ツェルの工房の裏手に、苔むした岩と鉄屑に囲まれた古い“炉”があった。
悟はそこに立ち尽くし、風鋼の刃の柄を握りしめる。
煤と錆が混じった空気が、肺の奥まで重く沈んだ。
「三日三晩、火を絶やすな……」
炉の中には、既に薪が敷かれていた。だが、火を入れるには何より“覚悟”が要る。
(悟……気をつけて。きっと、火って……体も、心も、削ってくる)
「ああ。でも、それが“お前の鞍”になるなら……耐えるさ」
アカネは一歩、悟に近づいた。
その翼をゆっくりと広げ、顔を近づける。
(じゃあ、私も……行ってくるね)
「無理は、するなよ」
(うん。無理はしない。ただ、行くだけ)
アカネが翼を一閃させると、工房に風が巻き起こった。
その風を最後の別れのように背に受けながら、彼女は空へと舞い上がる。
空を裂き、雲を貫き、やがて、東の彼方へと紅の影が消えていった。
悟はゆっくりと膝をつき、炉の口を開けた。
「さて……火をつけるか」
古い火口に息を吹き込み、かすかな火種に炎を灯す。
風は静かだった。
炎が揺れ、悟の顔を照らす。
「三日三晩、か。いいだろう。地獄の訓練よりは、マシだって言ってやるよ……教官殿」
火が、ふいに大きくなった。
***
空はまだ、薄く曇っていた。
太陽は雲の向こうで滲み、輪郭を失っている。
アカネは高く飛んでいた。
眼下には、どこまでも広がる海。陸地はすでに後方、雲の下へと遠ざかっている。
(……風が、荒れてきた)
彼女の翼にかかる圧力が増していた。潮風とともに、海の向こうから突風が襲ってくる。
それでもアカネは速度を落とさなかった。
むしろ逆に、風を“読む”。
悟との旅の中で培った風の感覚。
竜の本能に宿る、風を操る感性。
それらが交差し、彼女は嵐の縁を滑るように突き進む。
(あそこ……見えた。あれが……ヒュドレ島)
海の向こう。霧に覆われたその島は、まるで地図から消えたように静かだった。
アカネが翼を広げて接近するにつれ、空気の質が変わっていく。
(……おかしい。風が、ぐちゃぐちゃだ)
それは“死んでいる”のではなかった。
“暴れすぎて、形を成していない”のだ。
ヒュドレ島の周囲には、三重の風の壁が存在していた。
最も外側。時計回りに吹き荒れる突風の渦。
その内側では、反時計回りの強風が相殺するように吹きつけ、
さらにその中心近くには、再び時計回りの気流が荒れ狂っている。
まるで、巨大な螺旋を成す風の結界。
(これじゃ、船じゃ絶対に入れない……!)
もし人間が船で近づこうものなら、あっという間に帆が裂け、船体ごと空へ巻き上げられるだろう。
それがこの島が“人が立ち入れない”と恐れられてきた所以。
アカネは、風の流れを凝視する。
その瞳が、風の境目に微細な“裂け目”を見つける。
(……ここ。ほんの少しだけ、風が抜ける……!)
彼女は一度、翼をたたんで高度を落とした。
そして、風の切れ目と切れ目が重なる“瞬間”を狙って、翼を大きく開く。
(悟。見てて。これが……私の風の読み方!)
赤い翼が、嵐の渦をすり抜けた。
音が歪み、世界がひしゃげる中で、アカネの身体が風の裂け目を滑り落ちるように通過する。
一層、また一層。
嵐の壁を三つ越えた時、視界が一変した。
風が、消えた。
その内側は、不気味なまでに静かだった。
まるで巨大な嵐が、すべてを遮断しているかのように。
(……着いた)
アカネの眼前に、火山島の黒い稜線が広がった。
火山の山肌は黒々とした岩と灰に覆われていた。
静かだが、そこかしこで地の底から吹き出す熱風が地面を揺らしている。
(……風が、ほとんど通ってない)
アカネはゆっくりと着地した。
その足が触れた瞬間、岩がジリ、と焼ける音を立てた。
ここは竜でさえ長く留まれない、灼熱の島だった。
(紅蓮石は、火山の中……)
火口の底は、熱気と硫煙で満ちていた。
立っているだけで視界が歪む。
羽根の膜が焦げるような灼熱が、アカネの身体を責め立ててくる。
アカネは羽ばたいて再び空へ。
島の中央、火山の火口を見下ろすと、そこには真紅の光が、わずかに滲んでいた。
ごうっ、と熱風が吹き上がる。
熱と煙で視界が揺らぐ。
だがその先に――たしかに、“呼ばれて”いる。
(……あれだ)
その先に……紅蓮石はあった。
赤黒く脈動するように岩の間で光り、熱の塊そのものと化していた。
(……熱すぎて、近づけない)
風も死んでいた。
この空間には、風の流れすら入り込めない。
アカネはこの“静止した熱”に本能的な恐怖を覚えた。
けれど。
(でも、悟のために……私は、取らなきゃ)
アカネは目を細め、そっと息を吸い込む。
その瞳が、炎のように赤く光った。
「……っ!」
咆哮とともに、口から放たれたのは、炎。
だが、火口の熱と交わった瞬間、彼女の吐いた火は、かき消されるように溶けていった。
(足りない。こんなんじゃ、届かない!)
アカネは、再び大きく息を吸う。
今度は、その胸の奥、もっと深くから。
意識の底に眠る“何か”を目覚めさせるように。
(……あのとき、老竜の記憶に触れた。あのとき見た、もっと、強い火。ただ焼くだけじゃない、“光”のような火)
そのイメージを、力に変える。
再び咆哮。
今度は、赤い炎の中に、白く煌めく光が混じっていた。
……火焔。
灼熱とぶつかり合い、拮抗し、そして火口の熱を押し返す。
(やった……!)
アカネは翼をたたみ、火焔で空間を押し広げながら、紅蓮石へと歩を進めた。
炎に焼かれ、爪が黒く焦げながらも、一つ、また一つと石を掘り出していく。
ついに、それを胸に抱えたとき、火口に一筋の風が、アカネの背中を押すように吹いた。
(……風、通った)
それは、火焔が“風の道”を切り開いた証だった。
アカネはその風に乗り、焼け爛れた翼で空へと跳び上がる。
紅蓮石を抱え、空へ……悟のもとへ。