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第33話 火を継ぐ者、風を越える者

 ツェルの工房の裏手に、苔むした岩と鉄屑に囲まれた古い“炉”があった。


 悟はそこに立ち尽くし、風鋼の刃の柄を握りしめる。

 煤と錆が混じった空気が、肺の奥まで重く沈んだ。


「三日三晩、火を絶やすな……」


 炉の中には、既に薪が敷かれていた。だが、火を入れるには何より“覚悟”が要る。


(悟……気をつけて。きっと、火って……体も、心も、削ってくる)


「ああ。でも、それが“お前の鞍”になるなら……耐えるさ」


 アカネは一歩、悟に近づいた。

 その翼をゆっくりと広げ、顔を近づける。


(じゃあ、私も……行ってくるね)


「無理は、するなよ」


(うん。無理はしない。ただ、行くだけ)


 アカネが翼を一閃させると、工房に風が巻き起こった。

 その風を最後の別れのように背に受けながら、彼女は空へと舞い上がる。


 空を裂き、雲を貫き、やがて、東の彼方へと紅の影が消えていった。


 悟はゆっくりと膝をつき、炉の口を開けた。


「さて……火をつけるか」


 古い火口に息を吹き込み、かすかな火種に炎を灯す。


 風は静かだった。


 炎が揺れ、悟の顔を照らす。


「三日三晩、か。いいだろう。地獄の訓練よりは、マシだって言ってやるよ……教官殿」


 火が、ふいに大きくなった。


***


 空はまだ、薄く曇っていた。

 太陽は雲の向こうで滲み、輪郭を失っている。


 アカネは高く飛んでいた。

 眼下には、どこまでも広がる海。陸地はすでに後方、雲の下へと遠ざかっている。


(……風が、荒れてきた)


 彼女の翼にかかる圧力が増していた。潮風とともに、海の向こうから突風が襲ってくる。


 それでもアカネは速度を落とさなかった。

 むしろ逆に、風を“読む”。


 悟との旅の中で培った風の感覚。

 竜の本能に宿る、風を操る感性。

 それらが交差し、彼女は嵐の縁を滑るように突き進む。


(あそこ……見えた。あれが……ヒュドレ島)


 海の向こう。霧に覆われたその島は、まるで地図から消えたように静かだった。

 アカネが翼を広げて接近するにつれ、空気の質が変わっていく。


(……おかしい。風が、ぐちゃぐちゃだ)


 それは“死んでいる”のではなかった。

 “暴れすぎて、形を成していない”のだ。


 ヒュドレ島の周囲には、三重の風の壁が存在していた。


 最も外側。時計回りに吹き荒れる突風の渦。

 その内側では、反時計回りの強風が相殺するように吹きつけ、

 さらにその中心近くには、再び時計回りの気流が荒れ狂っている。


 まるで、巨大な螺旋を成す風の結界。


(これじゃ、船じゃ絶対に入れない……!)


 もし人間が船で近づこうものなら、あっという間に帆が裂け、船体ごと空へ巻き上げられるだろう。

 それがこの島が“人が立ち入れない”と恐れられてきた所以。


 アカネは、風の流れを凝視する。

 その瞳が、風の境目に微細な“裂け目”を見つける。


(……ここ。ほんの少しだけ、風が抜ける……!)


 彼女は一度、翼をたたんで高度を落とした。

 そして、風の切れ目と切れ目が重なる“瞬間”を狙って、翼を大きく開く。


(悟。見てて。これが……私の風の読み方!)


 赤い翼が、嵐の渦をすり抜けた。

 音が歪み、世界がひしゃげる中で、アカネの身体が風の裂け目を滑り落ちるように通過する。


 一層、また一層。


 嵐の壁を三つ越えた時、視界が一変した。


 風が、消えた。


 その内側は、不気味なまでに静かだった。

 まるで巨大な嵐が、すべてを遮断しているかのように。


(……着いた)


 アカネの眼前に、火山島の黒い稜線が広がった。


 火山の山肌は黒々とした岩と灰に覆われていた。

 静かだが、そこかしこで地の底から吹き出す熱風が地面を揺らしている。


(……風が、ほとんど通ってない)


 アカネはゆっくりと着地した。

 その足が触れた瞬間、岩がジリ、と焼ける音を立てた。

 ここは竜でさえ長く留まれない、灼熱の島だった。


(紅蓮石は、火山の中……)


 火口の底は、熱気と硫煙で満ちていた。

 立っているだけで視界が歪む。

 羽根の膜が焦げるような灼熱が、アカネの身体を責め立ててくる。


 アカネは羽ばたいて再び空へ。

 島の中央、火山の火口を見下ろすと、そこには真紅の光が、わずかに滲んでいた。


 ごうっ、と熱風が吹き上がる。

 熱と煙で視界が揺らぐ。


 だがその先に――たしかに、“呼ばれて”いる。


(……あれだ)


 その先に……紅蓮石はあった。


 赤黒く脈動するように岩の間で光り、熱の塊そのものと化していた。


(……熱すぎて、近づけない)


 風も死んでいた。

 この空間には、風の流れすら入り込めない。


 アカネはこの“静止した熱”に本能的な恐怖を覚えた。

 けれど。


(でも、悟のために……私は、取らなきゃ)


 アカネは目を細め、そっと息を吸い込む。

 その瞳が、炎のように赤く光った。


「……っ!」


 咆哮とともに、口から放たれたのは、炎。


 だが、火口の熱と交わった瞬間、彼女の吐いた火は、かき消されるように溶けていった。


(足りない。こんなんじゃ、届かない!)


 アカネは、再び大きく息を吸う。

 今度は、その胸の奥、もっと深くから。


 意識の底に眠る“何か”を目覚めさせるように。


(……あのとき、老竜の記憶に触れた。あのとき見た、もっと、強い火。ただ焼くだけじゃない、“光”のような火)


 そのイメージを、力に変える。


 再び咆哮。


 今度は、赤い炎の中に、白く煌めく光が混じっていた。


 ……火焔。


 灼熱とぶつかり合い、拮抗し、そして火口の熱を押し返す。


(やった……!)


 アカネは翼をたたみ、火焔で空間を押し広げながら、紅蓮石へと歩を進めた。

 炎に焼かれ、爪が黒く焦げながらも、一つ、また一つと石を掘り出していく。


 ついに、それを胸に抱えたとき、火口に一筋の風が、アカネの背中を押すように吹いた。


(……風、通った)


 それは、火焔が“風の道”を切り開いた証だった。


 アカネはその風に乗り、焼け爛れた翼で空へと跳び上がる。


 紅蓮石を抱え、空へ……悟のもとへ。

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