スローナの工房に、炉が据えられた。
竜武具を鍛えるために必要な、古の炉。
だがいまは、冷え切っている。
悟は前に立ち、手にした火打石で何度も火花を散らした。
薪に火がつく。だがそれだけでは足りない。
紅蓮石を加工するには、鉄を熔かすどころではない、高温が必要だった。
「三日三晩、絶やすな。途中で火が死ねば、その時点で失格だ」
職人の老人はそう言って、ただ一度だけ火の熾し方を見せた。
それだけだった。
あとはすべて、悟自身の手に委ねられた。
***
初日はただ、炎を育てることに集中した。
炉の奥に息を吹き込み、ふいごを踏み、火の色を見て薪を調整する。
だが風が強すぎれば炎が踊り、弱ければくすぶる。
火を育てるということが、これほど難しいとは。
夜、睡魔が襲った。
だが目を閉じた瞬間、火が消える……そんな恐怖が背を這った。
悟は自らの頬を叩き、薪をくべる。
(眠るわけには……いかねぇ)
腰の風鋼の刃に触れた。
これは、カリナ村で見つけただけの“偶然”か。
それとも、あの時から、何かに導かれていたのか。
その答えを得るには、この火を絶やさず、紅蓮石を鍛え上げなければならない。
***
二日目、熱により炉の周囲は灼熱となり、皮膚が赤く腫れ始めた。
腕には火傷。目は乾き、喉は裂けるように痛んだ。
眠気が、音もなく忍び寄ってくる。薪を運ぶ腕が重い。水を口にしても、喉の渇きが癒えない。
風は吹かない。夜でも空気はねっとりと肌にまとわりつく。
けれど悟は動きを止めなかった。
何度も、膝が崩れた。だがそのたび、彼は手で地を掴み、立ち上がった。
火は、意志だった。
風鋼の刃を振るい続けてきた彼の意志が、この火に宿る。
***
三日目、何度目かの夜明けを迎えても、感覚はもう曖昧だった。
ふいごを踏む足に力が入らない。重みを感じるたびに、誰かの怒声が耳に響くようだった。
「気合いが足らんぞ、貴様ァッ!」
幻聴か、それとも記憶か。予科練の鬼教官の声。
かつての訓練。炎天下での腕立て伏せ。鉄拳制裁。
何もかもが重なり合い、意識がふらつく。
それでもやめなかった。
やめられなかった。
これは戦いだった。
誰かを殺す戦争ではない。
誰かを生かすための、自分との戦いだった。
「……うおおおおおおッ!」
気合いを吐き、悟は最後の薪を炉にくべた。
轟、と音が立ち、火が天井に届くほどに立ち上がる。
その瞬間、どこからか……風が吹いた。
(悟……)
見上げれば、煤で黒くなった翼。
アカネが、帰ってきた。
彼女の胸には、紅蓮に燃える石。
火山の底から取り戻した、命を帯びた石が、そこにあった。
悟が膝をついたその時、風が渦を巻くように降りてきた。
熱を纏った風ではなかった。涼やかで、どこか懐かしいアカネの風だった。
(……悟、ただいま)
頭上から届いたその声に、悟は顔を上げた。
宙を舞う赤き竜。その胸に抱かれていたのは、鮮烈な光を宿す、真紅の結晶、紅蓮石だった。
「……おまえ……本当に行ってきたのか」
(うん。すごく……熱かった。けど、逃げなかった)
アカネの頬には煤の跡が残り、翼はわずかに焦げたように黒く染まっていた。
だがその瞳には、確かな誇りと成長の色が宿っていた。
(悟のためだから、って思ったら、怖くなかった)
「……そうか。おかえり、アカネ」
悟は、震える手でアカネの頭を撫でた。
その様子を、離れた場所から見ていた老職人が、ゆっくりと歩み寄る。
「どうやら……すべてが揃ったようだな」
その手には、研ぎ澄まされた鑿(さく)と金槌。
燃え尽きた炉の前に立ち、老職人ツェルは紅蓮石をそっと手に取った。
「三日三晩、火を絶やさなかった炉。それを運んできた竜。そして……この魂に宿る石」
石を見つめながら、彼は続ける。
「これは、かつて“空の時代”に作られていた《竜騎鞍》の芯材になる。……お前たちのために、再び作ってやろう」
悟とアカネは、互いに顔を見合わせ、うなずいた。
こうして紅蓮石による、騎乗用の
***
竜の背に乗るための鞍……それは、ただの装備品ではなかった。
「竜の呼吸、気流の乱れ、揺れに耐えるための衝撃吸収構造。乗り手の姿勢を固定しつつも、自由を妨げない柔軟性。そして……何よりも、命を預けられる“信頼”の造形が要る」
老職人ツェルは、道具を並べながら静かに語った。
その工房は、木と鉄の匂いに包まれていた。壁際には、かつての竜騎士たちが使用したであろう、古びた鞍の残骸が並んでいた。煤けた一枚革。ひび割れた金属パーツ。だが、そこに込められていた技術は、今もなお生きていた。
アカネは大人しく工房の中心に立ち、じっと職人の動きを見つめていた。
(ちょっと、こそばゆい……でも、変なの。なんか、懐かしい気がする)
彼女の背に、試作品の型が当てられていく。
悟は炉の前に座り、ただ無言で見守っていた。
すでに彼の役目、三日三晩の火を守る試練は終わった。
だが、今ここで作られているのは、自分とアカネが共に生きるための“未来”だ。
「……これが完成すれば、空の上でもあんたは落ちん。だが、ただ落ちないだけの鞍じゃない」
老職人は、真新しい紅蓮石の芯を、鞍の中心部に据えながら言った。
「竜の鼓動に呼応し、風の流れを読む。……これは、乗り手と竜の心を繋ぐ“礎”になる。お前たちが試練を越えて得た、その絆が形になるんだ」
夕日が差し込む頃。
紅蓮石の芯が仕込まれた鞍は、赤く淡い光を放ち始めた。
(……あったかい。なんだろう、これ……)
アカネが小さく呟いたその時、鞍全体がふわりと浮き、静かに彼女の背に収まった。
悟は、そっとその足場に足をかける。
風が、背中を押していた。
「飛ぼうぜ、アカネ」
(うん……あたしたちの、空へ!)
紅蓮鞍が光を帯び、翼が広がる。
その瞬間、工房の屋根が風で吹き飛ばされ、ふたりの影が大空へ舞い上がっていった。