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第3話

篠宮初音の心に、東雲たくまの出現は微塵も揺るがさなかった。


もはや彼は、全くの他人に過ぎなかったのだ。


初音はもともと愛憎がはっきりしている。 


かつて東雲たくまを深く愛していた頃は、この世のすべての良きものを彼に捧げたいと願っていた。

そして今、愛が消えたのもまた事実だった。


今のたくまは、彼女にとってせいぜい「知り合い」でしかない。


初音はコップ一杯の水を飲み、いつもの仮面を装着して、その日の配信を始めた。


すでに二年前から、彼女はフィットネス配信者として活動していた。


抜群のスタイルと甘い声で多くのファンを獲得し、わずか二年でフォロワー数は百万を突破していた。


配信中、ファンたちは彼女を親しみを込めて「スイートハート」と呼ぶ。


ファンたちが最も熱望するのは、スイートハートの素顔を拝むことだった。


しかし、丸二年間、篠宮初音は一度もカメラの前で仮面を外したことがなかった。


一部のファンからは、容姿が劣っているから素顔を見せられないのだろうと中傷されることもあった。


こうした誹謗に対して、初音は常に聞き流していた。


仮面を付けるのは、元々は意図的にミステリアスにしているわけではなかった。


東雲家の若奥様という立場が、配信で素顔を晒すことを許さなかったのだ。


今では離婚したが、彼女は現状を変えるつもりはなかった。


投げ銭は相変わらず途切れることなく、ID「シエルガーディアン」というファンが、長らく投げ銭ランキングのトップを独占していた。


初音が配信を始めると、この人は必ず豪快に120個の「ゴールドスター」を投げてきた。


彼は一度も彼女の連絡先を聞いたことはなく、派手に投げ銭しながらも、ひっそりと謎に包まれていた。


二時間の配信を終え、初音はさっと身支度を済ませて床に就いた。


彼女は生活リズムがっ整っていて、朝六時にはきちんと起床し、ランニングに出かけた。


走り終えて戻ると、東雲が大輪の赤いバラの花束を抱え、苛立った様子でマンションの下に立っていた。


バラは愛情の象徴。


しかし、たくまは彼女に心から愛したことなどあったのか?


初音は眉をひそめた。


昨日あれほど彼の面子を潰したにもかかわらず、また現れるとは予想外だった。


彼を恨んではいなかったが、これ以上かかわりを持つつもりもなかった。


「篠宮初音、戻ってこい」たくまは花束を差し出した。


その態度は傲岸で、どこか歪んだ様子だった。


初音はそれを受け取らず、彼を一瞥することもなく、真横を通り過ぎた。


彼女の従順さに慣れきっていたたくまは、この連続した反抗に激怒した。


「篠宮初音、いい加減にしろ!」彼はバラの花束を地面に叩きつけ、彼女の手首を強引に掴んだ。怒りで歪んだ顔が彼女に迫る。


「なあ、お前は駆け引きをしているんだろう?じいさまがお前を寵愛しているのを盾に、俺に頭を下げさせようってんだろ?今、俺は頭を下げたぞ、これで満足か?いいか、俺はもうだ。図に乗るなよ!」


