東雲琢磨は篠宮初音のことが好きではなかった。だが彼にとっては元妻だ。そんな場所で彼女が「色香を振りまく」姿を、あれだけの男たちが貪欲な目で見ているのを、どうしても受け入れられなかった。
男として、あの連中が下品な妄想を巡らせているのが手に取るようにわかる。
東雲はためらわずステージに駆け上がった。余計な言葉もなく、篠宮初音の手首を掴むと引きずり下ろした。
あまりに突然の出来事に、場内は騒然となった。
田島も呆気に取られている。東雲がこんなに衝動的な姿を見せたのは初めてだ。
「東雲の若様、一体何が?」田島が近づいてきた。
しかし東雲は既に篠宮初音を個室へ連れ込み、ドアに鍵をかけた。
個室外で、バーのマネージャーが青ざめて呟く。「大丈夫でしょうか? ドアを破った方が…?」
東雲琢磨は彼が逆らえる相手ではない。だが何かあれば、現場責任者としての責任は免れない。
田島が言った。「心配するな。若様は分別のある方だ。大丈夫だ」
そう言いながらも、彼の心には不安がよぎった。普段冷静な東雲を、ここまで狂わせる女とは?
特殊な接待用に作られた個室は防音効果が抜群で、外からは一切物音が聞こえない。
室内で、東雲はなおも篠宮初音の手首を握りしめていた。血走った目に炎のような光が揺らめく。「篠宮初音、お前は自分が何をしているのかわかっているのか? どうしてそんなに堕ちるんだ?」
篠宮初音は理解できなかった。仮面を着けているのに、なぜ東雲が一目で彼女とわかったのか。
今の東雲は燃え盛る炎のようだった。彼女を包み込み、灰にしようと迫る熱気。彼女はその灼熱から逃れたいだけだ。
彼女は勢いよく手を振りほどいた。「東雲さん、私たちにもう何の関係もありません。私のことに口を出さないでください。それに、これを堕落だとは思いません――仕事でお金を稼いでいるだけです」
「稼ぐ?」東雲は天にも届く笑い話を聞いたような顔で、カードを取り出した。「このカードに一千万円ある。今すぐ辞めろ。こんな場所で人前に出るのは許さん」
彼は怒っているのか? 悲しいのか? 腹を立てているのか?
彼女は怒るべきだ。心を痛めるべきだ。恨むべきだ。しかし奇妙なことに、彼女には何も感じなかった。東雲琢磨はもう、彼女を傷つけられない。
篠宮初音は突然仮面を外すと、逆に東雲を壁に押し付けた。鋭い目つきで見据える。
彼女の瞳は元々美しかった。澄み切り、透き通っていた。かつては、彼のためにいつも輝いていた。だが今、そこには彼への感情は何も残っていない。
愛も憎しみもない。ただの見知った他人に過ぎない。
「東雲さん、そんなに怒って…まさか焼きもち? 私のことが好きなんじゃないでしょうね?」
好きだ?
そんなはずがない!
東雲は激怒すべきだった。だが今、彼は動揺していた。まるで心の内を暴かれたようだ。
「篠宮初音、俺様が…お前を好きなわけがない! この先ずっとありえない!」
その言葉に、篠宮初音が明らかに安堵の息をつくのを見た時、彼の心の炎はさらに激しく燃え上がった。
以前は彼女に消えてほしいと願っていたのに、今、彼女が未練なく去ろうとしているのを見て、怒りが抑えきれない。
こんなはずじゃない…
「ならよかった。もし東雲さんが本当に私を好きになったら困りますから。今後、誤解されるようなことはしないでください」
そう言うと、篠宮初音は再び仮面を着け、個室のドアを開けた。
室外で、マネージャーと田島が固まって立っていた。彼女が出てきたのを見て、二人とも呆然とした。篠宮初音が先に口を開いた。「マネージャー、ご迷惑おかけして申し訳ありません。今日のようなことはもう二度とないと思います」
マネージャーは我に返り、彼女を一通り見て無事を確認すると安堵のため息をついた。「ハニー、今日はお疲れでしょう。早く帰って休みなさい」
「ありがとうございます」
田島が遅れて反応し、慌てて個室へ入ると、東雲が壁を拳で叩いているのを目撃した。思わず止めに入る。
「若様、どうなさったんですか? さっきの女性は? ご存知なんですか?」
「…知らん」
彼は田島を押しのけると、個室を出て行った。
知らない?
それでそんなに取り乱す?
騙されるか。
東雲琢磨はかなり酒を飲んでいた。車に乗った時、運転手に屋敷へ戻るよう告げず、篠宮初音のあのボロアパートの住所を伝えた。
だが到着すると、自分の頭がおかしいんじゃないかと思った。
【ならよかった。もし東雲さんが本当に私を好きになったら困りますから】
彼女の言葉が頭から離れず、いっそう苛立ちを募らせた。
好きになるわけがない。この先ずっとありえない!
「出発、帰る」
車は再び動き出し、闇夜の中に消えていった。
—
週末は篠宮初音が自分で決めた休日だ。配信も、バーでの歌もやらない。
通勤用の車を買おうと思っている。高くなく、百万円程度でいい。
ディーラーに入ると、予算を伝えた。販売員がいくつか紹介してくれ、最終的に現代のクスコを選んだ。保険など込みで総額二百万円ほど。
数年前に免許は取ったが、運転する機会はなかった。今は新米ドライバーだ。
慎重にゆっくり走り、少し慣れて感覚を取り戻すと、時速30キロから60キロに上げた。
車は最終的に、東雲家の本邸へと到着した。
彼女の到着を見て、中村執事が笑顔で迎えた。「お若様、お待ちしておりました! ここ数日、ご隠居様がお噂ばかりなさって」
「中村さん、おじい様はどちら? それから、もうお若様とは呼ばないでください。名前で呼んでください」
「それはできません、しきたりは乱せません」中村は恭しく言い直した。「篠宮様、ご隠居様は書斎におります」
「ありがとう、中村さん」
篠宮初音は書斎へ直行し、ドアをノックした。「おじい様、私です」
東雲のご隠居は彼女の声を聞くや、顔をほころばせた。「初音の娘よ、鍵はかかっていない。入っておいで」
彼女が書斎に入るのとほぼ同時に、東雲琢磨も到着していた。彼女が来たこと、それに祖父と話していると聞き、すぐに向かった。
ちょうどドアの前で、東雲ご隠居の声が聞こえた。「初音の娘よ、この名門の若旦那たちの写真を見てごらん。気に入った人はおるか? おじい様がお見合いの相手を紹介してあげる」