風が、少しだけ戻っていた。
それはかつて知っていた“風”とは違う。
まだ途切れがちで、弱々しく、音もなく。
けれど確かに、空のどこかから吹いてくる。
悟とアカネは、その風の行き先を追いながら、空の縁をゆっくりと飛んでいた。
(……ずっとこっちを、探してる風だね)
「ああ。でも、それ以上に“迷ってる”ようにも感じる」
風は定まっていなかった。
まるで誰かが道を探して、まだ見つけきれていない。
そんな印象だった。
アカネの翼が、風を切る。
疾風のような加速は今も健在だったが、今は使っていない。
彼女は速度を落とし、あえて風に合わせて飛んでいた。
(……ねぇ、悟)
「ん?」
(“速く飛べること”って……偉いこと?)
悟は答えず、少しだけ空を見た。
自分がかつて、戦場で見た“速さ”。
速ければ、生き延びられる。
速ければ、敵を出し抜ける。
それが“正義”だった。
でも。
「速さは……武器だ。でも、武器を振るうのに理由がなければ、それはただの暴力だ」
(理由……)
「お前が速くなったのは、すごいと思う。でも、それで“誰かを追い越して”行くなら……その誰かを、振り返る時間も作ってやれよ」
アカネは黙ったまま、長く風の流れに身を預けていた。
そして、微かに、笑った。
(……うん、わかった)
***
それからしばらく、二人は言葉もなく空を流れていた。
紅竜の背に、悟が乗って。
風を読むアカネの翼が、空を滑るように旋回する。
風はまだ頼りないが、確かに前へ進んでいた。
そのときだった。
そこは、“瘴気の影”が空間を歪めている場所。
縁のように見えて、実際には空間の“折れ目”……まるで空と空がねじれて重なり合った場所。
アカネが風を感じ取ったその一瞬だけ、そこに“外の風”が入り込んでいた。
「アカネ、止まれ!」
(……あれ……何か、ある)
アカネが減速し、ゆっくりと下降する。
そこは、瘴気の気配がうっすら残る空の折れ目。
しかし、完全な敵意ではなかった。
悟が降り立ち、慎重に足を進める。
そこにあったのは、金属のような光沢を持つ……“欠片”だった。
だが、それは竜のものではない。
風の郷で見た封域の碑文にも似た、風読みの印が刻まれていた。
悟はそっと手を伸ばし、触れる。
次の瞬間、光が走った。
風が巻く。
空に、“声”が刻まれる。
フィーネの声だった。
『……空に、瘴気の影が広がっています。もし、あなたたちがこの風を拾ったなら……』
それは、風に託された“記録”だった。
時を超え、距離を超え、言葉が運ばれてくる。
フィーネの声は、どこか焦っていた。
『影が、空の心臓の周囲に根を伸ばしつつあります。あなたたちの旅が、そこで終わらぬことを……願います』
そして、風は止んだ。
悟とアカネは、静かに顔を見合わせる。
空の奥で、何かが待っている。
それが、終わりではないにせよ、確かに“中心”に近づいている。
「行くしかねぇな」
(……うん)
風が、戻るべき道を探している。
なら、こちらからも探す番だ。
“空の心臓”へ……そして、その奥へ。
***
空域は、歪んだままだった。
まとわりつく瘴気、千切れかけた風、視界は霞み、上下左右がどこなのかすら定かでない。
アカネは水平飛行しながら、翼を微調整する。
(……同じ景色が、ぐるぐる回ってるみたい)
悟は背にしがみついていたが、冷や汗が背筋を伝っていた。
「ここ……どこなんだよ、まったく」
影の空域.瘴気と風の裏側。
…と呼ばれてはいるが、実際は“迷宮めいた空間”だった。
飛んでも飛んでも、空は変わらない。
風も、空気も、すべてが繰り返されるループのように見える。
(悟……飛んでも、飛んでも進めない……)
アカネは力を込めて翼を羽ばたかせる。
だが、速度が出ない。
風をねじ伏せるような飛び方はできなくなっていた。
疾風サイズとなり、大きくなった体。体重増加も影響しているのかもしれない。
(……あたし、こんなところで力不足なんて)
アカネの翼が小刻みに震える。
悟は静かに手をアカネの首元へ回した。
「お前が悪いんじゃない。状況が悪いだけだ」
(でも……風が、読めない)
風を読む事が得意だったアカネは、迷えば迷うほど風の声を失っていった。
悟は視線を前方の虚空に向けた。
「風が、ちゃんとある場所に戻る必要があるな」
(……風に“出口”がある?)
「たぶん。“その風”を見つけられたら、ここから出られるんじゃねぇか」
アカネの瞳がわずかに光る。
(……じゃあ、探そう)
風が届かない空では、風が増幅された“感覚”だけが頼りだった。
二人はふたりで、あるいはひとりずつ、空に漂う風のかけらを探し始める。
アカネの背に乗った悟は、吹き抜ける風の弱い“道筋”を探しながら、あえて加速を控えるように伝えた。
アカネは翼を広げ、羽ばたきを止めた。
速度を落としながら、風に身をゆだねるように滑空する。
それは、力で風を切るのではなく、空に溶け込み、風の“残響”を感じようとする行為だった。
小さな羽ばたき、微細な浮遊。それでも、空中にさざ波を立てるように広がっていった。
視界の中空右手に、小さく「ひらっ」と揺れるものがあった。
……風の粒?
アカネの目が捕らえた。
(悟、あれ…!)
悟もそれに気づき、ひそりと語る。
「……微かすぎるけど…風だな」
それは、“本来の風”が瘴気に歪まれて粒化したようだった。
アカネが翼をたたみ、静かにその場に留まった。悟はその背で、風の流れを凝視していた。
そして、二人は共にその“微粒”へと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、それは弾けたように“風の鼓動”となり、空域全体へと波紋を広げた。
瘴気が揺れ、風が小さく返ってきた。
……続く風。
アカネの瞳が光る。
(悟…風が、返ってきた…!)
悟も声にならない安堵を口にした。
「出られるかもしれない…ただの“ひと欠け”でも…」
空域に生命が戻るように、二人は顔を見合った。
出口はまだわからない。
でも一歩前へ踏み出す勇気と、風の“かけら”は手に入れた。