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第16話 記憶の海、そして風を継ぐ者

 アカネの翼が広がった瞬間、空気が変わった。

 風が渦を巻き、祠の周囲を包み込むように流れを変える。

赤い鱗に反射する光が脈動し、その小さな竜の体が、まるで別の存在に変わり始めたようだった。


「……アカネ?」


 悟が声をかけたその瞬間、彼の意識は引きずり込まれるようにして沈んだ。


 視界が、白く染まる。


 風も音もない、静寂の中に、ただ一匹の巨竜が佇んでいた。


(これは……老竜?)


 その巨体は山よりも高く、翼は雲をも覆うほど広がっていた。

 だが、その姿は淡く、靄のように揺らいでいる。


(ここは……夢か?)


(否、記憶だ)


 声が響いた。だが、どこからともなく。


(これは我が魂の欠片が残した記憶の海。分体である“アカネ”が接続を果たしたことにより、お主にも一部が開かれた)


(記憶……?)


(お主に託したのは、ただ命を救うためではない。そなたは“空を読む者”にはなれぬが、“空を飛ぶ者”として、この世界の天に何を刻むかを見るために選ばれた)


 悟は、老竜の語る言葉を、まるで霧の中で聞くような感覚で受け取っていた。


(この世界の空は、今、裂けている)


(ああ……見たよ。空が割れてた。瘴気が……流れていた)


(あれは“外の死”。この世界には本来存在せぬ、“異なる世界の死の意志”だ)


(……外の死?)


 老竜の姿がゆらぎ、代わりに「空の裂け目」が再現される。そこから這い出るように現れた黒い影たち……魔物、瘴気、闇の仮面の男。


(そなたの世界にも“死”はあった。戦場で、空を舞う鋼の鳥たちが命を奪い合ったようにな)


 悟の胸がざわついた。

 “死”はあった。それがすべてだった。

 生き残ることではなく、どう美しく死ぬか……それが「戦時中」の彼に与えられた唯一の価値だった。


(だが、空とは本来、生の道である)


 老竜の言葉に、悟は心のどこかが軋むのを感じた。


(生の道……)


(そなたは、空を知っている。敵艦へ突撃するための道ではなく、雲を抜け、風を裂き、空を翔けたときの、あの震えるような感覚を)


 悟は思い出す。

 出撃前、訓練中に見た、青空の彼方。

 誰もいない空をひとり飛ぶときの、あの静けさと、高揚。


 あれは、確かに「生」だった。

 空は、死のためではなく、生きるための場所だった。


(そなたの翼は、まだ閉ざされている。だが、その想いは、我が分体に伝わるだろう)


 視界の隅で、アカネの姿が浮かび上がる。

 その目には、かつての老竜と同じ、深く澄んだ輝きがあった。


(アカネ……)


(今度は、お主の番だ。この空を、己の意志で翔けよ)


 光が弾けた。


 悟の意識は、現実へと引き戻された。


 彼は倒れ込むように地に膝をつく。

 だが、その腕の中には、微かに熱を帯びたアカネが寄り添っていた。


「おかえり……アカネ」


 アカネは、静かに彼の顔を覗き込むと、ひとつ短く鳴いた。


(ありがとう。私は、老竜の記憶を受け継いだ)


 その声は、確かに悟の心に届いた。

 そこにはもう、幼いだけの声ではなかった。

 少しだけ、大人びた……風を知る者の響きがあった。


***


「……戻ってきた?」


 祠の前、岩場の陰で見守っていたフィーネが、悟とアカネが目を開けるのを見届けて近づいてきた。風は少しだけ弱まり、空の裂け目も、黒くうごめくその姿を薄めていた。


「アカネ……ちょっと大きくなった?」


 悟がそうつぶやいた。確かに、赤い鱗の密度が増し、爪が鋭さを増している。体つきにまだ大きな変化はないが、眼差しが変わった。子供のような無邪気さの中に、どこか“達観”を思わせる静けさがある。


(成長……いや、記憶を受け継いだのだ。老竜の、空に生きた長き旅の記憶を)


 アカネがテレパシーで悟にだけ告げる。


「……それで、なにが見えた?」


 フィーネが慎重に問う。


「空の裂け目と、その向こう。……そして、老竜の言葉を。あいつは、アカネに全てを託してた」


 悟の声は、かつてより幾分静かだった。


 フィーネは、風を読むように空を見上げた。


「もう長くはもたない。裂け目が広がれば、この世界の“空”は完全に壊れる」


「空が壊れるってのは……どういう意味だ?」


「瘴気が流れ込み、空に住む生き物は死に絶え、飛ぶという概念自体が失われる。風が死に、季節が狂い、やがて……地も腐る」


「それって……」


「世界が崩れるってことよ」


 悟は、言葉を飲み込んだ。


 自分の知る戦争では、爆弾や銃弾が都市を焼いた。だが、ここでは“空”そのものが壊される、そんな戦いがあるのかと。


 そのときだった。


 ズズズ……ズオォ……


 地鳴りのような音が、祠の裏手の崖下から響いた。


「……来たわ」


 フィーネが短くつぶやく。


 風が一気に冷たくなった。いや、“空気そのものが淀む”感覚。

 悟はアカネと共に岩陰に身を寄せ、音の発生源に目を凝らした。


 ……瘴気の塊。

 まるで巨大なクラゲが逆さになって、空から垂れてきたような異形。

 その中央に、眼のような器官が瞬き、長く黒い触手を空中に漂わせていた。


「“空喰い”……!」


 フィーネの声が震えた。


「あれが瘴気の実体化……?」


「ええ。空の裂け目を通じて、外の“死”が形を持つと、あの姿になるの。人間も魔物も、触れただけで腐って死ぬわ」


「……いい加減、逃げろって言ってもいいんだぜ?」


「でも、逃げた先に空がなければ……?」


 悟は、フィーネの言葉に返す言葉がなかった。


 アカネが悟の前に出る。翼を広げ、全身の鱗が淡く光る。


(……私、行く)


「行くって……お前、一人じゃ……!」


(違う。悟と一緒に、戦う。私たちは、空を守るって決めたから)


 その瞬間、アカネの体から、風の魔力が弾けた。


 悟の足元の岩が割れ、巻き上がる風の塵が周囲を包む。


「アカネ、お前……風が変わったな」


 悟は腰の剣を引き抜いた。手に馴染む……もう、この世界での戦いに慣れてきた証だった


「行くぞ、アカネ」


(うん)


 “空喰い”が触手を振り下ろした。


 悟とアカネは、その前へ踏み出した。


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