一瞬の迷いもなく、本能のままに東雲琢磨は手を引っ込めた。篠宮初音に誤解されたくないとでもいうように。
だが篠宮初音と東雲琢磨の視線が交わったのはほんの一瞬。彼女はすぐに目をそらしたが、動揺も妬みもなく、水面のように静かで、微動だにしなかった。
彼女はただ人を待っていただけだ。まさか東雲琢磨に遭遇するとは……白石かすみまでもがいるなんて。
白石かすみが帰国したなんて、東雲琢磨はさぞかし喜んでいるだろう。
それもいい。むしろ結構なことだ。
元々白石かすみは篠宮初音を挑発するためにわざと東雲琢磨の腕を掴んでいたのに、東雲琢磨は篠宮初音を見るやいなや、まるで誤解されたくないかのように、慌てて関係を否定するかのように手を離してしまった。
白石かすみの顔色がみるみる曇った。特に東雲琢磨が篠宮初音をまっすぐ見つめているのを目にして、さらに表情を硬くした。
彼女は東雲琢磨の注意を引こうとしたが、声を出したその瞬間、東雲琢磨が無意識に篠宮初音の方へ歩き出しているのを目にした。
東雲琢磨自身にも、なぜそんな行動を取ったのかわからなかった。動揺を感じ、無意識のうちに篠宮初音に自分と白石かすみの関係を誤解されたくなかったのだ。
だから彼は歩み寄った。
しかし数歩進んだところで、彼は足を止めた。いつの間にか現れた東雲明海が篠宮初音の前に立ち、親しげに振る舞っているのを目にしたからだ。
東雲明海も東雲琢磨に気づいたが、挨拶はせず、軽く会釈するだけだった。そして篠宮初音と共にレストランへと足を踏み入れた。
東雲琢磨はわかった。今しがた東雲明海が向けた目には、挑発が満ちていたのだ。
なぜ二人は密会し、食事を共にしているのか? いったいどういう関係なんだ? 自分が知らない間に、何が起きていたというのか?
東雲琢磨は考えるほどに腹が立ち、怒りがこみ上げ、世界を滅ぼしたいほどだった。
白石かすみは東雲琢磨のそんな恐ろしい様子を初めて見た。恐怖と同時に不安がよぎった。
なぜなら東雲琢磨が想像以上に篠宮初音を気にかけていると感じたからだ……。
レストランの雰囲気は良く、カップル客が多かった。
東雲琢磨はわざと篠宮初音と東雲明海の席からそう遠くないテーブルに座った。
それまでの冷淡さと距離感を一変させ、白石かすみに対しては細やかな気遣いを見せ、親密に振る舞った。ステーキを切り分け、口元を拭ってやり……。
だが篠宮初音は終始一度も東雲琢磨の方を向かなかった。むしろ東雲明海が全てを観察していた。
彼はこの従兄にこんな幼稚な一面があったとは初めて知った。
だがこんなことをしても、何の効果もない。むしろ相手を遠ざけるだけだと彼は思った。
「お義姉さん、従兄はどうやら望み通りになったようですね。彼がこんなことをしても、恨んでいますか?」
東雲明海は篠宮初音の顔をじっと見つめ、悲しみの一片を探ろうとしたが、見つけることはできなかった。
篠宮初音は突然東雲琢磨の方を向いた。ちょうど彼が親しげに白石かすみの口元を拭っている瞬間だった。
彼女の視線は数秒しか留まらず、すぐに東雲明海へと戻した。「お義姉さんなんて呼ばないで。名前で呼んで」
東雲明海は願ったり叶ったりだった。「わかった、初音さん」
「誰かを愛するのも、恨むのも疲れるの。私は彼を恨んではいないし、もう愛してもいない……」
彼に非はなかった。ただ彼女を愛していなかっただけなのだ……。
東雲明海にはわかった。篠宮初音は本当に東雲琢磨への愛を諦めたのだ。
彼は長年待ち続けて、ついに彼女の諦めを迎えた。
しかしなぜか、彼は喜べなかった。彼女の一見平静な言葉の中に絶望を感じ取ったからだ。
