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第29話 風の囁き、歪む空の構造

 瘴気に満ちた空は、いまだ出口を見せない。

 しかし、アカネの翼が拾った“風の粒”は、確かに生きていた。


 悟とアカネがその風の残響に指を添えた瞬間、空域にかすかな波紋が走る。

 視界の奥、遠くに霞んでいた層が、ほんのわずかに軋んだ。音もなく、気づかれぬように。


(今の、見えた?)


「ああ……歪んだ。空の皮が、ちょっとだけ剥がれたような……」


 二人は互いに目を合わせる。

 それは確証とは言えない。

 だが、今まで何度飛んでも変わらなかったこの空域に、明確な“変化”が起きたのだ。


(もう一度、やってみる……)


 アカネは再びゆっくりと翼を広げ、風の流れに逆らわず滑空を始めた。

 悟はその背に乗り、アカネの気配と空気の変化に集中する。


 そして、アカネがそっと囁くように風を動かすと、どこかで共振する“粒”が返事をした。

 シャラリ、と音にならぬ音。


 それは、風同士が迷宮内で重なり、呼応している証だった。

 風が、道を作ろうとしている。


「……つながってる」


(うん。きっと、あたしたちがここにいるって、外の風に届いた)


 瘴気が絡みつくこの場所に、わずかに届いた純粋な風。

 その“断片”を手繰り、二人はさらに空を進む。


 そこに明確な出口はまだない。

 だが、風は“つながりたがっている”。


 アカネが風を通すたび、どこかでまた一つ、重なりが反応する。

 まるでこの空域そのものが、二人の意思に応えようとしているかのように。


 風の“さざ波”が重なり合い、空域に揺らぎが生まれる。

 まるで水面に小石を投じたかのように、空がひび割れるような違和感。


(……この空間、固定じゃない。揺れてる)


 アカネがそう感じたとき、悟もまた気づいていた。


「地図に書けない空間……でも、風だけは同じ“音”で返してきてる」


 閉じた空。だが、風は“外”を知っている。

 迷宮は完全に閉じてなどいない。ただ、偽の層で包まれているのだ。


 アカネは深く息を吐き、今度は風を押し出すのではなく、風と共に“呼吸”するように空間へ沈み込む。


(道は、きっと……音と、匂いと、……それと、記憶の奥にある)


 彼女の風が震えた。

 迷宮の皮が、ほんの一部だけ、ほころびたのだ。


 そこには、明確な出口はなかった。

 けれど、確かに風が“抜けた”。


 悟がそれに気づいた瞬間、喉の奥にわずかに冷たい空気を感じた。


「今の、感じた……? 風の、向こう側が……!」


(うん……この風は、ここじゃない“空”につながってる!)


 アカネはすぐに旋回し、再びその震えた一点へと向かう。


 そこは“風のかけら”たちが最後に消えた、ほころびの境界。


 風が、記憶を手繰り、風が、迷宮の狭間を探る。


 次の跳躍で届くかはわからない。

 けれど、それでも……


(ここから、抜けられるかもしれない)


 そう信じた風が、二人を導いていた。


 アカネの風が空域の“綻び”をなぞる。


 そこには目に見える道はない。けれど確かに、風は抜け、戻ってくる。

 それは“外”に通じる唯一の痕跡だった。


 悟はアカネの背に両手を添え、体勢を安定させ、次の跳躍に全神経を集中する。


「アカネ、あの点にもう一度……いや、もっと強く、風をぶつけてくれ」


(うん……“壊す”んじゃない。“通す”ように)


 アカネは翼を広げる。

 風の螺旋が、空域の一点に向かって集まる。

 それは突破口を穿つものではなく、“重なり”を貫く意志の波。


 その刹那、悟が跳躍する。

 風の道を辿り、アカネがその背に風を送り込む。


 風が、空域の層にぶつかる。


 バリ、と乾いた音。


 視界が一瞬だけ白く染まり、そして……裂けた。


 空の皮が、細く切り取られるように開いていく。

 そこに現れたのは、夜明け前の淡い光。

 かすかな星の残照と、外気の匂い。


(……通った!)


「アカネ、抜けるぞ!」


 二人は一気にそこへ飛び込む。


 風が後ろで収束し、裂け目が閉じようとする。

 ギリギリのところでアカネの尾が滑り込み、闇の空域からの脱出が完了した。


 その瞬間、胸いっぱいに吸い込んだ空気は、確かに“外”のものだった。


 瘴気のない、大地の匂いが混じる、本物の空だった。


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