アカネの翼が広がった瞬間、空気が変わった。
風が渦を巻き、祠の周囲を包み込むように流れを変える。
赤い鱗に反射する光が脈動し、その小さな竜の体が、まるで別の存在に変わり始めたようだった。
「……アカネ?」
悟が声をかけたその瞬間、彼の意識は引きずり込まれるようにして沈んだ。
視界が、白く染まる。
風も音もない、静寂の中に、ただ一匹の巨竜が佇んでいた。
(これは……老竜?)
その巨体は山よりも高く、翼は雲をも覆うほど広がっていた。
だが、その姿は淡く、靄のように揺らいでいる。
(ここは……夢か?)
(否、記憶だ)
声が響いた。だが、どこからともなく。
(これは我が魂の欠片が残した記憶の海。分体である“アカネ”が接続を果たしたことにより、お主にも一部が開かれた)
(記憶……?)
(お主に託したのは、ただ命を救うためではない。そなたは“空を読む者”にはなれぬが、“空を飛ぶ者”として、この世界の天に何を刻むかを見るために選ばれた)
悟は、老竜の語る言葉を、まるで霧の中で聞くような感覚で受け取っていた。
(この世界の空は、今、裂けている)
(ああ……見たよ。空が割れてた。瘴気が……流れていた)
(あれは“外の死”。この世界には本来存在せぬ、“異なる世界の死の意志”だ)
(……外の死?)
老竜の姿がゆらぎ、代わりに「空の裂け目」が再現される。そこから這い出るように現れた黒い影たち……魔物、瘴気、闇の仮面の男。
(そなたの世界にも“死”はあった。戦場で、空を舞う鋼の鳥たちが命を奪い合ったようにな)
悟の胸がざわついた。
“死”はあった。それがすべてだった。
生き残ることではなく、どう美しく死ぬか……それが「戦時中」の彼に与えられた唯一の価値だった。
(だが、空とは本来、生の道である)
老竜の言葉に、悟は心のどこかが軋むのを感じた。
(生の道……)
(そなたは、空を知っている。敵艦へ突撃するための道ではなく、雲を抜け、風を裂き、空を翔けたときの、あの震えるような感覚を)
悟は思い出す。
出撃前、訓練中に見た、青空の彼方。
誰もいない空をひとり飛ぶときの、あの静けさと、高揚。
あれは、確かに「生」だった。
空は、死のためではなく、生きるための場所だった。
(そなたの翼は、まだ閉ざされている。だが、その想いは、我が分体に伝わるだろう)
視界の隅で、アカネの姿が浮かび上がる。
その目には、かつての老竜と同じ、深く澄んだ輝きがあった。
(アカネ……)
(今度は、お主の番だ。この空を、己の意志で翔けよ)
光が弾けた。
悟の意識は、現実へと引き戻された。
彼は倒れ込むように地に膝をつく。
だが、その腕の中には、微かに熱を帯びたアカネが寄り添っていた。
「おかえり……アカネ」
アカネは、静かに彼の顔を覗き込むと、ひとつ短く鳴いた。
(ありがとう。私は、老竜の記憶を受け継いだ)
その声は、確かに悟の心に届いた。
そこにはもう、幼いだけの声ではなかった。
少しだけ、大人びた……風を知る者の響きがあった。
***
「……戻ってきた?」
祠の前、岩場の陰で見守っていたフィーネが、悟とアカネが目を開けるのを見届けて近づいてきた。風は少しだけ弱まり、空の裂け目も、黒くうごめくその姿を薄めていた。
「アカネ……ちょっと大きくなった?」
悟がそうつぶやいた。確かに、赤い鱗の密度が増し、爪が鋭さを増している。体つきにまだ大きな変化はないが、眼差しが変わった。子供のような無邪気さの中に、どこか“達観”を思わせる静けさがある。
(成長……いや、記憶を受け継いだのだ。老竜の、空に生きた長き旅の記憶を)
アカネがテレパシーで悟にだけ告げる。
「……それで、なにが見えた?」
フィーネが慎重に問う。
「空の裂け目と、その向こう。……そして、老竜の言葉を。あいつは、アカネに全てを託してた」
悟の声は、かつてより幾分静かだった。
フィーネは、風を読むように空を見上げた。
「もう長くはもたない。裂け目が広がれば、この世界の“空”は完全に壊れる」
「空が壊れるってのは……どういう意味だ?」
「瘴気が流れ込み、空に住む生き物は死に絶え、飛ぶという概念自体が失われる。風が死に、季節が狂い、やがて……地も腐る」
「それって……」
「世界が崩れるってことよ」
悟は、言葉を飲み込んだ。
自分の知る戦争では、爆弾や銃弾が都市を焼いた。だが、ここでは“空”そのものが壊される、そんな戦いがあるのかと。
そのときだった。
ズズズ……ズオォ……
地鳴りのような音が、祠の裏手の崖下から響いた。
「……来たわ」
フィーネが短くつぶやく。
風が一気に冷たくなった。いや、“空気そのものが淀む”感覚。
悟はアカネと共に岩陰に身を寄せ、音の発生源に目を凝らした。
……瘴気の塊。
まるで巨大なクラゲが逆さになって、空から垂れてきたような異形。
その中央に、眼のような器官が瞬き、長く黒い触手を空中に漂わせていた。
「“空喰い”……!」
フィーネの声が震えた。
「あれが瘴気の実体化……?」
「ええ。空の裂け目を通じて、外の“死”が形を持つと、あの姿になるの。人間も魔物も、触れただけで腐って死ぬわ」
「……いい加減、逃げろって言ってもいいんだぜ?」
「でも、逃げた先に空がなければ……?」
悟は、フィーネの言葉に返す言葉がなかった。
アカネが悟の前に出る。翼を広げ、全身の鱗が淡く光る。
(……私、行く)
「行くって……お前、一人じゃ……!」
(違う。悟と一緒に、戦う。私たちは、空を守るって決めたから)
その瞬間、アカネの体から、風の魔力が弾けた。
悟の足元の岩が割れ、巻き上がる風の塵が周囲を包む。
「アカネ、お前……風が変わったな」
悟は腰の剣を引き抜いた。手に馴染む……もう、この世界での戦いに慣れてきた証だった
「行くぞ、アカネ」
(うん)
“空喰い”が触手を振り下ろした。
悟とアカネは、その前へ踏み出した。