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第34話 絶やさぬ火

 スローナの工房に、炉が据えられた。


 竜武具を鍛えるために必要な、古の炉。

 だがいまは、冷え切っている。


 悟は前に立ち、手にした火打石で何度も火花を散らした。

 薪に火がつく。だがそれだけでは足りない。

 紅蓮石を加工するには、鉄を熔かすどころではない、高温が必要だった。


「三日三晩、絶やすな。途中で火が死ねば、その時点で失格だ」


 職人の老人はそう言って、ただ一度だけ火の熾し方を見せた。


 それだけだった。


 あとはすべて、悟自身の手に委ねられた。


***


 初日はただ、炎を育てることに集中した。


 炉の奥に息を吹き込み、ふいごを踏み、火の色を見て薪を調整する。

 だが風が強すぎれば炎が踊り、弱ければくすぶる。


 火を育てるということが、これほど難しいとは。


 夜、睡魔が襲った。


 だが目を閉じた瞬間、火が消える……そんな恐怖が背を這った。

 悟は自らの頬を叩き、薪をくべる。


(眠るわけには……いかねぇ)


 腰の風鋼の刃に触れた。


 これは、カリナ村で見つけただけの“偶然”か。

 それとも、あの時から、何かに導かれていたのか。


 その答えを得るには、この火を絶やさず、紅蓮石を鍛え上げなければならない。


***


 二日目、熱により炉の周囲は灼熱となり、皮膚が赤く腫れ始めた。


 腕には火傷。目は乾き、喉は裂けるように痛んだ。

 眠気が、音もなく忍び寄ってくる。薪を運ぶ腕が重い。水を口にしても、喉の渇きが癒えない。

 風は吹かない。夜でも空気はねっとりと肌にまとわりつく。


 けれど悟は動きを止めなかった。


 何度も、膝が崩れた。だがそのたび、彼は手で地を掴み、立ち上がった。


 火は、意志だった。


 風鋼の刃を振るい続けてきた彼の意志が、この火に宿る。


***


 三日目、何度目かの夜明けを迎えても、感覚はもう曖昧だった。

 ふいごを踏む足に力が入らない。重みを感じるたびに、誰かの怒声が耳に響くようだった。


「気合いが足らんぞ、貴様ァッ!」


 幻聴か、それとも記憶か。予科練の鬼教官の声。

 かつての訓練。炎天下での腕立て伏せ。鉄拳制裁。

 何もかもが重なり合い、意識がふらつく。


 それでもやめなかった。


 やめられなかった。


 これは戦いだった。

 誰かを殺す戦争ではない。

 誰かを生かすための、自分との戦いだった。


「……うおおおおおおッ!」


 気合いを吐き、悟は最後の薪を炉にくべた。

 轟、と音が立ち、火が天井に届くほどに立ち上がる。


 その瞬間、どこからか……風が吹いた。


(悟……)


 見上げれば、煤で黒くなった翼。

 アカネが、帰ってきた。


 彼女の胸には、紅蓮に燃える石。

 火山の底から取り戻した、命を帯びた石が、そこにあった。


 悟が膝をついたその時、風が渦を巻くように降りてきた。

 熱を纏った風ではなかった。涼やかで、どこか懐かしいアカネの風だった。


(……悟、ただいま)


 頭上から届いたその声に、悟は顔を上げた。

 宙を舞う赤き竜。その胸に抱かれていたのは、鮮烈な光を宿す、真紅の結晶、紅蓮石だった。


「……おまえ……本当に行ってきたのか」


(うん。すごく……熱かった。けど、逃げなかった)


 アカネの頬には煤の跡が残り、翼はわずかに焦げたように黒く染まっていた。

 だがその瞳には、確かな誇りと成長の色が宿っていた。


(悟のためだから、って思ったら、怖くなかった)


「……そうか。おかえり、アカネ」


 悟は、震える手でアカネの頭を撫でた。


 その様子を、離れた場所から見ていた老職人が、ゆっくりと歩み寄る。


「どうやら……すべてが揃ったようだな」


 その手には、研ぎ澄まされた鑿(さく)と金槌。

 燃え尽きた炉の前に立ち、老職人ツェルは紅蓮石をそっと手に取った。


「三日三晩、火を絶やさなかった炉。それを運んできた竜。そして……この魂に宿る石」


 石を見つめながら、彼は続ける。


「これは、かつて“空の時代”に作られていた《竜騎鞍》の芯材になる。……お前たちのために、再び作ってやろう」


 悟とアカネは、互いに顔を見合わせ、うなずいた。


 こうして紅蓮石による、騎乗用の紅蓮鞍の製作が、始まった。


***


 竜の背に乗るための鞍……それは、ただの装備品ではなかった。


「竜の呼吸、気流の乱れ、揺れに耐えるための衝撃吸収構造。乗り手の姿勢を固定しつつも、自由を妨げない柔軟性。そして……何よりも、命を預けられる“信頼”の造形が要る」


 老職人ツェルは、道具を並べながら静かに語った。


 その工房は、木と鉄の匂いに包まれていた。壁際には、かつての竜騎士たちが使用したであろう、古びた鞍の残骸が並んでいた。煤けた一枚革。ひび割れた金属パーツ。だが、そこに込められていた技術は、今もなお生きていた。


 アカネは大人しく工房の中心に立ち、じっと職人の動きを見つめていた。


(ちょっと、こそばゆい……でも、変なの。なんか、懐かしい気がする)


 彼女の背に、試作品の型が当てられていく。


 悟は炉の前に座り、ただ無言で見守っていた。

 すでに彼の役目、三日三晩の火を守る試練は終わった。

 だが、今ここで作られているのは、自分とアカネが共に生きるための“未来”だ。


「……これが完成すれば、空の上でもあんたは落ちん。だが、ただ落ちないだけの鞍じゃない」


 老職人は、真新しい紅蓮石の芯を、鞍の中心部に据えながら言った。


「竜の鼓動に呼応し、風の流れを読む。……これは、乗り手と竜の心を繋ぐ“礎”になる。お前たちが試練を越えて得た、その絆が形になるんだ」


 夕日が差し込む頃。

 紅蓮石の芯が仕込まれた鞍は、赤く淡い光を放ち始めた。


(……あったかい。なんだろう、これ……)


 アカネが小さく呟いたその時、鞍全体がふわりと浮き、静かに彼女の背に収まった。


 悟は、そっとその足場に足をかける。

 風が、背中を押していた。


「飛ぼうぜ、アカネ」


(うん……あたしたちの、空へ!)


 紅蓮鞍が光を帯び、翼が広がる。

 その瞬間、工房の屋根が風で吹き飛ばされ、ふたりの影が大空へ舞い上がっていった。

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