東雲琢磨が現れても、篠宮初音の心に一片の波紋さえ生じなかった。彼女にとって彼は、本当にどうでもいい赤の他人でしかないかのように。
篠宮初音は昔から愛憎がはっきりした性格だった。
かつて東雲琢磨を愛したのも真実で、世界中の美しいものを全て彼に捧げたいと思った。
今、東雲琢磨を愛さないのも真実。今の彼はせいぜい「見知った他人」でしかないのだ。
初音は自分で水を一杯注ぎ、仮面を装着し、今日の配信を開始した。
二年前、彼女はフィットネス配信者となり、グラマラスな体型と甘い声で数え切れないほどのファンを獲得した。わずか二年でファンは一千万を突破した。
配信ルームのファンは皆、彼女を「スイートハートお姉さん」と呼んでいる。
ファンが最も望むのは、このスイートハートお姉さんの素顔を拝むことだ。
しかし二年間、篠宮初音は一度も仮面を外したことがない。
「きっとブスだから仮面で素顔を隠してるんだ」と悪意の中傷をするファンもいた。
それでもどんな中傷にも、初音は微動だにしなかった。
当初仮面を付けて配信したのも、ミステリアスさを狙ってではなく、東雲家の嫁として配信で顔を晒すことが許されなかったからだ。今では東雲琢磨と離婚したが、彼女は依然として何も変えたくはなかった。
ギフトを投げる人は相変わらず多く、「愛スイート」というファンが長期にわたりランキング一位を占めている。
初音が配信するたびに「カーニバルギフト」を100個投げるが、この人物は一度も連絡先を要求したことがない。高調でありながらも低姿勢だった。
二時間の配信を終えると、初音はすぐにシャワーを浴びて寝た。
彼女の生活リズムは規則正しく、翌朝六時に起床してランニングに出かけた。戻ってくると、バラの花束を持ち、苛立った様子の東雲琢磨がいた。
バラは愛情を象徴するが、琢磨が彼女に愛情を抱いたことは一度もなかった。
初音は眉をひそめた。昨日あれほど彼の面子を潰したのに、まだ現れるとは思っていなかった。
恨んではいないが、彼との関わりは一切持ちたくなかった。
「篠宮初音、俺について帰れ」
琢磨は手にしたバラを差し出した。傲慢で、しかもぎこちない。
しかし初音はその花を受け取らず、一瞥さえ与えず、彼の横を通り過ぎた。
琢磨は初音の従順さに慣れきっていた。度重なる反抗に、彼の怒りは頂点に達した。
「篠宮初音、いつまでそんな芝居を続けるつもりだ?」琢磨はバラを地面に叩きつけ、彼女の手首を掴んだ。怒りで歪んだ顔がぐにゃりと歪んだ。「お前の『欲擒故縄』の手口か?祖父がお前を贔屓してるのを盾に、俺に頭を下げさせようってのか?もう謝ったんだぞ!これ以上何を望むんだ!言っておくが、俺の忍耐にも限界がある!図に乗るな!」
東雲家の後継ぎのためなら頭は下げられる。だが彼女がその隙に付け上がり、何度も彼の限界を試すことは許せなかった。
初音は滑稽だった。琢磨が滑稽なのか、それとも自分自身が滑稽なのか。
掴まれた手首を振りほどき、彼女の表情は静かな湖面のように穏やかだった。「今すぐ祖父のところへ行きましょう。離婚は私の意思です。あなたとは関係ありません。そして二度と絡んだりしません」
「二度と絡んだりしない」という言葉が、無数の蔦のように琢磨を締め上げ、窒息させる。
この窒息感の正体がわからず、深く考えることも拒んだ。高慢な彼は初音の前で敗北を認めるわけにはいかなかった。「それなら、言ったな」
東雲家本邸。
東雲の当主は今年七十九歳。白髪交じりで、皺だらけの顔には慈愛が溢れていた。
琢磨と初音が一緒に現れたのに、当主の目には彼女しか映っていないようだった。
「初音、こっちへおいで」
初音は当主の前に進み出ると、どさりと跪いた。
「祖父様、申し訳ありません。離婚を申し出たのは私です。東雲さんを責めないでください。期待に背いてしまい、すみません」
東雲当主に対し、初音の心は後悔でいっぱいだった。
孤児院で育った彼女を、当主は学生時代から支援し続けてくれた。彼女は深く感謝していた。
かつて当主に「琢磨の面倒を一生見る」と誓ったのに、それを破ってしまった。
「初音、琢磨とは…本当にやり直せないのか?」当主は背を丸め、一気に老け込んだように見えた。
「祖父様、本当にすみません」
初音が跪いてそう告げた瞬間から、琢磨は不安を感じた。何かが確実に手の届かぬ場所へ流れている気がした。
彼女は本当に去ろうとしている。これほどまでに断固として。決して駆け引きなどではない。
ずっと彼女を振り払いたいと思っていた。だが彼女が実際に去ると、喜びは微塵もなく、代わりに未体験の怒りが渦巻いた。
篠宮初音という女が、よくもまあ!俺から去るだと?去るなら、こっちから言い渡すべきだろうが!
当主は深いため息をつくと、初音の腕を掴んで立ち上がらせた。「初音よ、琢磨がお前に釣り合わぬ。ここ数年、お前が苦労したことは知っている。祖父が悪かった。お前の決断を尊重する」
当主は彼女が情に厚いことを知っていた。ましてや孫への想いは一途だった。心が完全に死んでいなければ、去るはずがない。
流産を強要され、手術台で死にかけた。もし琢磨が自分の孫でなければ、とっくに撲殺していただろう。
間違っていたのは自分だ。あの不孝の孫に初音を娶らせるべきではなかった。結果、初音を傷つけてしまった。
初音の鼻の奥がじんと熱くなった。「祖父様、東雲さんとどうなろうと、あなたは永遠に私の祖父です」
「良い子だ…祖父はお前を愛して間違いなかったよ」当主は彼女の肩をポンポンと叩いた。「初音、今日は先に帰りなさい。また祖父を訪ねておくれ。この門はいつでもお前のために開いている」
「ありがとうございます、祖父様」彼女は深々と頭を下げると、踵を返した。
初音が去ろうとすると、琢磨の瞳が急に収縮した。振り返って追いかけようとした。「篠宮初音!待て!」
自分が彼女に捨てられる事実を受け入れられなかった。
篠宮初音が、よくもそんな真似を!
しかし一歩を踏み出した瞬間、当主に呼び止められた。
当主は怒りを爆発させ、杖を琢磨に叩きつけた。「この人でなし!よくも初音を流産させ、大出血で死なせそうにしたな!お前は何てことを!彼女がもう二度と妊娠できなくなったことを知っているのか…!」