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第32話 風を追って

 東の空がわずかに白み始めた頃、カリナ村の広場には早くも出発の支度が整えられていた。


 アカネは翼を軽くたたみ、悟の背を見守るように待機している。

 その紅の鱗には朝露が薄く光を反射し、空に飛び立つ準備は万端だった。


 悟はアカネの背に手を添え、慎重に乗り込む。

成長したとはいえ、鞍もなく固定具もない背中は不安定だ。

腰を落とし、アカネの首元にそっと手を添えてバランスをとる。


(まだ不安定でごめんね。でも、落とさないように気をつけるから!)


「いや、いいんだ。……お前の背に乗って、ちゃんと空を飛べるってだけで、もう十分だ」


 ライガは、やや寂しげに、それでも力強く手を差し出してきた。


「……気をつけて行けよ。オレらも、ここで踏ん張って生きてる。お前が空で戦ってる間もな」


 その手を、悟はしっかりと握り返す。


「おう。次に帰ってくる時は、もっとでっかい背中見せてやるさ」


 セナが小さな布袋を差し出してきた。


「道中、これ使って。干し肉と木の実、それに……お守り、的なもの。気休めだけどさ」


「ありがとな。そういうの、結構嬉しい」


 ティアはほんのわずか微笑みを浮かべ、言葉少なに一言。


「風の導きが、あなたを裏切りませんように。……それと、忘れないで。あの刃の在り処がここだったってこと」


「ああ。俺の旅は、ここから始まったからな」


 悟は静かにアカネの背へと乗り込んだ。

 鞍がわずかに軋むが、全体はしっかりと安定している。


(準備できた?)


「いつでもいける」


 アカネがゆっくりと地を蹴る。

 その翼が広がると、広場の空気がざわりと動き、村人たちの服の裾を揺らした。


 そして、紅い竜は空へ、風を裂いて駆け上がる。


 眼下に広がるカリナ村の風景が、次第に遠ざかっていく。


 悟は小さく呟いた。


「次に戻る時までに……俺も、もっと強くなってる」


(うん。わたしも、ちゃんと“次の竜”になれるくらい、頑張る)


「……?」


 一瞬、悟は言葉の意味に引っかかったが、すぐに風の音にかき消されていった。


 紅竜と特攻隊員の影が、朝の雲を越えていく。

 彼らの次なる目的地、瘴気に呑まれた山岳地帯スローナへと向けて。


 朝霧を抜けて、空を駆ける。


 アカネの翼がゆるやかに弧を描き、風の流れに乗って悠々と空を滑空する。

 悟はその背にしっかりとしがみつきながら、遠ざかるカリナ村を見下ろした。


 雲の上は、静かだった。

 風が頬を撫でるたび、遠くでかすかに雷鳴が響いた気がした。


「……すごいな、アカネ。こうして乗ってると、まるで……」


(本当に、空に還ったみたい?)


 アカネが小さく問いかける。

 悟は笑みを漏らし、目を閉じた。


「ああ。だけど、俺が乗ってたのは金属の塊だった。お前は……生きてるな。体温が、心音が伝わってくる」


(それが、騎乗ってことなのかな。ふたりで飛ぶって、こういうこと……なんだね)


 しばし、会話もないまま空を進む。


 山岳地帯が見え始めたのは、それから半日ほど経った頃だった。


 地上は荒れ、黒ずんだ瘴気の痕が岩肌に残っている。

 風の流れも、どこか不自然によどんでいた。


「ここが……スローナか。瘴気に飲まれたって話は聞いてたが、これは……」


(でも、感じるよ。風の奥に、誰かの気配が……まだ、生きてる)


 アカネの言葉に、悟は息をのむ。

 滅んだはずの鍛冶の郷、だが、すべてが終わったわけではないのかもしれない。


「ここに……竜のための装備を作れる職人がいるって、信じてみるか」


 紅竜の翼が、ふたたび弧を描く。

 彼らは瘴気の尾を辿り、スローナの麓へと降下していった。


 スローナは、沈黙していた。

 かつて竜と共に歩んだ職人たちの郷。今は瓦礫と煤に埋もれ、誰もいないはずの村。


 しかし、アカネが風の匂いを辿って導いた先には、わずかに人の気配があった。


 ひとつだけ残った作業小屋。その奥で、煤だらけの炉を前に座る男がいた。

 髪も髭も白く、背中は曲がっている。だがその目は、炎のように鋭かった。


「……風に乗って、竜が来たか。随分と久しぶりだな」


 その男、ツェルはかつて竜装具を専門に打っていた職人一族の末裔だった。

 すでに仲間も顧客も失った彼は、火の絶えた炉と共に、ただ生き残っていた。


「鞍を……作ってもらえませんか。俺が、空で戦えるように」


 悟がそう言うと、ツェルは炉を一瞥し、重く首を振った。


「できん。素材がない。それに、あの火も、もう二度とは……」


(素材って、何?)


 アカネが小さく問いかけると、ツェルはしばらく黙り込んだ後、ぽつりと語った。


「“紅蓮石”だ。竜と風を耐えられる強靭な石……だが、人の手の届く場所には、もうない」


「じゃあ、どこならあるんだ」


 そう問うと、ツェルはゆっくりと顔を上げた。


「《ヒュドレ島》。人が行けぬ島。火山の口に、あの石はまだ眠っている。だが、生きて戻った者はいない」


(悟。私、行く)


「待て。お前ひとりじゃ……」


(平気。私が飛ぶ。だって、これは、私の“ため”の鞍でしょ?)


 アカネの瞳は真っすぐだった。もう、小さな雛ではない。


「……じゃあ、俺は何をすればいい」


 ツェルは短く答えた。


「火をつけろ。そして、絶やすな。三日三晩、それが紅蓮石を迎える“炉”になる」



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