東雲たくまは思い出した。以前なら指先を少し擦りむいただけでも、篠宮初音は心配でたまらず、彼の周りを忙しく動き回ったものだった。
彼女は彼の生活を隅々まで整え、快適に過ごさせてくれた。
残業で食事を忘れると、胃を痛めはしないかとすぐに弁当を届けてくれた。
電話一本かければ、何をしていようと全てを置いて駆けつけ、彼の不機嫌を恐れた。
そんなことが、まだまだたくさんあった。
過去には鼻で笑っていたような細やかな思い出が、今は鮮明に脳裏に浮かぶ。
彼はそうした気遣いを蔑ろにしながらも、彼女からの愛を当たり前のように楽しんでいた。
彼の痛みを恐れ、彼の不満を恐れ、底知れぬ包容力で彼を受け入れていた初音が、今では彼を地面に叩きつけ、痛みに背を向け、不満を無視して、ただひたすら車で去って行ったのだ。
東雲は心の一部がえぐり取られたように感じた。
何かをつかみたいが、空しく手を伸ばすだけだった。
気づけば、すべてが彼の手の届かないところにあった。
なぜこうなった? 篠宮初音、お前は俺に夢中で、俺のためなら死んでもいいと言っていたじゃないか──
……
篠宮初音は保険会社に連絡せず、直接ディーラーへ車を持ち込んだ。
購入して半日も経たないうちに大破させるなんて、腹が立たないわけがなかった。
ボンネットは変形し、修理には少なくとも三日を要する。
「篠宮様、修理が完了しましたらご連絡いたします」
「ええ、お願いします」
ディーラーを出た篠宮は路肩でタクシーを待った。
この場所、この時間帯ではなかなか拾えない。
歩いて帰ろうとしたその時、まるで彼女を待っていたかのように一台の空車が止まった。
車に乗り込んだ篠宮は、暗い色のベントレーが音もなく後を追っていることに全く気づかなかった。
車内の男は距離を保つよう運転手に命じ、彼女がマンションの玄関に消えるのを確認してからようやく離れるよう合図した。
家に着いたのは午後一時。
疲れていた篠宮は料理する気も起きず、お茶漬けで軽く済ませた。
絨毯に胡坐をかき、小さなちゃぶ台で麺を啜っていると、携帯がチンと鳴った。
LINEで送金が届いている──東雲たくまからだ。
きっかり十万円。
「修理代だ」
篠宮は眉をひそめた。東雲が一体何を考えているのか理解できなかった。
彼女を心底嫌っているはずなのに、彼女が手を引いたら今度はしつこく絡んでくる。
何を企んでいようと、もう関わりたくはなかった。
篠宮は躊躇なく東雲をブロックした。
一方、東雲はじっとスマホの画面を見つめていた。
十万円の送金通知は、いつまで経っても既読が付かないままだった。
何か言いたいが、ことごとく拒まれ、メンツも立たず、この方法しかなかった。
時間が過ぎても返事はなく、東雲は苛立ちを隠せなかった。
「受け取れ!借りを返すだけだから!」
申し訳ありません。相手にブロックされた。送信できません。
はっ!? 篠宮初音め、俺をブロックだって!? 東雲はソファから跳ね上がり、目を充血させて怒りが爆発しそうだった。
彼女はすべての連絡手段を断った! よくもそんな真似が!
東雲はイライラしながら酒を浴びるように飲んだ。
初音が去って以来、仕事も生活も滅茶苦茶だ。おじいちゃんは従弟の東雲明海に職務を代行させ、彼の日常はめちゃくちゃだった。
アルコールで意識が朦朧とする中、胃が痙攣するように痛んだ。
彼はソファに丸まり、手で胃を押さえ、冷や汗が止まらなかった。
「初音……痛い……すごく痛い……」
しかし、もう彼の痛みを気にかける者などいなかった……
……
夕陽の光が大きな窓から差し込み、リビングをオレンジ色に染めた。
東雲は耳障りな着信音で目を覚ました。
二日酔いで頭はガンガンし、胃はさらにひどく痛かった。
ちゃぶ台のスマホを取ると、受話器を当てるより早く、西野啓太の興奮した声が響いた。
「東雲の若様!香澄さんが帰国なさいました!あと二時間で到着です、迎えに行ってくださいよ!」
「いや、酒飲んでるし体調も悪い。お前が行け」
その淡々とした口調に西野は驚愕した。
東雲が白石香澄をどれほど想っているか、彼以上に知る者はいなかった。
香澄の一声で、東雲は何があろうと飛んでいったものだ。
二日酔いどころか、瀕死の状態でも行ったはずだ。
しかし今、体調不良を理由に迎えを断るなんて?
「若様、香澄さんが帰国して迎えを……聞き間違えましたか?」
東雲は座り直し、左手で脈打つこめかみを揉んだ。
「はっきり聞こえた。用がなければ切る」
西野が言いかけると、電話は早々に切れていた。
西野は呆然としたまま、なかなか現実を受け入れられなかった。
白石香澄は若様の深く愛していた初恋ではなかったのか?
彼女の帰国に、なぜこんなにも冷たい? もう好きじゃないのか? それとも……何かの引き掛けなのか?
きっと引き掛けに違いない!
東雲は呆然とソファに座っていた。
白石香澄のことを思い出すのは久しぶりだった。
どうやら篠宮初音と離婚して以来、思い出すことはなかったらしい。
西野が言わなければ、彼女の存在すら忘れていた。
高校時代から白石香澄に想いを寄せていた。
美しく、優雅で、神聖な存在だった。
長年彼女を追いかけ、篠宮初音と強制的に結婚させられ、香澄が国外に出るまで続いた。
すべてを捨てて彼女を追いかけようと思ったこともあったが、現実には負けた。
今、白石香澄は帰国した。
彼も篠宮初音と離婚し、改めて彼女を追う資格を得た。
狂喜すべきはずなのに、今は喜びのかけらも感じられない。
まるで白石香澄は、彼の心の中でどうでもいい存在になっていた──
東雲は目を強く閉じた。
香澄の顔を必死に思い出そうとしたが、その姿はかすんでぼやけている。
代わりに篠宮初音の姿が鮮明に浮かび上がり、脳裏に焼き付いていた……