東の空がわずかに白み始めた頃、カリナ村の広場には早くも出発の支度が整えられていた。
アカネは翼を軽くたたみ、悟の背を見守るように待機している。
その紅の鱗には朝露が薄く光を反射し、空に飛び立つ準備は万端だった。
悟はアカネの背に手を添え、慎重に乗り込む。
成長したとはいえ、鞍もなく固定具もない背中は不安定だ。
腰を落とし、アカネの首元にそっと手を添えてバランスをとる。
(まだ不安定でごめんね。でも、落とさないように気をつけるから!)
「いや、いいんだ。……お前の背に乗って、ちゃんと空を飛べるってだけで、もう十分だ」
ライガは、やや寂しげに、それでも力強く手を差し出してきた。
「……気をつけて行けよ。オレらも、ここで踏ん張って生きてる。お前が空で戦ってる間もな」
その手を、悟はしっかりと握り返す。
「おう。次に帰ってくる時は、もっとでっかい背中見せてやるさ」
セナが小さな布袋を差し出してきた。
「道中、これ使って。干し肉と木の実、それに……お守り、的なもの。気休めだけどさ」
「ありがとな。そういうの、結構嬉しい」
ティアはほんのわずか微笑みを浮かべ、言葉少なに一言。
「風の導きが、あなたを裏切りませんように。……それと、忘れないで。あの刃の在り処がここだったってこと」
「ああ。俺の旅は、ここから始まったからな」
悟は静かにアカネの背へと乗り込んだ。
鞍がわずかに軋むが、全体はしっかりと安定している。
(準備できた?)
「いつでもいける」
アカネがゆっくりと地を蹴る。
その翼が広がると、広場の空気がざわりと動き、村人たちの服の裾を揺らした。
そして、紅い竜は空へ、風を裂いて駆け上がる。
眼下に広がるカリナ村の風景が、次第に遠ざかっていく。
悟は小さく呟いた。
「次に戻る時までに……俺も、もっと強くなってる」
(うん。わたしも、ちゃんと“次の竜”になれるくらい、頑張る)
「……?」
一瞬、悟は言葉の意味に引っかかったが、すぐに風の音にかき消されていった。
紅竜と特攻隊員の影が、朝の雲を越えていく。
彼らの次なる目的地、瘴気に呑まれた
朝霧を抜けて、空を駆ける。
アカネの翼がゆるやかに弧を描き、風の流れに乗って悠々と空を滑空する。
悟はその背にしっかりとしがみつきながら、遠ざかるカリナ村を見下ろした。
雲の上は、静かだった。
風が頬を撫でるたび、遠くでかすかに雷鳴が響いた気がした。
「……すごいな、アカネ。こうして乗ってると、まるで……」
(本当に、空に還ったみたい?)
アカネが小さく問いかける。
悟は笑みを漏らし、目を閉じた。
「ああ。だけど、俺が乗ってたのは金属の塊だった。お前は……生きてるな。体温が、心音が伝わってくる」
(それが、騎乗ってことなのかな。ふたりで飛ぶって、こういうこと……なんだね)
しばし、会話もないまま空を進む。
山岳地帯が見え始めたのは、それから半日ほど経った頃だった。
地上は荒れ、黒ずんだ瘴気の痕が岩肌に残っている。
風の流れも、どこか不自然によどんでいた。
「ここが……スローナか。瘴気に飲まれたって話は聞いてたが、これは……」
(でも、感じるよ。風の奥に、誰かの気配が……まだ、生きてる)
アカネの言葉に、悟は息をのむ。
滅んだはずの鍛冶の郷、だが、すべてが終わったわけではないのかもしれない。
「ここに……竜のための装備を作れる職人がいるって、信じてみるか」
紅竜の翼が、ふたたび弧を描く。
彼らは瘴気の尾を辿り、スローナの麓へと降下していった。
スローナは、沈黙していた。
かつて竜と共に歩んだ職人たちの郷。今は瓦礫と煤に埋もれ、誰もいないはずの村。
しかし、アカネが風の匂いを辿って導いた先には、わずかに人の気配があった。
ひとつだけ残った作業小屋。その奥で、煤だらけの炉を前に座る男がいた。
髪も髭も白く、背中は曲がっている。だがその目は、炎のように鋭かった。
「……風に乗って、竜が来たか。随分と久しぶりだな」
その男、ツェルはかつて竜装具を専門に打っていた職人一族の末裔だった。
すでに仲間も顧客も失った彼は、火の絶えた炉と共に、ただ生き残っていた。
「鞍を……作ってもらえませんか。俺が、空で戦えるように」
悟がそう言うと、ツェルは炉を一瞥し、重く首を振った。
「できん。素材がない。それに、あの火も、もう二度とは……」
(素材って、何?)
アカネが小さく問いかけると、ツェルはしばらく黙り込んだ後、ぽつりと語った。
「“紅蓮石”だ。竜と風を耐えられる強靭な石……だが、人の手の届く場所には、もうない」
「じゃあ、どこならあるんだ」
そう問うと、ツェルはゆっくりと顔を上げた。
「《ヒュドレ島》。人が行けぬ島。火山の口に、あの石はまだ眠っている。だが、生きて戻った者はいない」
(悟。私、行く)
「待て。お前ひとりじゃ……」
(平気。私が飛ぶ。だって、これは、私の“ため”の鞍でしょ?)
アカネの瞳は真っすぐだった。もう、小さな雛ではない。
「……じゃあ、俺は何をすればいい」
ツェルは短く答えた。
「火をつけろ。そして、絶やすな。三日三晩、それが紅蓮石を迎える“炉”になる」