目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話

東雲琢磨にとって、篠宮初音は自分なしでは生きられないほど深く愛しているはずだった。あの離婚届に彼女がためらいもなく署名した今でさえ、それは駆け引きに過ぎないと信じていた。


役所を出た時、篠宮初音はこれまでにない解放感に包まれた。とうとう琢磨を、そして自分自身を自由にしたのだ。


その瞬間、彼女は笑った。


心の底から溢れるような笑顔に、琢磨は一瞬、我を忘れた。おそらくこれが初めて見る篠宮初音の笑顔だったのだ。


離婚することが、そんなにも彼女を幸せにするのか?


嘘だ。きっとまた小細工だろう。


「ふん」と冷笑した琢磨の冷たい瞳には侮蔑が満ちていた。「篠宮初音、よく覚えておけ。離婚した以上、お前が土下座して泣きつこうが、復縁は絶対にしない」


一歩踏み出し、何かを思い出したように再び口を開いた。「ああ、祖父を盾にするのもやめておけ。今度は祖父がどう言おうと、絶対に折れないからな」


「しないわ」

「は?」

「復縁も、祖父を盾にする事も。東雲琢磨、あなたは完全に自由よ」


実際、初音は東雲家のご隠居を利用して琢磨を脅したことなど一度もなかった。全ては…


初音の断固たる眼差しに、琢磨は一瞬、不安がよぎったが、すぐに押し殺した。「篠宮初音、今の言葉は覚えておけ」


そう言い残すと、琢磨は初音を置いて怒りに任せ去っていった。


初音は無一文での離婚だった。結婚前に彼女自らが提案した婚前契約のためだ。


三年間琢磨の妻として過ごしたが、持ち出せるものは驚くほど少なく、スーツケース一つに収まった。東雲邸は決して彼女の家ではなく、ただの通りすがりに過ぎなかった。


前日にまとめた荷物は、琢磨の指示で既に投げ出されていた。


雷鳴が轟き、黒雲が空を覆うと、土砂降りが降り始めた。


東雲琢磨はフロアトウインドウに立ち、傘も差さずにスーツケースを拾う初音の痩せた背中を見下ろしていた。今にも倒れそうなか弱い姿だった。


役所前の初音の決定的な眼差しと言葉を思い出し、琢磨は鼻で笑った。


十日も経たぬうちに、この女は泣きながら赦しを請うに違いない。


彼女は決して自分から離れられない。琢磨はそう確信していた。


……


広々とした極奢の会所個室。きらびやかな照明が交錯し、虚飾の空気が漂っていた。


「東雲さん、離婚したって?あの篠宮初音がよくもまあ…命をかけてあなたを愛してるんじゃなかったのか?」


西野家の次男・西野啓太が侮蔑混じりに言うと、周囲もこぞって嘲笑の笑みを浮かべた。琢磨さえもそうだった。


東京の上流社会で、篠宮初音が正気を失うほど東雲琢磨を愛していることを知らぬ者はいない。琢磨に冷たくされようが、周囲に嘲笑されようが、彼女だけは決して去ろうとしなかった。


ソファーにだらりと腰かけ、脚を組んだ琢磨は酒杯を手にしていた。嘲笑を浮かべた顔が照明で陰影を描く。「あれはただの駆け引きさ。数日もすれば、泣きながら戻って来るよ」


当時琢磨は「十日以内に泣きながら復縁を求めてくる」と断言したが、七日経った今も初音は現れない。


いら立ちを覚えつつも、琢磨は彼女が戻ってくると信じていた。


ほら、誰もが篠宮初音は自分なしでは生きられないと思っている。彼女に本当に去れるはずがないだろう?


琢磨は杯を傾け、皮肉な笑みを深くした。


小賢しい真似をしやがって。今度こそ思い知ってやる。


自信満々だった琢磨だったが、十日、一ヶ月経っても初音は現れなかった。苛立ちの中、わけのわからない不安が湧き上がる。その不安の根源を、彼自身も理解できずにいた。


東雲家のご隠居から電話がかかってきた時、琢磨は会議中だった。静まり返った会議室に、電話の向こうの老人の不満げな声がかすかに響いた。


「初音ちゃんを連れ戻せなければ、東雲グループの社長職も辞めてもらう」


ご隠居は篠宮初音をことのほか可愛がっていた。だがそれゆえに、琢磨は彼女を忌々しく思ったのだった。


電話を切った琢磨は、低気圧のように冷たく危険なオーラを放出していた。


この電話も初音の仕業に違いない。また祖父を盾にして自分を追い詰めようというのだ。


今の電話で、ご隠居の意志は明らかだった。初音を連れ戻せなければ、東雲グループの後継権を失う。


東雲家に後継ぎ候補はいくらでもいる。社長の座を狙う者も数多い。祖父の意向に背けば、いつでも代替わりは可能だ。


そんなことは絶対に許さない!


篠宮初音については――思い知らせてやる。プレッシャーをかけた代償をな。


琢磨が秘書に初音の住所を調べさせると、一時間もかからず彼女の住まいが判明した。


篠宮初音が今住む団地は古びて設備も老朽化し、壁の剥がれが目立ち、階段には湿ったカビ臭い空気が充満していた。


琢磨はハンカチで口を押さえ、顔をしかめた。後継権を失わないためでなければ、こんな場所に来るはずもなかった。


初音が自分を離れてどれほど惨めに、みすぼらしく暮らしているか想像した。今にも彼女が憔悴しきって現れ、涙ながらに懇願する姿が目に浮かんだ。


秘書がインターホンを押すと、間もなくドアが開いた。そこには篠宮初音が立っていた。


部屋着姿で髪を簡単に束ねた彼女は、一片の憔悴もなく、むしろ一ヶ月前より健康的な顔色をしていた。


琢磨の想像とは全く異なり、初音は彼を見ると、泣き崩れることも懇願することもなく、ただ冷たく見つめた。まるで他人のように。


一瞬、琢磨は動揺した。篠宮初音はもう本当に自分を愛していないのかもしれない、と。


だがそんなはずが――


「篠宮初音、お前の勝ちだ。戻って来い」


琢磨は高慢に宣言した。恩を施すような態度だった。自分が迎えに来たのだから、初音は感謝して当然だと思っていた。


しかし初音は微動だにせず、琢磨に一瞥すら与えようとしない。


「東雲さん、私たちはもう離婚しています。十分伝えたはずです。今後は私の生活に干渉しないでください」


「篠宮初音、お前――」


「バンッ!」という音と共に、ドアが閉ざされた。琢磨の言葉は遮られてしまった。


篠宮初音が、まさかそんな態度を取るとは!


琢磨の怒りは頂点に達した。


芝居だとしても、度が過ぎている!


だが琢磨は認めざるを得なかった。そんな初音は苛立ちを覚えさせる一方で、彼の心の奥底にある神経を、確かに震わせていた……



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?