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第9話

ほとんど本能で、東雲たくまは腕をひっこめた。


篠宮初音に誤解されるのが怖かった。


しかし、初音の視線は彼と一瞬触れ合っただけで、何事もなかったかのように静かにそらされた。


動揺も嫉妬もなく、静かな湖のように、微塵の揺らぎも見せなかった。


彼女は人待ちをしていただけだった。東雲たくまに…そして白石香澄に遭遇するとは。


香澄が帰国した。


たくまはきっと喜んでいるだろう。


それもいい。


香澄は隙を見て初音を挑発するつもりだった。


しかし、たくまが初音を見るや否や、彼女の手を振りほどいた。


その慌てて距離を取ろうとするような態度に、香澄の顔色は一瞬で青ざめた。


それ以上に、たくまの視線が初音から離れないのを見て、彼女の心には嫉妬の炎が燃え上がった。


たくまの注意を自分に引き戻そうと口を開いたが、そのとき、彼が無意識に初音の方へ一歩踏み出そうとしているのに気づいた。


たくま自身もなぜそんなことをしたのか分からなかった。


ただ、胸騒ぎがして、初音に自分と香澄の関係を誤解されることだけは、断じて避けたいと思った。


だから、彼は歩き出した。


しかし、数歩進んだところで、彼は突然足を止めた。


東雲明海がどこからともなく現れ、初音の前に立っているのを見たのだ。


二人の様子はとてもイチャイチャのように見えた。


明海もたくまの姿に気づいたが、声をかけようとはせず、わずかに会釈するだけだった。


そして初音と共にレストランへと入っていく。


たくまにははっきりと見えた。明海のその一瞥は、露骨な挑発に満ちていた。


なぜ二人が密かに会う? 一緒に食事? 二人は一体どんな関係なんだ? 彼の知らない間に、何があったというのか?


