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第28話 風が、戻る道を探して

 風が、少しだけ戻っていた。


 それはかつて知っていた“風”とは違う。

 まだ途切れがちで、弱々しく、音もなく。

 けれど確かに、空のどこかから吹いてくる。


 悟とアカネは、その風の行き先を追いながら、空の縁をゆっくりと飛んでいた。


(……ずっとこっちを、探してる風だね)


「ああ。でも、それ以上に“迷ってる”ようにも感じる」


 風は定まっていなかった。


 まるで誰かが道を探して、まだ見つけきれていない。

 そんな印象だった。


 アカネの翼が、風を切る。


 疾風のような加速は今も健在だったが、今は使っていない。


 彼女は速度を落とし、あえて風に合わせて飛んでいた。


(……ねぇ、悟)


「ん?」


(“速く飛べること”って……偉いこと?)


 悟は答えず、少しだけ空を見た。


 自分がかつて、戦場で見た“速さ”。


 速ければ、生き延びられる。

 速ければ、敵を出し抜ける。


 それが“正義”だった。


 でも。


「速さは……武器だ。でも、武器を振るうのに理由がなければ、それはただの暴力だ」


(理由……)


「お前が速くなったのは、すごいと思う。でも、それで“誰かを追い越して”行くなら……その誰かを、振り返る時間も作ってやれよ」


 アカネは黙ったまま、長く風の流れに身を預けていた。


 そして、微かに、笑った。


(……うん、わかった)


***


 それからしばらく、二人は言葉もなく空を流れていた。


 紅竜の背に、悟が乗って。


 風を読むアカネの翼が、空を滑るように旋回する。


 風はまだ頼りないが、確かに前へ進んでいた。


 そのときだった。


 そこは、“瘴気の影”が空間を歪めている場所。

 縁のように見えて、実際には空間の“折れ目”……まるで空と空がねじれて重なり合った場所。

 アカネが風を感じ取ったその一瞬だけ、そこに“外の風”が入り込んでいた。


「アカネ、止まれ!」


(……あれ……何か、ある)


 アカネが減速し、ゆっくりと下降する。


 そこは、瘴気の気配がうっすら残る空の折れ目。

 しかし、完全な敵意ではなかった。


 悟が降り立ち、慎重に足を進める。


 そこにあったのは、金属のような光沢を持つ……“欠片”だった。


 だが、それは竜のものではない。


 風の郷で見た封域の碑文にも似た、風読みの印が刻まれていた。


 悟はそっと手を伸ばし、触れる。


 次の瞬間、光が走った。


 風が巻く。


 空に、“声”が刻まれる。


 フィーネの声だった。


『……空に、瘴気の影が広がっています。もし、あなたたちがこの風を拾ったなら……』


 それは、風に託された“記録”だった。


 時を超え、距離を超え、言葉が運ばれてくる。


 フィーネの声は、どこか焦っていた。


『影が、空の心臓の周囲に根を伸ばしつつあります。あなたたちの旅が、そこで終わらぬことを……願います』


 そして、風は止んだ。


 悟とアカネは、静かに顔を見合わせる。


 空の奥で、何かが待っている。

 それが、終わりではないにせよ、確かに“中心”に近づいている。


「行くしかねぇな」


(……うん)


 風が、戻るべき道を探している。


 なら、こちらからも探す番だ。


 “空の心臓”へ……そして、その奥へ。


***


 空域は、歪んだままだった。


 まとわりつく瘴気、千切れかけた風、視界は霞み、上下左右がどこなのかすら定かでない。


 アカネは水平飛行しながら、翼を微調整する。


(……同じ景色が、ぐるぐる回ってるみたい)


 悟は背にしがみついていたが、冷や汗が背筋を伝っていた。


「ここ……どこなんだよ、まったく」


 影の空域.瘴気と風の裏側。

 …と呼ばれてはいるが、実際は“迷宮めいた空間”だった。


 飛んでも飛んでも、空は変わらない。

 風も、空気も、すべてが繰り返されるループのように見える。


(悟……飛んでも、飛んでも進めない……)


 アカネは力を込めて翼を羽ばたかせる。


 だが、速度が出ない。


 風をねじ伏せるような飛び方はできなくなっていた。

 疾風サイズとなり、大きくなった体。体重増加も影響しているのかもしれない。


(……あたし、こんなところで力不足なんて)


 アカネの翼が小刻みに震える。


 悟は静かに手をアカネの首元へ回した。


「お前が悪いんじゃない。状況が悪いだけだ」


(でも……風が、読めない)


 風を読む事が得意だったアカネは、迷えば迷うほど風の声を失っていった。


 悟は視線を前方の虚空に向けた。


「風が、ちゃんとある場所に戻る必要があるな」


(……風に“出口”がある?)


「たぶん。“その風”を見つけられたら、ここから出られるんじゃねぇか」


 アカネの瞳がわずかに光る。


(……じゃあ、探そう)


 風が届かない空では、風が増幅された“感覚”だけが頼りだった。


 二人はふたりで、あるいはひとりずつ、空に漂う風のかけらを探し始める。


 アカネの背に乗った悟は、吹き抜ける風の弱い“道筋”を探しながら、あえて加速を控えるように伝えた。


 アカネは翼を広げ、羽ばたきを止めた。

 速度を落としながら、風に身をゆだねるように滑空する。


 それは、力で風を切るのではなく、空に溶け込み、風の“残響”を感じようとする行為だった。


 小さな羽ばたき、微細な浮遊。それでも、空中にさざ波を立てるように広がっていった。


 視界の中空右手に、小さく「ひらっ」と揺れるものがあった。


 ……風の粒?


 アカネの目が捕らえた。


(悟、あれ…!)


 悟もそれに気づき、ひそりと語る。


「……微かすぎるけど…風だな」


 それは、“本来の風”が瘴気に歪まれて粒化したようだった。


 アカネが翼をたたみ、静かにその場に留まった。悟はその背で、風の流れを凝視していた。


 そして、二人は共にその“微粒”へと手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間、それは弾けたように“風の鼓動”となり、空域全体へと波紋を広げた。


 瘴気が揺れ、風が小さく返ってきた。


 ……続く風。


 アカネの瞳が光る。


(悟…風が、返ってきた…!)


 悟も声にならない安堵を口にした。


「出られるかもしれない…ただの“ひと欠け”でも…」


 空域に生命が戻るように、二人は顔を見合った。


 出口はまだわからない。

 でも一歩前へ踏み出す勇気と、風の“かけら”は手に入れた。


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