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第5話

東雲たくまは篠宮初音を嫌っていた。


それでも、彼女はかつて自分の妻だった。


彼は、彼女がこんな場所で晒しものになり、無数の男たちの下劣な目に晒されることを許せなかった。


男として、そうした視線の裏に渦巻く下心が何たるかを、彼は痛いほど理解していた。


東雲は猛然とステージに駆け上がり、一言も発さずに篠宮初音の手首を掴むと、無理やり引きずり下ろした。


この突然の出来事に、場内は一瞬にして騒然となった。


西野啓太は呆気に取られ、状況が飲み込めなかった。


東雲がこれほど取り乱す姿を見るのは初めてだった。


「東雲の若様、どうなされたのですか?」西野が慌てて追いかける。


しかし東雲は、すでに初音を個室へと引きずり込み、背後のドアに鍵をかけた。


個室の外では、支配人が心配そうに尋ねた。


「大丈夫でしょうか? ドアを壊しましょうか?」東雲の若様に逆らうことはできないが、もし店内で何かあれば自分も責任を問われる。                                                  

西野は平静を装って言った。


「大丈夫だ。東雲の若様には手加減がある。余計な心配は無用だ。」


そうは言いながらも、心の中は不安でいっぱいだった。


それ以上に、東雲をあそこまで狂わせた女に対する好奇心が膨らんでいた。


個室は防音性が高く、ドアが閉まれば外の音は一切入ってこない。


室内で、東雲はなおも初音の手首を強く握りしめ、目は火の玉のように赤く燃えていた。


「篠宮初音! お前、自分が何をしているのか分かっているのか! よくもまあ、こんな場所で晒しものになれるものだ!」


初音は理解できなかった。


仮面を付けているのに、なぜ彼に気づかれたのか?


今の東雲は、自らを焼き尽くす火の塊のようで、彼女を灰にしようとしている。初音はただ逃げ出したかった。


彼女は力一杯、彼の手を振りほどいた。


「東雲様、私たちはもう何の関係もありません。私のことに口を出す権利はありません。それに、私はこれが晒しものだとは思いません。仕事で稼いでいるだけです。」


「稼ぐ?」


東雲は滑稽だとでも言わんばかりに、一枚のキャッシュカードを取り出してテーブルに叩きつけた。


「ここに2億4,000万円ある! 今すぐ辞めろ!こんな場違いな場所で恥を晒すのは許さん!」

怒り? 悲しみ? 苦しみ?


本来ならそうした感情が湧いてもおかしくないのに、初音の心は死んんでいるように静かだった。


東雲たくまはもう、彼女を傷つけることなどできなかった。


突然、篠宮初音が手を上げ、顔にかけた仮面を外した。


彼女は一歩踏み出すと、東雲を壁に押し付け、その目をまっすぐに見据えた。


彼女の瞳は非常に美しく、澄みきっていた。


ただ、かつて彼のために熱い恋心をたたえていたその眼差しには、今や一片の情愛さえ見当たらなかった。


愛もなければ、恨みもない。


ただ、よそよそしい無関心だけが残っていた。


「東雲様がこんなに怒るなんて、まさか…ヤキモチ?」彼女は口元をわずかに緩め、嘲るように言った。


「私のこと、好きになったんじゃないの?」


篠宮初音のことが好き?


そんなわけがない!


東雲は当然、激怒すべきだった。


しかし、怒りは湧かなかった。


代わりに胸に込み上げてきたのは、見透かされた狼狽だった。


「篠宮初音! 俺が、お前のことなんか好きになるわけがない! 一生そんなことはありえん!」


彼は強く否定した。


しかし、彼女の明らかに安堵した表情を見た瞬間、言いようのない業火が腹の底から燃え上がった。


以前は彼女が遠くへ行ってくれればと願っていたのに、今、彼女が本当になんの未練も持っていないと知って、なぜか激しい怒りが湧いてきた!


こんなはずじゃない!


