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第25話 空に墜ちて

 空に墜ちて空が、消えていた。


 気がついたとき、悟は一人だった。


 見渡す限り、何もない空間。

 青でもなく、黒でもない。空というより、“空白”だった。


「アカネ……フィーネ……」


 声が響かない。返事もない。


 何かに“落とされた”感覚はあった。だが、落下したはずの身体に、痛みはない。


 ここは、どこだ?


 何をしていた?


 ……いや、わかってる。


「……仮面の奴に……跳ね返された……」


 そう呟いた瞬間、足元の空間がにわかに軋んだ。


 白く無機質な“空”の中に、じわりと滲むように、影が現れる。


 仮面だった。


 だが、今度は姿形すら定かではない。


 まるで“記憶そのもの”が仮面をかぶったかのように、揺れて、曖昧で、けれど確かにそこにいる。


「……今さら幻覚かよ」


 悟は風鋼の刃を抜こうとした。


 だが、柄(つか)がない。


 武器も、風も、何もない。


 ただ、“己”だけが残されている。


 仮面は言葉を発しなかった。

 ただそこに立ち、悟を“見ていた”。


 視線などないはずなのに、確かに見られている。


 追いつめられていたあの夜。

 爆音の中、ひとり落下した機体の中。

 「これで終わる」と、微かに安堵した胸の奥。


 すべてが、目の前に広がっていく。


 死を選んだ理由。

 死を怖れなかった日々。

 そして今、生きることが怖いと初めて思った瞬間。


「……何が言いてぇ」


 悟は空間を睨みつける。


「死ぬためにここに来たんじゃねぇ。……生きるために、ここまで来たんだよ」


 その言葉に応えるように、どこかで風が吹いた。


 ほんの一筋、弱々しい風だった。


 だが、悟は確かにそれを感じた。


「……アカネ」


 その名を口にしたとき、空間がきしむ。


 裂け目が入る。

 空白が割れ、向こう側から風の渦がのぞく。


 風だ。現実の風だ。アカネの風だ。


「……戻るぞ。俺は、ここで終われねぇ」


 悟は裂け目に向かって走った。


 その一歩ごとに、足元の空が砕けていく。


 何かが崩れる音。

 幻の中の幻。瘴気が造った偽りの牢獄。


 すべてを振り切り、悟は裂け目へ飛び込んだ。


 ……その先に、アカネがいる。


***


 空が、壊れていた。


 アカネは、そこにいた。


 ただ、空に。


 ただ、ひとりで。


 翼を広げても、風は来なかった。

 飛んでいるはずなのに、落ちていないだけだった。


 そこには、風がなかった。


(……悟……)


 その名前を思うだけで、胸が痛んだ。


 さっきまで、確かに背に感じていた。


 頼りなくも真っ直ぐな声。温もり。重み。

 自分が背負うべきと信じた、たったひとりの重さ。


 それが、今はいない。


 風がなければ、彼の声も届かない。


(……なんで……)


 問いかけは心の中だけに収めた。

 口に出せば泣いてしまいそうだったから。


(あたしが……もっと強ければ……)


 振り返れば、悟は何度も無茶をした。

 自分を庇い、空を翔け、何も言わずに前に立ってくれた。


 その背中を、追いかけてきた。


 でも。


 いざ、背に乗せた瞬間。

 あたしは……守りきれなかった。


 紅竜に成長した。

 力も、咆哮も、何倍にもなった。


 なのに。


(……怖い)


 その言葉は、小さな声で浮かんできた。


 風がない空。


 その沈黙の中で、自分がどれほど“孤独だったか”を知る。


 悟がいなければ、自分はどう動くべきなのか。

 風がなければ、自分はどこへ向かうべきなのか。


 そう思った瞬間。


 空が、鳴った。


 ――カァァァァン……。


 音だった。金属のような、でも空気が震えるような、妙な響き。


 音の出所は、彼方。


 空の裂け目の向こう。空間の継ぎ目に揺れる何か。


 そこに、風に似た“記憶の流れ”があった。


(……これ……風じゃない……でも、知ってる……)


 アカネの中で、何かがざわめいた。


 竜としての本能。

 記憶の奥でまだ言葉にならない何かが、彼女を“導こう”としていた。


(悟……)


 顔を上げる。


 翼を広げる。


 風がなくても、飛ばなくちゃいけない。


 あの声に、もう一度会うために。


(待ってて。……あたしが、見つける)


 そしてアカネは、空へと踏み出した。


 その先に、悟と……まだ見ぬ“竜の欠片”が、待っている気がした。


***


 空に、音が流れていた。


 誰のものでもない風が、ゆっくりと渦を巻く。


 その中心へ向かって、悟は歩いていた。

 風鋼の刃も、風の補助もない。だが足は止まらない。


 見上げれば、空が何層にも折り重なっていた。


 空というより、記憶の残滓。

 過去と現在が混ざり合ったような、色褪せた空だった。


 その中心に、一筋の風が流れていた。


(風……?)


 悟は立ち止まり、その風の“音”に耳を澄ます。


 ごぉぉぉ……ざぁ……。


 言葉にならない、しかしどこか懐かしい音。


 耳ではなく、心の中に直接吹き込まれるような、柔らかな流れ。


 悟は、ふと足を止めた。


 そして言った。


「……アカネ、か?」


 返事はなかった。


 けれど、確かに“誰か”がそこにいた。


 風ではない。瘴気でもない。

 もっと古くて、あたたかくて、強い何か。


「……違うな。お前は……」


 そのとき、風がひときわ強くなった。


 見えない力に押されるように、空間が揺れる。

 その風の向こう側に、なにか“意志”があった。


 導いている。


 ここではない、どこかへ。


「……そっちに、何かあるのか」


 悟は再び歩き出す。

 風の流れが、今度は確かに“道”になっていた。


***


 一方、アカネもまた、空の縁にたどり着いていた。


 風のない空だったはずなのに、微かな揺らぎがあった。


(……ここ……)


 それは、かつて“老竜”が語っていた記憶に、似ていた。


 焔と風の交わる山。翼を畳んだ竜たちの眠る洞。


 自分では知らないはずの景色が、ふいに脳裏をよぎる。


(これ……あたしの記憶じゃない)


 でも、確かに“懐かしい”。


 その記憶が語っていた。


 ……ここに、まだ一つ、残されている。

 ……まだ、目覚めていない、竜の欠片が。


 アカネの足元の空が、音もなく割れる。


 光が差し込む。


 そして、見えた。


 遥か彼方。虚空の向こう。


 “悟の風”が、そこにあった。


(……悟!!)


 叫ぶように翼を広げる。


 風が、ようやく吹いた。


 たった一人を探し続けた空の中で、ようやく、確かな風が。


(待ってて、今……!)


***


 同じ瞬間、悟も風の中で、声を聞いた。


(……悟!!)


 それは確かに、アカネの声だった。


「アカネ……!」


 風が交差する。


 断ち切られた二人の道が、再び繋がる。


 だが、その風の合間。


 アカネの見た“記憶”の欠片の先に、何かが……“眠って”いた。



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