空が、震えていた。
風もない、音もない、ただ空だけが……震えていた。
その中心に、悟とアカネがいた。
再会の瞬間、互いに駆け寄るでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ“そこにいる”ことだけを確かめ合っていた。
(……悟)
「ああ……無事だったか」
それだけの言葉に、どれだけの安堵が込められていたか。
悟が手を伸ばす。アカネの頬に触れようとするその瞬間、
風が、動いた。
周囲の空気がざわめき、視界の先に、赤い光の柱が立ち上がる。
空が割れる。
その裂け目から現れたのは、巨大な竜の骨の残滓。
まるで、空間そのものがそこを避けていたかのように、静かに、しかし確かにそこに存在していた。
悟は言葉を失った。
「……これは……」
(……老竜の、記憶……?)
アカネがそう呟いた瞬間、骨の奥から風が吹いた。
それは、ただの空気の流れではない。
記憶だった。
大空を駆け抜けた風。
仲間を守り、敵を裂き、夜空に舞った翼。
それは“戦闘機の記憶”に似ていた。
悟の中で、何かが引っかかる。
この風を、自分は知っている。
この速度、この滑空、この軌道。
かつて、特攻に向かう前の夜、格納庫に整備された機体を見上げた時と、同じ風……。
「……疾風……」
悟は思わず口にしていた。
アカネは、それを聞き返すことなく、前へ進んだ。
骨の中心に、赤い光が浮かぶ。
それは、老竜の分体……“空を統べた竜”の欠片。
アカネがそれに触れた瞬間、空間全体が赤く染まる。
風が、逆巻いた。
悟は立っていられず、距離を取った。
アカネの体が、光に包まれる。
その輪郭が、膨張していく。
翼が広がる。尾が伸び、首が太くなる。
骨格が変わり、肉がつき、皮膜が膨らむ。
……成長だ。
その姿はもはや、これまでの紅竜ではなかった。
次の瞬間、風が爆ぜた。
赤い光が弾けるように拡散し、そこに、アカネがいた。
その姿を、悟は見上げた。
「……でけぇ……!」
全長約10メートル。全幅12メートル。
体高だけでも、悟の目線の三倍以上。
戦場で見た「疾風」。特攻機の主力、四式戦闘機。
かつて自分が、命を賭けて飛び込もうとした“翼”。
そのすべてが、今、目の前に生きていた。
だが、それは鋼でも、油でもない。
血の通った、命ある竜だった。
(……悟……)
アカネの声は、以前より深く、落ち着いていた。
無邪気さを残していた紅竜の声はもうない。
今ここにあるのは、空を背負うものの声。
悟はゆっくりと歩み寄る。
そして、ひとつ、問いかけた。
「アカネ……お前、まだ……進めるか?」
その言葉に、アカネは小さくうなずいた。
(……わかんない。けど……あたし、まだ“終わってない”って思う)
悟は笑った。
「なら……ここからだ」
目の前の“疾風”は、もう過去の亡霊ではない。
自分を死地に運ぶための鉄の棺桶ではない。
今、ここにあるのは、“生きるために空を飛ぶ翼”だ。
***
風が変わっていた。
アカネの咆哮が鳴り響いた瞬間、空そのものが震える。
瘴気が揺らぎ、空の影が裂ける。
疾風のような飛翔が、その中心を穿っていく。
悟はその背にいた。
先ほどまで、ようやく飛び立ったばかりの相棒の背が、今では戦場を翔ける「戦力」として、はっきりとそこにあった。
「行けっ、アカネ!」
(任せて……今なら、全部抜ける!)
空の歪みを裂くように、アカネが飛ぶ。
風は轟き、まるで“音の壁”を突き破るように速度を上げた。
影の空域を構成していた瘴気の渦が、一撃で断たれる。
その速度、一瞬で600キロに達する“閃光”。
(悟、見て!)
彼女の翼が振るうたび、空気が爆ぜ、空が逆流する。
だが、悟はその背で確かに“異質な震え”を感じていた。
「……アカネ、お前……」
(……うん。わかってる。速すぎる)
それは、力の“代償”だった。
身体が追いついていない。
風に乗っているのではない。風を、力で無理やりねじ伏せて飛んでいる。
翼の根本がわずかに震え、肉がきしむ。
筋肉が、風に耐えながら、なお突き進もうと悲鳴を上げていた。
「……まだ慣れてないんだな、この体に」
(……ううん、それだけじゃない。たぶん、“違う何か”が……)
言葉を飲むように、アカネが黙る。
そのときだった。
空の奥で、何かが……鳴いた。
高く、重く、遠い“声”だった。
風ではない。瘴気でもない。
それは、竜だった。
だが、アカネでも老竜でもない。
聞いたことのない、けれど本能が震える“声”。
アカネの飛翔が一瞬止まる。
悟もまた、その声を聞いた。
「今のは……?」
(わかんない。でも、今の……あたしの中の“何か”が、震えた)
風が吹いた。
ただの空気ではない、意志のある風だった。
その風は、アカネの背を撫で、悟の頬をかすめたあと、まっすぐに、ある方向へ流れていく。
それは、“この影の空域のさらに奥”にある何か。
悟は手を前に伸ばした。
「……行こう、アカネ」
(……うん。でも、気をつけて。……さっきの声、優しくなかった)
「敵、ってことか」
(ううん、たぶん……“鏡”)
アカネの目が細められる。
悟も、ふと息をのんだ。
あの声は、竜だった。
でもどこか、自分たちによく似ていた。
「……わかった。なら、確かめようぜ。“翼”が何を運ぶのかを」
風が吹いた。
疾風と共に、彼らは再び、空の先へと翔けていった。