風を裂く音が、山並みを越えていく。
紅竜の翼が空を払い、早春の大地に影を落とす。
その背に、ひとりの少年がいた。
風鋼の刃を腰に下げた神崎悟。
彼の眼差しは遠くを見据え、どこか懐かしい光をたたえていた。
(見えてきた……あれ、カリナ村だよね?)
「ああ。……あの倉庫で、俺は風鋼の刃を見つけた」
ゆるやかな丘の斜面に、ぽつりぽつりと家々の屋根が見えてきた。
変わらない風景。だが、悟もアカネも、確かに“変わって”いた。
アカネはゆっくりと高度を下げ、村の外れに滑空して降りる。
地に足をつけた瞬間、村の空気がふっと頬を撫でた。
数名の村人が、突如現れた巨大な紅竜に一瞬息を呑んだが、
悟の姿を見つけると、その表情が驚きから安堵に変わっていく。
「お、おい……あれ、神崎じゃねぇか?」
「ほんとかよ……!?」
「おかえり、悟!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、大剣を背負った青年、ライガだった。
その後ろには、獣人少女のセナ、そして魔法使いのエルフ少女ティアの姿もある。
「すごいね……君たち、飛んできたの?」
(うん! アカネ、大きくなったんだよ!)
少し得意げに翼を広げてみせるアカネに、セナが驚いたように目を見開いた。
「で、どうしたのさ? 空から舞い戻ってきたってことは、何かあったんでしょ?」
「ああ……頼みたいことがある」
悟は、腰に下げた風鋼の刃をそっと見せる。
「こいつを見つけた倉庫、まだ残ってるか? この刃を作った職人……あるいは、それに繋がる手がかりを探してる。アカネに騎乗具を作る必要があってな」
静かな空気の中で、ティアが目を細めた。
「……風鋼か。昔、竜と共に生きた鍛冶師たちがいたって、古文書で読んだことがある。けど、今はほとんど残ってないはず……」
「でも、倉庫の中に何か痕跡が残ってるかもしれない。案内するよ」
ライガの言葉に、悟は深く頷いた。
「頼む」
村の奥、かつて納屋として使われていた木造の倉庫。
悟が風鋼の刃があった場所は、今も変わらずひっそりと佇んでいた。
軋む扉を開けると、ほこりの匂いと共に、乾いた空気が流れ出る。
棚には農具や古びた金属片、そして隅に置かれた木箱の山。
悟は無言で中に入り、奥へと歩を進めた。
その手には、風鋼の刃……異質な光を湛えた、それだけが時を超えて生き残っていた武具。
「ここで見つけたんだ。……あのときは、ただの幸運だと思ってたけどな」
ティアが慎重に、木箱の中の古文書や帳面を一つひとつ取り出していく。
セナは周囲を警戒しながら、埃をかぶった道具類を調べていた。
すると
「……これ、見て」
ティアが一冊の帳面を広げ、埃を払う。
そこには手書きの古い文字が並んでいた。
“納品記録:リドナ鉱山より風鋼鉱石3塊”
“受注:竜鞍・片翼式、鋼脚補助つき 発注者→ラキア=ガルド(騎竜兵)”
「……ラキア・ガルド?」悟が眉をひそめた。
ティアが続ける。
「伝説の“騎竜兵団”の残党かもしれない。瘴気の拡大前、竜を駆る兵たちが存在していたという伝承があるわ。……でも、それはもう数百年前の話」
「じゃあ、その鞍を作った職人が……」
「名前は書かれていないけど、この記録には『制作元:スローナ鍛冶工房(閉鎖)』とある」
ライガが顎をさすりながら言った。
「スローナって、たしか北方の山岳地帯にあった村だよな。瘴気の濃い地帯に飲まれたって話だったが……」
「希望はある。痕跡さえあれば……そこを辿れる」
悟は風鋼の刃を見つめながら、そっと言った。
(アカネ……お前にふさわしい鞍を、絶対に見つけよう)
(うん……。わたし、もっとちゃんと悟を乗せて飛びたい。全力で、ぶれないで……戦えるように)
静かだった倉庫に、ほんの少しだけ風が吹いた。
それは、過去の記憶が呼び起こされるような、微かな風だった。
***
その夜、カリナ村の広場には、静かに焚き火が灯った。
薪がはぜる音が、夜の帳に吸い込まれていく。
火を囲むのは、久方ぶりの面々。
ライガはいつもより多めに酒瓶を持ち出し、セナは串焼きの獣肉を丁寧に炙り、ティアは火加減を魔法で調整していた。
「ふふっ、火加減だけは得意なの。エルフの知恵ってやつよ」
「いや、それ魔法じゃん」
セナが呆れたように笑い、ライガがゴクゴクと一気に酒をあおる。
「ったくよぉ、まさか竜の背に乗って帰ってくるとはなぁ。しかもこのデカさ……こいつ、アカネって名前だったっけ?」
(うん! おっきくなったでしょ!)
アカネが得意げに翼を広げると、火の粉がひとつ、空へ舞い上がった。
悟はその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
今、この一瞬だけは、確かに“戦争”を忘れている。
「お前ら、変わらないな。……あの頃から、何も」
ライガがニカッと笑う。
「お前こそ、変わったようで芯はそのままだ。……けどさ、なんか今の方がいい目してんぞ、悟」
セナが串を差し出す。
「ほら、食べなよ。遠慮したらぶっ飛ばすよ?」
悟は受け取り、口に運ぶ。
じわりと広がる肉の旨味。焚き火の香ばしさ。アカネが嬉しそうに尾を揺らす。
(……ねえ悟。これが、“帰ってきた”ってこと?)
「……そうだな。だけど、旅はまだ終わっちゃいねえ」
ティアが火を見つめながら、静かに言う。
「それでも……今夜だけは、そう思っていい。風がやさしい夜だもの」
誰もが無言でうなずき、火を囲んだまま、それぞれの過去と現在を胸に温めていた。
そして夜は静かに更けていく。
風は穏やかに、祝福のように吹いていた。