たくまは考えるほどに腹が立った。


怒りで理性を失いそうになり、全世界をひっくり返したくなった。


香澄はたくまがこんな恐ろしい顔を見せるのは初めてだった。


怖さと同時に、強い不安を覚えた。


たくまの初音に対する想いは、彼女が想像していたよりずっと深い…と、はっきり感じ取った。


「クラウドナイン」の店内は上品な雰囲気で、カップルが多かった。


たくまはわざと初音と明海の席からそう遠くない場所に席を取った。


それまでの距離感を消し、香澄に対して異常なほどに気を配り、親密に振る舞った。


彼女のために丁寧にステーキを切り分け、ハンカチでそっと口元を拭ってやった…


しかし、初音は最初から最後まで、彼らの方を見ること一回さえなかった。


逆に明海は、従兄のこの幼稚園児のような芝居をすべて見逃さなかった。


彼は心の中で嘲笑した。この下手な演技は何の効果もなく、むしろ初音をさらに遠ざけるだけだと。


「初音さん」、明海は慎重に口を開き、彼女の表情を細かく観察して、悲しみの痕跡を探ろうとしたが見当たらなかった。


「どうやら従兄は望み通りになったようですね。彼、あんな風にあなたを…恨んでいますか?」


初音は突然、たくまの方を向いた。ちょうど彼が香澄の口元を拭う親密な瞬間が目に入った。


彼女の視線は三秒ほど留まっただけで、静かに明海の方へ戻った。「初音、でいいよ」


「わかった、初音」明海は素直に従った。


「誰かを愛するのも疲れる、恨むのも疲れる。彼のことは恨んでいないし…もう愛してもいない」


彼は悪くない。


ただ、彼女を愛していなかっただけだ。


明海には分かった。


初音は本当に、もうたくまを愛していないのだ。


彼は長年待ち続けた。


ようやく彼女の心が死んだ瞬間を迎えた。


しかし、彼は喜べなかった。


なぜなら、彼女の一見平静な言葉の奥には、骨の髄まで染みついたような絶望が漂っていたからだ。


彼女はたくまに諦めた。同時に、愛そのものにも諦めたのだ。


おそらく…もう二度と誰かを愛することはないだろう。


彼が自制心を働かせて、彼女に告白したい衝動を抑えた。


言ってしまえば、初音は完全に彼から離れてしまい、今こうして静かに食事を共にする機会すら二度と訪れないことを、彼はよく理解していた。


「その話はやめよう」初音は話題を変えた。


「明海、お祖父様が、大事なものを渡してほしいって言ってたよね?」


彼女が今日会うことを承諾したのは、まさに明海から電話で「お祖父様が大事なものを託した」と言われたからだった。


離れた席にいたたくまは耳をそばだてたが、二人の会話は全く聞き取れなかった。


さっき初音がこっちを見た時、彼の心臓は喉まで飛び出しそうだった。


必死に香澄と親密に振る舞ったが、初音はまるで気にも留めず、相変わらず明海と話し合っていた。


それが彼を極度に不快にさせた。


まるで噴火寸前の火山のように、全身に発散できない怒りが満ちていた。


明海は鞄から書類を取り出し、初音の前に差し出した。


「これです」


それは株式贈与契約書だった――東雲財閥の2%の株式である。


この2%の株式だけで、年間数億円の収入が手に入られる。


普通の人なら狂喜乱舞したかもしれない。


しかし、初音は首を振り、書類を押し戻した。


お祖父様が罪悪感から彼女に償おうとしていることは分かっていた。


しかし、彼女とたくまの失敗した結婚は、お祖父様のせいではなかった。


初音の拒絶は明海を驚かせなかった。むしろ予想通りだった。


彼が愛する初音はこういう人間だ。


決して虚栄に目がくらまず、かつては心のすべてをたくまに捧げていた。


しかし、たくまがそれを全く大切にしなかったことだ。


今や二人は離婚した。彼が長年抑えてきた想いは、もはや堪えきれなかった。


たくまがその価値を知らないなら、彼が大切にする番だ。


彼は初音に最高の宝捧げたい。いつか必ず、東雲財閥そのものを彼女に捧げ、プロポーズするつもりだ。


「わかった。お祖父様には私が説明しておくよ」明海は契約書をしまった。


初音はほっとした。


「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」彼女は席を立った。


初音が立ち上がるのを見て、たくまもすぐに立ち上がった。


「香澄、ちょっと失礼。トイレに行ってくる」


誰が見ても、彼が初音を追っているのは明らかだった。


たくまの姿が見えなくなると同時に、香澄の顔から笑みが消えた。


一瞬にして恨みに満ちた表情に変わった。


手にした銀のフォークが皿のステーキを容赦なく刺し、粉々にしそうなほどの力で突き立てた。


最初、たくまが親密に振る舞ってくれた時、彼女は有頂天になり、やはり彼の愛は自分だけのものと思った。


しかし、すぐに気づいた。


彼の親密な動作のすべてが、ただ初音に見せるための芝居だったのだと!


なぜたった三年で、すべてが変わってしまったのか?


もしたくまを掴めなければ、彼女の贅沢な生活はどうなるというのか?


白石家はすでに傾きかけ、破産寸前だった。


だから、東雲たくまは絶対に彼女のものでなければならない!


初音がトイレから出てくると、案の定、たくまに出口で待ち伏せされた。


彼には会いたくなかったのに、彼はいつも憑依霊のように現れ、何度も彼女の前に姿を現す。


わざとか偶然なのかにかかわらず、彼女はうんざりだった。


「東雲様、どいてください」


たくまはどくどころか、むしろ一歩前に詰め、彼女を壁際に追い詰めた。


大きな体は強い威圧感を放っていた。


「篠宮初音、そんなに寂しがり屋か? 俺と別れたばかりなのに、もう東雲明海と付き合い始めた?彼みたいな弱々しい奴で、お前を満足させられると思ってるのか?」

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