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第26話 翼が、空を超える

 空が、震えていた。


 風もない、音もない、ただ空だけが……震えていた。


 その中心に、悟とアカネがいた。


 再会の瞬間、互いに駆け寄るでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ“そこにいる”ことだけを確かめ合っていた。


(……悟)


「ああ……無事だったか」


 それだけの言葉に、どれだけの安堵が込められていたか。


 悟が手を伸ばす。アカネの頬に触れようとするその瞬間、

風が、動いた。


 周囲の空気がざわめき、視界の先に、赤い光の柱が立ち上がる。


 空が割れる。


 その裂け目から現れたのは、巨大な竜の骨の残滓。

 まるで、空間そのものがそこを避けていたかのように、静かに、しかし確かにそこに存在していた。


 悟は言葉を失った。


「……これは……」


(……老竜の、記憶……?)


 アカネがそう呟いた瞬間、骨の奥から風が吹いた。


 それは、ただの空気の流れではない。


 記憶だった。


 大空を駆け抜けた風。

 仲間を守り、敵を裂き、夜空に舞った翼。


 それは“戦闘機の記憶”に似ていた。


 悟の中で、何かが引っかかる。


 この風を、自分は知っている。


 この速度、この滑空、この軌道。


 かつて、特攻に向かう前の夜、格納庫に整備された機体を見上げた時と、同じ風……。


「……疾風……」


 悟は思わず口にしていた。


 アカネは、それを聞き返すことなく、前へ進んだ。


 骨の中心に、赤い光が浮かぶ。


 それは、老竜の分体……“空を統べた竜”の欠片。


 アカネがそれに触れた瞬間、空間全体が赤く染まる。


 風が、逆巻いた。


 悟は立っていられず、距離を取った。


 アカネの体が、光に包まれる。


 その輪郭が、膨張していく。


 翼が広がる。尾が伸び、首が太くなる。


 骨格が変わり、肉がつき、皮膜が膨らむ。


 ……成長だ。


 その姿はもはや、これまでの紅竜ではなかった。


 次の瞬間、風が爆ぜた。


 赤い光が弾けるように拡散し、そこに、アカネがいた。


 その姿を、悟は見上げた。


「……でけぇ……!」


 全長約10メートル。全幅12メートル。


 体高だけでも、悟の目線の三倍以上。


 戦場で見た「疾風」。特攻機の主力、四式戦闘機。

 かつて自分が、命を賭けて飛び込もうとした“翼”。


 そのすべてが、今、目の前に生きていた。


 だが、それは鋼でも、油でもない。


 血の通った、命ある竜だった。


(……悟……)


 アカネの声は、以前より深く、落ち着いていた。


 無邪気さを残していた紅竜の声はもうない。

 今ここにあるのは、空を背負うものの声。


 悟はゆっくりと歩み寄る。


 そして、ひとつ、問いかけた。


「アカネ……お前、まだ……進めるか?」


 その言葉に、アカネは小さくうなずいた。


(……わかんない。けど……あたし、まだ“終わってない”って思う)


 悟は笑った。


「なら……ここからだ」


 目の前の“疾風”は、もう過去の亡霊ではない。


 自分を死地に運ぶための鉄の棺桶ではない。


 今、ここにあるのは、“生きるために空を飛ぶ翼”だ。


***


 風が変わっていた。


 アカネの咆哮が鳴り響いた瞬間、空そのものが震える。


 瘴気が揺らぎ、空の影が裂ける。

 疾風のような飛翔が、その中心を穿っていく。


 悟はその背にいた。


 先ほどまで、ようやく飛び立ったばかりの相棒の背が、今では戦場を翔ける「戦力」として、はっきりとそこにあった。


「行けっ、アカネ!」


(任せて……今なら、全部抜ける!)


 空の歪みを裂くように、アカネが飛ぶ。

 風は轟き、まるで“音の壁”を突き破るように速度を上げた。


 影の空域を構成していた瘴気の渦が、一撃で断たれる。


 その速度、一瞬で600キロに達する“閃光”。


(悟、見て!)


 彼女の翼が振るうたび、空気が爆ぜ、空が逆流する。


 だが、悟はその背で確かに“異質な震え”を感じていた。


「……アカネ、お前……」


(……うん。わかってる。速すぎる)


 それは、力の“代償”だった。


 身体が追いついていない。


 風に乗っているのではない。風を、力で無理やりねじ伏せて飛んでいる。


 翼の根本がわずかに震え、肉がきしむ。

 筋肉が、風に耐えながら、なお突き進もうと悲鳴を上げていた。


「……まだ慣れてないんだな、この体に」


(……ううん、それだけじゃない。たぶん、“違う何か”が……)


 言葉を飲むように、アカネが黙る。


 そのときだった。


 空の奥で、何かが……鳴いた。


 高く、重く、遠い“声”だった。


 風ではない。瘴気でもない。

 それは、竜だった。


 だが、アカネでも老竜でもない。

 聞いたことのない、けれど本能が震える“声”。


 アカネの飛翔が一瞬止まる。


 悟もまた、その声を聞いた。


「今のは……?」


(わかんない。でも、今の……あたしの中の“何か”が、震えた)


 風が吹いた。

 ただの空気ではない、意志のある風だった。


 その風は、アカネの背を撫で、悟の頬をかすめたあと、まっすぐに、ある方向へ流れていく。


 それは、“この影の空域のさらに奥”にある何か。


 悟は手を前に伸ばした。


「……行こう、アカネ」


(……うん。でも、気をつけて。……さっきの声、優しくなかった)


「敵、ってことか」


(ううん、たぶん……“鏡”)


 アカネの目が細められる。


 悟も、ふと息をのんだ。


 あの声は、竜だった。

 でもどこか、自分たちによく似ていた。


「……わかった。なら、確かめようぜ。“翼”が何を運ぶのかを」


 風が吹いた。


 疾風と共に、彼らは再び、空の先へと翔けていった。



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