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第27話 揺れる風の中で

 風が、安定しなかった。


 アカネの翼がひとたび動けば、空気は裂け、旋回のたびに瘴気の残滓が弾ける。


 疾風のごとき飛翔能力。

 空の流れを自らの力で捻じ曲げる速さ。

 そのすべてが、今のアカネには“過剰”だった。


(……飛びにくい)


 思わずそうこぼす。


 悟はその背に身を預けながら、前とはまったく違う空気を感じていた。


「さっきまでは、もう少し風に乗ってたよな」


(うん……今は、押し切ってる感じ。風に任せてない。あたしが、全部……押し込んでる)


 空の流れに逆らい、踏み潰すように飛ぶ。


 それはもはや“流れる風に乗る飛行”ではなかった。


 悟は息を吐き、視線を遠くにやった。


「……そりゃあ、戦うには都合がいい。……でも、空を見失いそうだ」


 アカネは、すこしだけ視線を落とした。


(……あたしね、風を読むの、好きだった)


 そう、ぽつりと。


(風って、言葉みたいだったから。今日は元気、今日は眠そう、今日は優しい。……だから、好きだった)


「でも、今は?」


(……聞こえない)


 それが、彼女にとってどれほど寂しいことか。


 悟はそっと、アカネの頸のあたりに手を置いた。


「急ぎすぎたな、きっと。……力ってのは、使いこなす前に、呑まれちまうもんだ」


(……うん。でも、きっと……これは必要だった)


 アカネの声は揺れていた。


 それは風のせいではない。


 自分の中に“変わってしまった何か”があると、彼女は気づいていた。


 やがて、空の歪みが緩やかになる。


 瘴気の渦も見えなくなり、風が素直に流れ始めた。


 そこは、影の空域の片隅。

 “ひとときの凪(なぎ)”のような静けさが、ぽっかりと空に浮かんでいた。


 アカネがゆっくりと翼を畳み、降下する。


 その空間には足場はない。だが、空気が柔らかく、重力さえも緩い。


 悟が地面のような空気に降り立ち、アカネもそっと隣に身を伏せる。


 何も言わず、しばらく二人で“空の床”に寝転んだ。


 風は、吹いたり吹かなかったり。


 でも、それが心地よかった。


「……なあ、アカネ」


(ん?)


「俺、“疾風”って戦闘機に……乗るのが怖かったんだ」


(……怖かったの?)


「そう。怖いのに、喜んでるフリしてた。……それが“兵士”だって、思ってたから」


(……)


「でも、今は違う。お前の背に乗るのは、怖くねぇ。……むしろ、ちょっと、楽しいんだ」


 アカネの瞳が、微かに潤んで見えた気がした。


(……そっか。……うれしい)


 風が、そっと頬を撫でた。


 ゆらゆらと空の粒が舞い、遠くで雲が流れた。


 ふと、空間の端にひびが入った。


 悟が起き上がる。アカネもゆっくり顔を上げた。


 瘴気ではない。敵意もない。


 ただ、“空が崩れる音”。


 そこから、次の空への道が開くのか、それとも、まだここに留まるべきなのか。


 二人はまだ、答えを持っていなかった。


 だが、そのときだけは。


 ただ、風に身を委ねていた。


 疾風の背に乗って、空を休む……そんな夜も、あっていい。


***


 空が“裂けて”いた。


 目を凝らさなければ見落とすほどの細いひび。

 けれどそれは確かに、空間そのものに亀裂が走っているように見えた。


 悟とアカネは、その前で立ち止まっていた。


 風のない凪の空域に、わずかな歪みが現れたのは、休息の翌朝のことだった。


(……なんか、気味悪い)


「だよな。……瘴気とも違う、でも……“作為”を感じる」


 空が偶然裂けたのではない。

 何かがそこに“触れた”、あるいは“こじ開けようとしている”。


 アカネは翼をたたんだまま、その裂け目に近づく。

 悟も距離を保ちつつ後を追う。


(……風が……震えてる)


「アカネ、待て。……変に近づかない方が――」


 その瞬間、裂け目の奥から“音”が漏れた。


 それは、かすれた風の声。

 言葉にはなっていない。けれど、誰かの“意志”を感じさせる響きだった。


(……これ……)


 アカネが立ち止まる。


 しばらく沈黙が続いたあと、彼女がぽつりと呟いた。


(これ……“郷”の風)


 悟の表情が変わる。


「風の郷? フィーネのとこか?」


(うん……風の質が似てる。あそこから吹いてくる風に、すごく、近い)


 だが、風は途切れていた。


 まるで、何かが一瞬だけ空を貫き、そしてまた引っ込んだような、不安定な“ほつれ”。


「ってことは、あっち側と……繋がりかけてる?」


(でも、繋がったとは言えない。……穴が空いた、って感じ)


 悟は腕を組む。


 このまま無理に進めば、向こうに通じるかもしれない。

 だが、それは同時に「向こうからも通ってこられる」ということだった。


 そしてこの亀裂が、“意図して開けられた”ものなら。


「……仮面の仕業かもしれねぇな」


(あるいは、“何か”が外から、あたしたちを探してる)


 アカネがそう口にしたとき、悟の耳にわずかな耳鳴りが響いた。


 それは風ではなかった。瘴気でも、声でもない。


 ただ……記憶の断片。


 フィーネが語っていた“風の封域”。

 瘴気の根が、さらに下へと潜っているという、あの言葉。


「……あれは、本当に一番深い場所だったのか?」


 悟は独り言のようにそう呟いた。


 風の郷で見た竜の祠。

 アカネが力を得た場所。


 あそこが、最奥ではなかったとしたら。

 この空の裂け目と、風の郷が“まだ繋がっていた”としたら。


 その可能性が、思考の片隅を鋭くえぐっていた。 


 やがて、裂け目はゆっくりと閉じていった。


 まるで誰かが見ていたかのように。


 悟とアカネは、しばらく動けずにいた。


(……なんだか、風が言い訳してるみたいだった)


「言い訳?」


(“今はまだ無理だけど、ちゃんと来るから待ってて”って……そんな感じ)


 悟は少し笑った。


「それが本当なら、少しは安心かもな」


 風は再び静まった。


 だが、確かに“何か”が、空の向こうにいた。


 それが敵か、味方か、まだ判断はつかない。


 だが少なくとも……「誰かがいる」。


 それだけが、今の二人にとって、少しだけ心を軽くした。

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