「それは結構です。」

初音は再び仮面を付け、軽やかな口調で言った。

「だって、もし東雲様が本当に私のことを好きになってしまったら、私も困りますから。ですから、これ以上、私に誤解させるようなことはおやめください。」


そう言い終えると、彼女は振り返り、ためらうことなく個室のドアを開けた。


ドアの外では、マネージャーと西野がまだ突っ立っていて、彼女の姿を見て呆然とした。


先に口を開いたのは初音だった。「マネージャーさん、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。今後は気をつけます。」


マネージャーは我に返り、さっと彼女の全身を見渡すと、傷ついた様子がないのを確認してほっとした。


「スイートハート、今日はお疲れでしょう。早くお帰りになって休んでください。」


「はい、ありがとうございます、マネージャーさん。」


ようやく反応した西野はすぐに個室に飛び込んだが、目にしたのは壁を拳で何度も強く殴る東雲の姿だった。彼は肝を冷やした。


「東雲の若様! 何をなさっているのですか!」西野は壁を遮るように飛びついた。


「さっきの女は誰だ? 知り合いか?」


「知らん!」


東雲は西野を強く突き飛ばすと、大股で個室を飛び出した。


知らなきゃあんなに怒るか?


知らなきゃあんなに取り乱すか?


そんなわけがあるものか!


東雲は大量の酒を飲んでいた。


車に乗ると、運転手に自宅へは行かず、篠宮初音が住む楓ヶ丘アパートへ向かうよう指示した。


アパートの下に着いて、彼は自分が狂ってしまったと思った。


『**それは結構です。だって、もし東雲様が本当に私のことを好きになってしまったら、私も困りますから。**』


篠宮初音のその言葉が、魔音のように頭の中で反響し、彼の苛立ちをさらに募らせた。


俺が篠宮初音のことを好きになるなんて? 絶対にありえない!


「帰れ!」彼は低く唸った。


車はエンジンをかけ、重い闇夜の中へと静かに消えていった。


土日は、篠宮初音が自分のために取っておく休日だった。


配信もせず、ナイトフォールにも行かない。


彼女は予算400万円ほどで、足となる車を買うことにした。


ディーラーを訪れ、予算と希望を伝えると、営業マンが熱心に何台か薦めてくれた。


最終的に、彼女は白いフォルクスワーゲン・トゥーランを選んだ。


車両本体価格に保険などを合わせた諸費用込みで、ちょうど400万円を少し超える程度だった。


免許を取ってから長い年月が経っていたが、実際に運転する機会はほとんどなく、ほぼ初心者同然だった。


彼女はとてもゆっくりと、慎重に感覚を確かめながら車を走らせた。


十数分後、徐々に自信がつき、アクセルを少し踏み込むと、スピードは時速30キロから60キロに上がった。


車は東雲家の本邸へと真っ直ぐに向かった。


中村執事が彼女を見つけると、大喜びで迎えに出てきた。


「奥様! ようこそお越しくださいました! おじい様がこの数日、いつも初音ちゃんに会いたいとおっしゃっておりました!」


「中村さん、おじいちゃんはどちらに? それと、これからは私を初音と呼んでください。もう奥様とは呼ばないでください。」


ファーストネームで呼べ? それは筋が通らん。


中村執事は恭しく答えた。


「篠宮さん、おじい様は書斎でございます。」


「はい、ありがとうございます、中村さん。」


篠宮初音は書斎へ直行し、軽く扉を叩いた。


「おじいちゃん、私ですよ。」


中からすぐに東雲宗一郎の楽しげな声が返ってきた。


「初音ちゃんかい? かまわんよ、入っておいで!」


篠宮初音が書斎に入るのとほぼ同時に、東雲たくまが本邸に到着した。


彼女が書斎でおじいちゃんに会っていると知ると、彼はすぐに足早に向かった。


書斎のドアの前に着き、手を上げようとしたその瞬間、中から東雲宗一郎の興味津々な声がはっきりと聞こえてきた。


「初音ちゃん、ほら、この写真を見てごらん! おじいちゃんが厳選した名門の御曹司ばかりだぞ。気に入った子はいないか? おじいちゃんがお見合いを組織してやる!」

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