彼女は確かに東雲琢磨への想いを断ち切ったが、同時に心も死んでしまったのだ。
おそらく二度と愛することはないだろう……。
東雲明海はどれほどの力を振り絞って、篠宮初音に告白しないよう自分を抑えていたか。
もし告白したら、彼女は二度と会ってくれず、こうして穏やかに食事を共にする機すら失われるとわかっていた。
「その話は置いておいて、明海くん。祖父が私に渡す大事なものがあるって言ってたよね?」
今日篠宮初音が東雲明海に会いに来たのは、祖父から託された大切なものを手渡すためだと電話で言われたからだった。
少し離れた席の東雲琢磨は耳を澄まして篠宮初音と東雲明海の会話を聞こうとしたが、全く聞き取れなかった。
先ほど篠宮初音がこちらを見た時、彼の心臓は喉元まで跳ね上がった。必死に白石かすみとの親密さをアピールしたが、篠宮初音は全く気に留めていない様子で、東雲明海と笑いながら話し続けていた。
これは東雲琢磨を不快にさせた。まるで噴火寸前の火山のように、全身が炎に包まれた感覚だった。
東雲明海は鞄から書類を取り出し、篠宮初音の前に置いた。
「これが祖父がお渡しするようにとおっしゃっていたものです」
それは株式譲渡契約書だった。東雲ホールディングスの5%の株式が記載されている。
この5%の配当だけで、年間数千万円にのぼる。
普通の人なら飛び上がって喜ぶだろうが、篠宮初音は拒否した。
祖父が罪悪感から、償いとしてこれを渡そうとしていると彼女は理解していた。
だが東雲琢磨との失敗した結婚は祖父のせいではない。
篠宮初音の拒絶は東雲明海を驚かせなかった。むしろ予想通りだった。
彼が愛する初音はそういう人間だ。決して欲深くなく、心を東雲琢磨に全て捧げていた。
だが東雲琢磨はその価値を全く理解せず、今では二人は離婚してしまった。それが彼の抑えきれなかった感情を再び蠢かせた。
東雲琢磨が大切にしないのなら、彼が大切にする番だ。
彼の初音は最高のものに値する。いつか必ず東雲ホールディングス全体を捧げて、彼女にプロポーズしてみせる。
「承知しました。祖父には私から説明しておきます」
東雲明海が株式譲渡契約書をしまったのを見て、篠宮初音はほっと一息ついた。
「ごめんなさい、ちょっとトイレに」
篠宮初音が席を立つと、東雲琢磨も立ち上がった。「かすみ、悪い。トイレに行ってくる」
誰の目にも明らかだった。東雲琢磨は篠宮初音を追いかけるつもりだ。
彼が去った後、白石かすみは堪えきれず、怨恨の表情を浮かべ、手にしたフォークでステーキをメチャクチャに突き刺した。
最初、東雲琢磨が親密に振る舞ってくれた時、彼女は喜び、得意になっていた。東雲琢磨が自分だけを好きだと信じ込んでいた。しかしすぐに気づいた。東雲琢磨の親密な態度は全て篠宮初音に見せるための演技だったのだ。
たった三年で、なぜ全てが変わってしまったのか?
もし東雲琢磨と結ばれなければ、今までの贅沢な生活はどうなるというのか?
白石家はすでに風前の灯で、いつ倒産してもおかしくないのだ。
だから東雲琢磨は絶対に自分のものにしなければならない!
篠宮初音がトイレから出てきた時、東雲琢磨にドアの前で遮られた。
彼女は東雲琢磨に会いたくなかったのに、彼は何度も目の前に現れる。
わざとであれ偶然であれ、とにかく彼女は心底うんざりしていた!
「東雲さん、どいてください」
東雲琢磨は退くどころか、篠宮初音を壁に押し付けた。「篠宮初音、そんなに寂しがりやか? 俺と別れたらすぐに東雲明海とくっつくのか? あの軟弱者に満足できるのか?」