風が、安定しなかった。
アカネの翼がひとたび動けば、空気は裂け、旋回のたびに瘴気の残滓が弾ける。
疾風のごとき飛翔能力。
空の流れを自らの力で捻じ曲げる速さ。
そのすべてが、今のアカネには“過剰”だった。
(……飛びにくい)
思わずそうこぼす。
悟はその背に身を預けながら、前とはまったく違う空気を感じていた。
「さっきまでは、もう少し風に乗ってたよな」
(うん……今は、押し切ってる感じ。風に任せてない。あたしが、全部……押し込んでる)
空の流れに逆らい、踏み潰すように飛ぶ。
それはもはや“流れる風に乗る飛行”ではなかった。
悟は息を吐き、視線を遠くにやった。
「……そりゃあ、戦うには都合がいい。……でも、空を見失いそうだ」
アカネは、すこしだけ視線を落とした。
(……あたしね、風を読むの、好きだった)
そう、ぽつりと。
(風って、言葉みたいだったから。今日は元気、今日は眠そう、今日は優しい。……だから、好きだった)
「でも、今は?」
(……聞こえない)
それが、彼女にとってどれほど寂しいことか。
悟はそっと、アカネの頸のあたりに手を置いた。
「急ぎすぎたな、きっと。……力ってのは、使いこなす前に、呑まれちまうもんだ」
(……うん。でも、きっと……これは必要だった)
アカネの声は揺れていた。
それは風のせいではない。
自分の中に“変わってしまった何か”があると、彼女は気づいていた。
やがて、空の歪みが緩やかになる。
瘴気の渦も見えなくなり、風が素直に流れ始めた。
そこは、影の空域の片隅。
“ひとときの凪(なぎ)”のような静けさが、ぽっかりと空に浮かんでいた。
アカネがゆっくりと翼を畳み、降下する。
その空間には足場はない。だが、空気が柔らかく、重力さえも緩い。
悟が地面のような空気に降り立ち、アカネもそっと隣に身を伏せる。
何も言わず、しばらく二人で“空の床”に寝転んだ。
風は、吹いたり吹かなかったり。
でも、それが心地よかった。
「……なあ、アカネ」
(ん?)
「俺、“疾風”って戦闘機に……乗るのが怖かったんだ」
(……怖かったの?)
「そう。怖いのに、喜んでるフリしてた。……それが“兵士”だって、思ってたから」
(……)
「でも、今は違う。お前の背に乗るのは、怖くねぇ。……むしろ、ちょっと、楽しいんだ」
アカネの瞳が、微かに潤んで見えた気がした。
(……そっか。……うれしい)
風が、そっと頬を撫でた。
ゆらゆらと空の粒が舞い、遠くで雲が流れた。
ふと、空間の端にひびが入った。
悟が起き上がる。アカネもゆっくり顔を上げた。
瘴気ではない。敵意もない。
ただ、“空が崩れる音”。
そこから、次の空への道が開くのか、それとも、まだここに留まるべきなのか。
二人はまだ、答えを持っていなかった。
だが、そのときだけは。
ただ、風に身を委ねていた。
疾風の背に乗って、空を休む……そんな夜も、あっていい。
***
空が“裂けて”いた。
目を凝らさなければ見落とすほどの細いひび。
けれどそれは確かに、空間そのものに亀裂が走っているように見えた。
悟とアカネは、その前で立ち止まっていた。
風のない凪の空域に、わずかな歪みが現れたのは、休息の翌朝のことだった。
(……なんか、気味悪い)
「だよな。……瘴気とも違う、でも……“作為”を感じる」
空が偶然裂けたのではない。
何かがそこに“触れた”、あるいは“こじ開けようとしている”。
アカネは翼をたたんだまま、その裂け目に近づく。
悟も距離を保ちつつ後を追う。
(……風が……震えてる)
「アカネ、待て。……変に近づかない方が――」
その瞬間、裂け目の奥から“音”が漏れた。
それは、かすれた風の声。
言葉にはなっていない。けれど、誰かの“意志”を感じさせる響きだった。
(……これ……)
アカネが立ち止まる。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女がぽつりと呟いた。
(これ……“郷”の風)
悟の表情が変わる。
「風の郷? フィーネのとこか?」
(うん……風の質が似てる。あそこから吹いてくる風に、すごく、近い)
だが、風は途切れていた。
まるで、何かが一瞬だけ空を貫き、そしてまた引っ込んだような、不安定な“ほつれ”。
「ってことは、あっち側と……繋がりかけてる?」
(でも、繋がったとは言えない。……穴が空いた、って感じ)
悟は腕を組む。
このまま無理に進めば、向こうに通じるかもしれない。
だが、それは同時に「向こうからも通ってこられる」ということだった。
そしてこの亀裂が、“意図して開けられた”ものなら。
「……仮面の仕業かもしれねぇな」
(あるいは、“何か”が外から、あたしたちを探してる)
アカネがそう口にしたとき、悟の耳にわずかな耳鳴りが響いた。
それは風ではなかった。瘴気でも、声でもない。
ただ……記憶の断片。
フィーネが語っていた“風の封域”。
瘴気の根が、さらに下へと潜っているという、あの言葉。
「……あれは、本当に一番深い場所だったのか?」
悟は独り言のようにそう呟いた。
風の郷で見た竜の祠。
アカネが力を得た場所。
あそこが、最奥ではなかったとしたら。
この空の裂け目と、風の郷が“まだ繋がっていた”としたら。
その可能性が、思考の片隅を鋭くえぐっていた。
やがて、裂け目はゆっくりと閉じていった。
まるで誰かが見ていたかのように。
悟とアカネは、しばらく動けずにいた。
(……なんだか、風が言い訳してるみたいだった)
「言い訳?」
(“今はまだ無理だけど、ちゃんと来るから待ってて”って……そんな感じ)
悟は少し笑った。
「それが本当なら、少しは安心かもな」
風は再び静まった。
だが、確かに“何か”が、空の向こうにいた。
それが敵か、味方か、まだ判断はつかない。
だが少なくとも……「誰かがいる」。
それだけが、今の二人にとって、少しだけ心を軽くした。