空に墜ちて空が、消えていた。
気がついたとき、悟は一人だった。
見渡す限り、何もない空間。
青でもなく、黒でもない。空というより、“空白”だった。
「アカネ……フィーネ……」
声が響かない。返事もない。
何かに“落とされた”感覚はあった。だが、落下したはずの身体に、痛みはない。
ここは、どこだ?
何をしていた?
……いや、わかってる。
「……仮面の奴に……跳ね返された……」
そう呟いた瞬間、足元の空間がにわかに軋んだ。
白く無機質な“空”の中に、じわりと滲むように、影が現れる。
仮面だった。
だが、今度は姿形すら定かではない。
まるで“記憶そのもの”が仮面をかぶったかのように、揺れて、曖昧で、けれど確かにそこにいる。
「……今さら幻覚かよ」
悟は風鋼の刃を抜こうとした。
だが、柄(つか)がない。
武器も、風も、何もない。
ただ、“己”だけが残されている。
仮面は言葉を発しなかった。
ただそこに立ち、悟を“見ていた”。
視線などないはずなのに、確かに見られている。
追いつめられていたあの夜。
爆音の中、ひとり落下した機体の中。
「これで終わる」と、微かに安堵した胸の奥。
すべてが、目の前に広がっていく。
死を選んだ理由。
死を怖れなかった日々。
そして今、生きることが怖いと初めて思った瞬間。
「……何が言いてぇ」
悟は空間を睨みつける。
「死ぬためにここに来たんじゃねぇ。……生きるために、ここまで来たんだよ」
その言葉に応えるように、どこかで風が吹いた。
ほんの一筋、弱々しい風だった。
だが、悟は確かにそれを感じた。
「……アカネ」
その名を口にしたとき、空間がきしむ。
裂け目が入る。
空白が割れ、向こう側から風の渦がのぞく。
風だ。現実の風だ。アカネの風だ。
「……戻るぞ。俺は、ここで終われねぇ」
悟は裂け目に向かって走った。
その一歩ごとに、足元の空が砕けていく。
何かが崩れる音。
幻の中の幻。瘴気が造った偽りの牢獄。
すべてを振り切り、悟は裂け目へ飛び込んだ。
……その先に、アカネがいる。
***
空が、壊れていた。
アカネは、そこにいた。
ただ、空に。
ただ、ひとりで。
翼を広げても、風は来なかった。
飛んでいるはずなのに、落ちていないだけだった。
そこには、風がなかった。
(……悟……)
その名前を思うだけで、胸が痛んだ。
さっきまで、確かに背に感じていた。
頼りなくも真っ直ぐな声。温もり。重み。
自分が背負うべきと信じた、たったひとりの重さ。
それが、今はいない。
風がなければ、彼の声も届かない。
(……なんで……)
問いかけは心の中だけに収めた。
口に出せば泣いてしまいそうだったから。
(あたしが……もっと強ければ……)
振り返れば、悟は何度も無茶をした。
自分を庇い、空を翔け、何も言わずに前に立ってくれた。
その背中を、追いかけてきた。
でも。
いざ、背に乗せた瞬間。
あたしは……守りきれなかった。
紅竜に成長した。
力も、咆哮も、何倍にもなった。
なのに。
(……怖い)
その言葉は、小さな声で浮かんできた。
風がない空。
その沈黙の中で、自分がどれほど“孤独だったか”を知る。
悟がいなければ、自分はどう動くべきなのか。
風がなければ、自分はどこへ向かうべきなのか。
そう思った瞬間。
空が、鳴った。
――カァァァァン……。
音だった。金属のような、でも空気が震えるような、妙な響き。
音の出所は、彼方。
空の裂け目の向こう。空間の継ぎ目に揺れる何か。
そこに、風に似た“記憶の流れ”があった。
(……これ……風じゃない……でも、知ってる……)
アカネの中で、何かがざわめいた。
竜としての本能。
記憶の奥でまだ言葉にならない何かが、彼女を“導こう”としていた。
(悟……)
顔を上げる。
翼を広げる。
風がなくても、飛ばなくちゃいけない。
あの声に、もう一度会うために。
(待ってて。……あたしが、見つける)
そしてアカネは、空へと踏み出した。
その先に、悟と……まだ見ぬ“竜の欠片”が、待っている気がした。
***
空に、音が流れていた。
誰のものでもない風が、ゆっくりと渦を巻く。
その中心へ向かって、悟は歩いていた。
風鋼の刃も、風の補助もない。だが足は止まらない。
見上げれば、空が何層にも折り重なっていた。
空というより、記憶の残滓。
過去と現在が混ざり合ったような、色褪せた空だった。
その中心に、一筋の風が流れていた。
(風……?)
悟は立ち止まり、その風の“音”に耳を澄ます。
ごぉぉぉ……ざぁ……。
言葉にならない、しかしどこか懐かしい音。
耳ではなく、心の中に直接吹き込まれるような、柔らかな流れ。
悟は、ふと足を止めた。
そして言った。
「……アカネ、か?」
返事はなかった。
けれど、確かに“誰か”がそこにいた。
風ではない。瘴気でもない。
もっと古くて、あたたかくて、強い何か。
「……違うな。お前は……」
そのとき、風がひときわ強くなった。
見えない力に押されるように、空間が揺れる。
その風の向こう側に、なにか“意志”があった。
導いている。
ここではない、どこかへ。
「……そっちに、何かあるのか」
悟は再び歩き出す。
風の流れが、今度は確かに“道”になっていた。
***
一方、アカネもまた、空の縁にたどり着いていた。
風のない空だったはずなのに、微かな揺らぎがあった。
(……ここ……)
それは、かつて“老竜”が語っていた記憶に、似ていた。
焔と風の交わる山。翼を畳んだ竜たちの眠る洞。
自分では知らないはずの景色が、ふいに脳裏をよぎる。
(これ……あたしの記憶じゃない)
でも、確かに“懐かしい”。
その記憶が語っていた。
……ここに、まだ一つ、残されている。
……まだ、目覚めていない、竜の欠片が。
アカネの足元の空が、音もなく割れる。
光が差し込む。
そして、見えた。
遥か彼方。虚空の向こう。
“悟の風”が、そこにあった。
(……悟!!)
叫ぶように翼を広げる。
風が、ようやく吹いた。
たった一人を探し続けた空の中で、ようやく、確かな風が。
(待ってて、今……!)
***
同じ瞬間、悟も風の中で、声を聞いた。
(……悟!!)
それは確かに、アカネの声だった。
「アカネ……!」
風が交差する。
断ち切られた二人の道が、再び繋がる。
だが、その風の合間。
アカネの見た“記憶”の欠片の先に、何かが……“眠って”いた。