瘴気に満ちた空は、いまだ出口を見せない。
しかし、アカネの翼が拾った“風の粒”は、確かに生きていた。
悟とアカネがその風の残響に指を添えた瞬間、空域にかすかな波紋が走る。
視界の奥、遠くに霞んでいた層が、ほんのわずかに軋んだ。音もなく、気づかれぬように。
(今の、見えた?)
「ああ……歪んだ。空の皮が、ちょっとだけ剥がれたような……」
二人は互いに目を合わせる。
それは確証とは言えない。
だが、今まで何度飛んでも変わらなかったこの空域に、明確な“変化”が起きたのだ。
(もう一度、やってみる……)
アカネは再びゆっくりと翼を広げ、風の流れに逆らわず滑空を始めた。
悟はその背に乗り、アカネの気配と空気の変化に集中する。
そして、アカネがそっと囁くように風を動かすと、どこかで共振する“粒”が返事をした。
シャラリ、と音にならぬ音。
それは、風同士が迷宮内で重なり、呼応している証だった。
風が、道を作ろうとしている。
「……つながってる」
(うん。きっと、あたしたちがここにいるって、外の風に届いた)
瘴気が絡みつくこの場所に、わずかに届いた純粋な風。
その“断片”を手繰り、二人はさらに空を進む。
そこに明確な出口はまだない。
だが、風は“つながりたがっている”。
アカネが風を通すたび、どこかでまた一つ、重なりが反応する。
まるでこの空域そのものが、二人の意思に応えようとしているかのように。
風の“さざ波”が重なり合い、空域に揺らぎが生まれる。
まるで水面に小石を投じたかのように、空がひび割れるような違和感。
(……この空間、固定じゃない。揺れてる)
アカネがそう感じたとき、悟もまた気づいていた。
「地図に書けない空間……でも、風だけは同じ“音”で返してきてる」
閉じた空。だが、風は“外”を知っている。
迷宮は完全に閉じてなどいない。ただ、偽の層で包まれているのだ。
アカネは深く息を吐き、今度は風を押し出すのではなく、風と共に“呼吸”するように空間へ沈み込む。
(道は、きっと……音と、匂いと、……それと、記憶の奥にある)
彼女の風が震えた。
迷宮の皮が、ほんの一部だけ、ほころびたのだ。
そこには、明確な出口はなかった。
けれど、確かに風が“抜けた”。
悟がそれに気づいた瞬間、喉の奥にわずかに冷たい空気を感じた。
「今の、感じた……? 風の、向こう側が……!」
(うん……この風は、ここじゃない“空”につながってる!)
アカネはすぐに旋回し、再びその震えた一点へと向かう。
そこは“風のかけら”たちが最後に消えた、ほころびの境界。
風が、記憶を手繰り、風が、迷宮の狭間を探る。
次の跳躍で届くかはわからない。
けれど、それでも……
(ここから、抜けられるかもしれない)
そう信じた風が、二人を導いていた。
アカネの風が空域の“綻び”をなぞる。
そこには目に見える道はない。けれど確かに、風は抜け、戻ってくる。
それは“外”に通じる唯一の痕跡だった。
悟はアカネの背に両手を添え、体勢を安定させ、次の跳躍に全神経を集中する。
「アカネ、あの点にもう一度……いや、もっと強く、風をぶつけてくれ」
(うん……“壊す”んじゃない。“通す”ように)
アカネは翼を広げる。
風の螺旋が、空域の一点に向かって集まる。
それは突破口を穿つものではなく、“重なり”を貫く意志の波。
その刹那、悟が跳躍する。
風の道を辿り、アカネがその背に風を送り込む。
風が、空域の層にぶつかる。
バリ、と乾いた音。
視界が一瞬だけ白く染まり、そして……裂けた。
空の皮が、細く切り取られるように開いていく。
そこに現れたのは、夜明け前の淡い光。
かすかな星の残照と、外気の匂い。
(……通った!)
「アカネ、抜けるぞ!」
二人は一気にそこへ飛び込む。
風が後ろで収束し、裂け目が閉じようとする。
ギリギリのところでアカネの尾が滑り込み、闇の空域からの脱出が完了した。
その瞬間、胸いっぱいに吸い込んだ空気は、確かに“外”のものだった。
瘴気のない、大地の匂いが混じる、本物の空だった。