空が、開けた。
瘴気の迷宮を抜けたその先に広がるのは、夜明け前の蒼空だった。
風が生きている。迷いのない流れが、空の広がりを物語っていた。
(……外だ。やっと、空に戻ってきた)
だが、その自由を歓迎する者ばかりではない。澄んだ風の中に、冷たい殺気が漂っていた。
何かがいる。いや、既にこちらを……
「来るぞ、アカネ!」
次の瞬間、空を切り裂く影がひとつ。黒く、鋭く、翼を持った異形が突撃してきた。
(飛んでる……“喰い主”じゃない……でも、瘴気の匂い……!)
それは空域に巣くう“空喰い”とは異なる、新たな瘴気生命体。
外見は鳥のようでありながら、骨ばった翼と伸縮する口吻を持つ。
まるで空の捕食者“空獣”だった。
「迎撃する!」
紅き巨翼はすでに疾風と見紛うほどの風を切る。
その背に騎乗する悟の姿は、まさに空の騎士だった。
風鋼の刃を抜く。
手に伝わる感触は、以前よりもずっと軽く、そして確かなものだった。
(悟、動いて。あたし、速く飛べる)
「合わせるぞ!」
アカネが一気に高度を上げる。
相対する空獣もまた、咆哮とともに旋回し、襲いかかってくる。
紅竜と空獣。
その交錯が、夜明け前の空に火花を散らした。
空は、どこまでも広がっていた。迷宮の圧迫感とは比べものにならないほどの、自由な空間。
だが、だからこそ、あの異形は、どこにでも現れる。
広さは自由と同時に、戦場の広がりでもある。
旋回。加速。急上昇。
アカネの翼が音を切り裂く。空獣の咆哮が背後から迫る中、悟は紅竜の背で風を読む。
(こいつ、ただの獣じゃない。動きに意志がある……)
空獣はただ突撃してくるのではない。
アカネの進路を読んで、風を裂くように追いすがってくる。
「右、三時の方向!」
(わかってる!)
アカネは風を蹴る。
紅き身体が鋭角に旋回し、空獣の突進をかわす。
が、それだけでは終わらない。
空獣の翼が羽ばたき、濁った瘴気の波がぶつかってきた。
「うっ……!」
風の流れが乱れる。
悟の体が一瞬、アカネの背で浮いた。
(悟、掴まって! 次、振り切るよ!)
「行け!」
アカネは風を纏い、一気に高度を下げる。
空獣が追う。視界に焼きつく瘴気の尾。
悟は風鋼の刃を逆手に持ち、風の“流れ”を探す。
そして、風の薄い部分……死角を見つけた。
「そこだッ!」
跳躍。
紅竜の背から飛び出し、悟は空獣の翼の付け根を目指して急降下する。
風鋼の刃が、空を裂く。
ズガッ。
刃が肉を裂く感触。空獣が咆哮をあげて空中でのけぞる。
だが落ちない。まだ動ける。
悟は反動で宙を舞う。すぐさまアカネが旋回して風を巻き、落下を受け止めた。
(もう少し、急所に届いてたら……!)
「アイツの動き……わかってきた」
アカネの目が光る。
(風を濁すのがアイツの狙い。だったら、濁る前に風の軌道を潰せばいい)
「やるぞ、アカネ……次は、仕留める」
瘴気が渦を巻く空。
紅竜が風を駆ける。
その背にしっかりと身を伏せる悟は、空気の緊張を肌で感じていた。
アカネの翼が大気を掴むたび、疾風のごとき突風が尾を引く。
彼女は、今や戦闘機と並ぶ巨体を持つ空の支配者。
しかし、空獣はまだ落ちていない。
(悟、左から来る!)
「分かってる!」
悟はアカネの背で姿勢を低くし、風鋼の刃を構える。
空獣が爪を振り上げて突っ込んでくる。
アカネが翼をひと打ちし、直前で回避。反転の一瞬、悟が叫ぶ。
「アカネ、上だ、回してくれ!」
(いくよ!)
