紅蓮鞍の調整を終えた後、老職人ツェルは、工房の奥から錆びついた槍の柄を持ち出してきた。
「これは……?」
悟が眉をひそめると、ツェルはそれを手に、昔を懐かしむように語り出した。
「竜に跨り、空を駆ける者……騎竜兵。お前さんとその竜に似たような連中が、昔は各地におったんだ。だが、奴らが扱っていたのはな、刀でも剣でもねぇ。槍だった」
悟は無言のまま、手元の風鋼の刃に目を落とした。
「その刃は、地上での戦いでは頼もしかろう。だが空中戦では……振りかぶる間が命取りになる。空を裂くには、突き通すための形が要る」
ツェルは、壁にかけられた古図を指差す。
風を巻く龍、その背に立つ騎士が、長槍を構えていた。
「この絵にあるのは、“ラキア・ガルド”と呼ばれた騎竜兵団の隊長だ。彼の槍は、風を裂き、瘴気すら貫くと謳われた」
「……その槍は、まだ残ってるのか?」
「さぁな。もう数百年も昔の話よ。作れた職人も皆、瘴気に呑まれて久しい。だが、もしその名槍がどこかに残っているのなら、お前さんが探し出すのも、悪くはなかろう」
悟は黙って槍の柄を見つめる。
手に持つ風鋼の刃は、今や自分と共に歩んできた証。だが、空を戦場とするならば、次なる武器が必要になるかもしれない。
「ラキア・ガルドの槍……か」
(悟……なんだか、燃えてきたね)
アカネの声に、悟はふっと笑った。
「ま、気が向いたらってやつだ。……でも、ちょっと面白そうじゃねぇか」
***
陽の光が、山あいの集落を照らしていた。
悟は調整を終えたばかりの紅蓮鞍に手を添え、アカネの背にそっと足をかける。
風鋼の刃は背に、ツェルの言葉「空を駆けるなら、槍を探せ」は胸の奥に残ったままだ。
「行くか、アカネ」
(うん。風が、次を示してる)
軽やかに空へと舞い上がる。
もう“飛ぶ”ことに不安はなかった。アカネの翼は疾風にも似た速さを得ていたし、悟もまた、騎乗したまま安定して戦える手応えをつかみ始めていた。
ふと、下を見ると、ツェルが小さく手を振っていた。
その手にはもう、職人としての道具は握られていなかった。ただ、旅立つ者の背を見送る、老いた眼差しだけがあった。
「……ありがとな、じいさん。あんたの火は、俺らが受け継ぐ」
悟の呟きに応えるように、風が背を押した。
彼らの目的地はまだ定まっていなかった。
だが、カリナ村に戻って再び仲間たちと合流するという道もある。あるいは、風読みの民が遺した文献を辿り、“空の心臓”へ続く風脈を探る旅に出るのも良い。
空は広く、旅はまだ途中。
だが、悟とアカネには確かな装備と絆がある。
(ねえ悟、行こう。……まだ、私たちは“途中”なんだから)
風を裂いて、紅き竜が空を駆ける。
◆
久方ぶりのカリナ村は、穏やかな陽に包まれていた。
谷間の風が涼やかに吹き、村人たちの暮らしがどこか懐かしく感じられる。
紅蓮鞍を備えたアカネの姿に、かつて共に戦ったライガ、セナ、ティアたちは瞠目(どうもく)し、そしてすぐに笑顔で迎えてくれた。
夜には焚き火を囲んでのささやかな宴が開かれ、懐かしい時間が流れる。
だが悟の心は、風鋼の刃を握ったその日から、どこか遠くを見ていた。
「ライガ。昔この辺に、竜に乗って戦った兵団……騎竜兵団ってのがいたって話、聞いたことないか?」
そう切り出すと、ライガは少し考えたあと、ぽつりと答えた。
「話には聞いたことがある。……けど、正確なことは誰も知らねぇな。あ、そうだ。村の端に住んでるおばあさんが、昔そんな話をしてたって、俺のじいさんが言ってた」
その一言が、風を変えた。
***
翌日、悟とアカネは村の外れ、小高い丘の上にある家を訪ねた。
古びた木の扉を叩くと、中から現れたのは、白髪を長く垂らした老婆だった。
「騎竜兵団……ほう、そんな言葉を若いもんの口から聞くとはねぇ」
老婆は椅子に腰掛けながら、ゆるやかに語り始めた。
「うちはね、遠い昔に滅びた国・グラードンの末裔だよ。騎竜兵団は、あの国の空軍だった。……滅びのあと、生き残った者たちは散り散りになって、この辺境にまで流れ着いたんだとさ」
「じゃあ、ここに……」
「残ってなんかいないよ。けれどね、うちにだけ伝えられた“風のしるべ”ってのがある」
老婆はそう言って、棚から一枚の風化しかけた羊皮紙を取り出した。
そこには地図のようなものが描かれていたが、正確な地名は消えかかっていた。
「……これが、あんたらの探す“なにか”への道しるべになるかはわからない。でも、風を読める竜なら、きっと辿れる」
(風……これは、確かに感じる。ここに、何かがある)
アカネの瞳が微かに光った。
「ばあちゃん、ありがとう。必ず見つけてみせるよ」
悟は礼を告げ、羊皮紙を受け取ると、胸の奥で何かが灯るのを感じた。
……風が、再び導こうとしていた。