのものが病に侵されているかのような息苦しさが、肺を満たす空気を腐らせていく。
(悟、風を感じて)
「……風?」
(この空に流れる風は、“空喰い”の瘴気を嫌って、逃げてる)
アカネの瞳が空を見上げている。鱗の隙間から発せられる風の魔力が、まるで竜巻のように彼女の周囲で渦を巻き始めていた。
(私、風の流れに乗る。風鋼の刃も、その風で……)
「つまり、風を纏って斬るってことか」
(うん。やってみる)
悟は小さく息を吸い、再び風鋼の刃を構えた。風が刃に沿って流れ、薄く青白い光を帯びていく。その感覚はまるで、「疾風」と同調していたあの頃の機体との一体感。
“空喰い”の触手が再びうねりながら迫ってきた。
「アカネ、行くぞ!」
(任せて!)
アカネの翼が空を裂くように羽ばたく。空を切る軌道で悟と共に跳躍し、迫る触手の間をすり抜けて、風鋼の刃が煌めいた。今度は斬れた。瘴気の膜が引き裂かれ、触手の一部が黒い液体を噴き出しながら崩れ落ちる。
「やった……!」
だが、喜ぶ暇はない。空喰いの本体、中央の眼が悟を睨みつけるように瞬いた。
(悟、あれはまずい!)
「来るか――!」
空喰いの体内から、瘴気の奔流が爆発的に放たれた。それは魔力でも、風でもない、“腐敗”そのものが実体化したような塊。避けきれないと悟が悟った瞬間……
アカネが前へ飛び出した。
(私は守るって決めた!)
彼女の咆哮が空を震わせる。風が一気に渦巻き、瘴気を逆流させるかのように巻き返す。風鋼の刃がその流れに乗り、悟は疾風のように空喰いへ肉迫した。
「これで終わりだっ!」
風と共に踏み込んだ斬撃が、“空喰い”の中央の眼を貫いた。
瞬間、裂け目が一気に脈動を止め、瘴気が空中で逆巻くように渦を描いた。その中心で、“空喰い”の体が溶けるように崩れていき、風の中に霧散した。
空に、静寂が戻った。
(……終わった?)
「いや……裂け目が、閉じていく」
フィーネが空を見上げて呟く。確かに、裂け目はゆっくりと、まるで息を引くように、音もなく閉じていった。
風が戻る。空が、晴れる。
悟は風鋼の刃を静かに納めた。
「……空を、守れたか」
(うん、きっと)
アカネの体から、まだ淡い風の魔力が残光のように漂っていた。
それはまるで、風の中に生きる者たちが、再びこの空の下で呼吸できることを、そっと教えてくれるようだった。
***
戦いの余韻が、森の静けさを取り戻し始めていた。
“空喰い”の残骸も瘴気も、風と共に霧散し、空の裂け目は完全に閉じていた。広がっていた瘴気の気配は、まるで存在しなかったかのように掻き消え、冷たく張りつめていた空気に、柔らかな春風が戻ってきた。
(……風が、澄んできた)
アカネがそっと囁くように伝える。
その翼には、先程までの闘志とは異なる、どこか神聖な静謐が漂っていた。悟はその様子に、小さく息をついた。
「無事で、よかったな」
(悟が、いたから……)
アカネが小さく首をすくめる。頬を風が通り抜け、悟の額にかいた汗を拭い去った。
フィーネがようやく立ち上がり、両手で胸元を押さえて空を見上げた。
「空が……少しだけ、澄んだような気がします」
「あれが“空喰い”ってやつか。てっきり、もっと現実味のない化け物かと思ったけど、あんな化け物が空を喰らってるなら、この世界の空が病むのも無理はないな」
「ええ……あれは、瘴気が“意思”を持った時に生まれる現象。瘴気の中でも極めて悪性の力です。だから、空に裂け目ができると……」
フィーネはそこで言葉を止め、首を振った。
「いえ、説明は後です。まずは、今のお二人に、礼を」
フィーネは深く膝を折り、静かに頭を下げた。
「空の巫女として……空を守ってくれたこと、感謝します」
「巫女が頭を下げるなんて、やめてくれ。俺は……」
(悟は、空を飛ぶのが好きだから)
アカネが遮るように入ってくる。その言葉に、悟は不意に笑みを零した。
「……そうだったな」
どこか遠い記憶の中、戦闘機のコクピットで見上げた青空が蘇る。あの空の向こうには敵がいた。だからこそ飛んだ。だが……
今、目の前に広がるこの空は、守るべきものだった。
「なあ、フィーネ」
「はい?」
「この空の裂け目……どこにでも現れるのか? それとも、狙われやすい場所とか、あるのか」
「……実は、あります。それを……お伝えしなければならないことが、もうひとつ」
フィーネの瞳が揺れる。
その視線の先には、空の彼方に浮かぶ、雲をまとった巨大な浮遊大陸があった。
「“神の天蓋”……瘴気の根源が、そこにあると古文書は記しています。今回の裂け目も、あの方向から流れてきたものです」
悟はその名に眉を潜めた。
「神……?」
「名前だけです。でも、あそこには、何かが“空の構造”を乱している……それは確かです」
アカネが翼を小さく畳み、肩をすくめるように言った。
(きっと、私たちがそこへ行く時が来る)
悟は、風鋼の刃の柄をそっと握った。
何かが、動き出している。
そして、自分もまた、この空を守る一人として、その流れの中に立っているのだと。
空の彼方を見上げながら、悟は思う。
次に向かうべき場所が、少しずつ見えてきているのだと。