たくまは東雲財閥の後継権のために彼女に頭を下げることはできても、彼女がそれに付け上がって自分の限界を何度も試すことには我慢がならなかった。


初音にはただただ滑稽で、それが彼のためなのか、はたまた自分のためなのか、わからなかった。


彼女は彼の手を力強く振りほどき、表情は穏やかなままだった。


「今すぐじいさまに会いに行きましょう。離婚は私が決めたこと、あなたには関係ありません。そして、私はもう二度とあなたを煩わせたりしません。」


「もう二度とあなたを煩わせたりしません」――その言葉は無数の冷たい蔦のように、瞬時にたくまの心臓を締め上げ、息を詰まらせた。


この窒息感がどこから来るのか理解できず、深く考えることも拒んだ。高慢な彼は、篠宮初音の前で敗北することを絶対に許さなかった。


「……わかった、お前がそう言うならな。」


**東雲家本邸**


東雲宗一郎は八十歳近く、白髪で、皺だらけの顔に優しさが滲んでいた。


たくまと篠宮初音が一緒に現れたのに、老人の目は初音だけを追っていた。


「初音ちゃん、じいさまのところへおいで」


初音が老人の前に進み出ると、その場に「ドスン」と跪いた。


「じいさま、申し訳ありません。離婚を申し出たのは私です。東雲様をお責めにならないでくださ

い。私のせいで、がっかりなさってしまいました……」


宗一郎を前にして、初音は胸いっぱいの後悔と申し訳なさでいっぱいだった。


彼女は幼い頃、暁の光児童養護施設で育ち、宗一郎の援助で学業を終えた。彼には深い恩義を感じていた。

かつて彼に誓った。東雲たくまを大切に守り、決して見捨てないと。


だが、その約束を破ってしまったのだ。


「初音ちゃん……お前とたくまくんは、本当に……もう戻れないのか?」宗一郎の背筋は少し曲がり、一瞬でさらに老け込んだように見えた。


「申し訳ありません、じいさま……私のせいで」


初音が地に跪いた瞬間から、たくまは強烈な不安を感じていた。何かが制御不能になったことを、はっきりと自覚した。


篠宮初音は本当に自分から去ろうとしている。


その決意は固く、決して何かの駆け引きなどではない。


ずっと彼は彼女を追い出したいと思っていた。


しかし、彼女が本当に去ろうとした時、彼の心に湧いたのは喜びではなく、ただ未曾有の怒りだけだった。


よくもそんなことを!去るなら、それは彼が追い出すべきではなかったのか!


宗一郎は深く嘆息し、初音を起こした。


「初音ちゃん……たくまはお前にふさわしくなかった。じいさまはお前がこの何年も辛い思いをしてきたことを知っている。じいさまがお前を不幸にしてしまった……。じいさまは、お前の決断を尊重するよ」


老人はよく理解していた。


初音は情に厚く、義理堅い女だ。


彼の孫に対しては、一心に思いを寄せてきた。


心が完全に灰になるまで、彼女が去るはずはなかったのだ。


妊娠を強制的に中断させられ、手術室で大量出血して命を落としかけた……もしたくまが彼の実の孫でなければ、この不届き者を自分で打ち殺していただろう!


間違いだった。


最初からこの不孝な孫に無理やり初音ちゃんを娶らせ、彼女を苦しめてしまったのだ。


初音の鼻の奥がわずかに熱くなった。


「じいさま……私と東雲様がどうなろうとも、あなたは永遠に私のじいさまです」


「良い子だ……じいさまはお前を可愛がってきた甲斐があったよ」宗一郎はそっと彼女の肩を叩いた。


「初音ちゃん、今日は先に帰りなさい。またいつでもじいさまを訪ねておいで。ここの門は、いつでもお前に開かれている」


「ありがとうございます、じいさま」初音は老人に深々と頭を下げ、去ろうと振り返った。


彼女が本当に去ろうとした時、たくまの瞳が一瞬で見開かれた。


すぐにでも追いかけようとした。「篠宮初音!待て!」


自分が篠宮初音に見捨てられたという事実を、彼は受け入れられなかった。


よくもそんな真似ができる!


しかし、彼が足を上げた瞬間、宗一郎の鋭い怒声が彼を遮った。


長く抑えられていた老人の怒りが爆発し、杖を振りかざしてたくまの体を激しく打ちつけた。


「この畜生め!よくも初音ちゃんに妊娠中絶を強要したな!彼女を大量出血させて手術室で死にかけさせた!よくもそんな真似ができた!お前は知っているのか、彼女はもう二度と母親になれないということを……!」

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