アカネが身体をひねり、悟が刃を振るえる角度へと導く。
風鋼の刃が閃き、空獣の翼膜を裂く。
断裂音とともに瘴気が飛び散り、空獣がよろめいた。
(悟、今なら落ちる前に飛び移れる! 風、巻く!)
「行くぞッ!」
悟がアカネの背から跳ぶ。
一瞬だけ風が押し上げ、空獣の側面に足をかけた。
だがそれも一瞬、空獣が身をよじって反撃の動きを見せたため、悟は踏みとどまれず体を弾き飛ばされた。
「——喰らえッ!」
空中で風鋼の刃を振り抜きながら、悟はそのまま落下しはじめる。
風鋼の刃を突き立て、露出した瘴気の核を穿つ。
空獣が絶叫し、体をくねらせた。
(悟、落ちる!)
アカネが急降下し、風を巻く。
悟の落下を追い、翼をたたんで一気に接近。
その背に悟が転がり込むように着地した。
「ッ……間に合ったか……!」
(うん、ナイス!)
だがその時、空獣の胸部から黒く脈打つ瘴気の核が完全に露出した。
(悟、あれ……喰い主と同じ……!)
「アカネ、あれを!」
アカネが咆哮する。
紅竜の喉奥から放たれた衝撃波が、風と共鳴して核へと突き刺さる。
閃光が弾け、瘴気が四散し、空獣の体が崩れ落ちた。
静寂が訪れる。
空には、新たな朝の光が射し始めていた。
紅き疾風が、再び牙を剥く。
空に散った瘴気の残響が、まだ薄く漂っている。
紅竜の背にしがみつきながら、悟は荒い息を整えた。
全身が痺れていた。落下の衝撃、風の斬圧、敵の瘴気が内側から消耗を削ってくる。
(悟、大丈夫?)
「ああ……なんとか、な」
だが、終わったとは思えなかった。
風の流れが乱れ、異様な重さが周囲を包み込む。
その予感が現実となる。
裂け目の縁から、さらに小さな飛行体が姿を現した。
嘴のような突起と鋭利な翼を持ち、群れを成して空を滑る瘴気の“幼体”。
「……数で潰す気かよ」
(でも、一体ずつなら……核は見える!)
アカネが翼をたたみ、一気に加速。
風を裂きながら、群れの中央へと突っ込んでいく。
「行くぞアカネ、旋回しながら、ひとつずつ落とす!」
(うん!)
風が巻く。
アカネは大きく旋回しながら急制動を繰り返し、群れの間を縫っていく。
悟はその背で体を低く構え、風鋼の刃を振るった。
ひとつ。
またひとつ。
瘴気の核を見極め、刃を突き立てていく。
風に乗った斬撃は正確に敵の核を穿ち、幼体が次々に空へ崩れ落ちていった。
(……あと三体!)
「こっちは任せろ、アカネは避けに集中しろ!」
(わかった!)
残る三体は挟撃の陣をとろうと翼を広げた。
だがその瞬間、アカネが急上昇し、一気に一体の背後へ。
悟が振るった刃が核を砕き、続いて反転。
切り上げる動作で、横から迫る二体目を両断した。
最後の一体が怯み、方向転換した瞬間、アカネの咆哮が風を裂いた。
風の衝撃とともに放たれた紅竜の咆哮が、そのまま核を叩き潰す。
静寂が、訪れる。
風が晴れ、朝陽が空を染めていく。
「……全部、落としたか……」
(うん。でも、まだ……)
アカネが空の奥を見つめている。
そこにはまだ完全に閉じきっていない瘴気の裂け目。
そして、その向こうに影が潜んでいる。
(……あれ、まだ“いる”)
「……だろうな」
悟は風鋼の刃を静かに腰に戻し、もう一度、空の裂け目を見上げた。
終わってはいない。ここは、まだ入り口にすぎない。