篠宮初音が本当に警察を呼ぶはずがない――東雲たくまはそう信じて疑わなかった。
彼女が自分に対してそんなことをするわけがない。
しかし、現実は彼を容赦なく妄想から目覚めさせた。
立ち去ろうとしないたくまに対し、初音は迷いなく警察に連絡した。
「初音! そんなことするな! 俺は諦めない! お前に掛けた傷は、倍にして償う! 信じてくれ、頼むから信じてくれ……!」たくまの声には焦りがにじんでいた。
初音は冷たい目で、警察に連行されるたくまを見送っていた。
彼の姿が視界から完全に消え、声も聞こえなくなって、ようやく初音は振り返り、家の中へ戻った。
室内はカーテンが閉ざされ、薄暗い。
照明もつけず、初音は古びたソファに腰を下ろすと、疲れたようにこめかみを揉んだ。
彼女は、たくまが自分を愛してくれることなど、決して望んでいなかった。
ただ、ほんの少しでもいいから、そんなに冷たくなければそれでよかった。
なのに今になって、自分に心が動いたかもしれないとか、償いたいとか、やり直したいとか?
まったくもって馬鹿げている。
ひと月ほど前にこの言葉を聞いていたら、飛び上がるほど喜んだかもしれない。
だが今は、もう必要ない。
彼の愛も、優しさも、もういらない。
ただ、二度と現れないでほしい。
顔見知りの他人でいてくれればそれでいい。
たくまはいつまたやってくるかもしれない。
ここにはもう住めない。
早急に警備のしっかりしたマンションに引っ越さなければ。
初音はノートパソコンを開き、ネットで適当な物件を探し始めた。
一方、警察署に連れて行かれたたくまは、結局、駆けつけた西野啓太が身元を引き受けてくれた。
啓太はたくまの顔の傷を見て、喧嘩でもしたのかと思った。
だが、東雲たくまに手を出す者などいるのか? それもこんなに手ひどく?
車に乗り込むと、啓太は思わず尋ねた。
「たくま様、その傷、どなたが? 結構な傷です。病院に直行しましょうか?」
「いい。お祖父様のところへ連れて行ってくれ。」たくまの口調は断固としていた。
初音を取り戻すには、お祖父様の力が必要だと、いろいろ考えた末の結論だった。
啓太は察しがいい男だ。
たくまが多くを語らないなら、それ以上は詮索しない。
車は東雲家本邸へと一直線に向かった。
「中村、お祖父様はどこだ? お目にかかりたい」たくまは玄関に入るなり尋ねた。
「若様、宗一郎様はお会いになりたくないと。どうぞお引き取りくださいませ。」
中村は恭しくも、距離を置いた口調で答えた。
前回、たくまが来て以来、宗一郎は再び来たら断るようにと命じていた。
ろくでなしの孫など、まともに相手にする気など毛頭なかったのだ。
たくまは決意を固めている。
「中村、お祖父様にそう伝えてくれ。今日どうしてもお目にかからせてほしいと。お会いくださらなければ、ここから動かぬ」。
宗一郎は中村からの伝言を聞くと、杖を床に強く叩きつけ、怒りを爆発させた。
「あの小僧に言え! 帰らぬなら、外に立っておれ! 東雲の土地を汚すな!」
たくまも負けず劣らずの頑固者である。
その言葉を聞くと、即座に背を向けて門を出ると、庭に立った。
早朝の日差しはまだ強烈とは言えなかったが、それでも肌をじりじりと焼くようだった。
もともと傷を負い、しかも徹夜で体力も限界に近づいていたたくまの身体は、ふらついていた。
二時間ほど立った頃、目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちた。
宗一郎は口では厳しく言っても、やはり自分の実の孫である。
ほったらかしにできるわけがない。
彼はすぐに人を呼んでたくまを屋内に運ばせ、かかりつけの医者を呼び寄せた。
たくまが目を覚ました時、彼は客室のベッドの上にいた。
傷は手当てされ、左手には点滴の針が刺さっていた。
彼は迷いなく針を抜き、起き上がろうとした。
その時、扉が開き、宗一郎が杖をついて入ってきた。
「寝てろと言われているのに、何をするつもりだ?」宗一郎の口調は厳しい。
たくまの顔に喜びが浮かんだ。
「お祖父様! お会いくださったのですね!」
宗一郎は紫檀の肘掛け椅子に座り、威厳を崩さずに言った。
「用があるなら言え。東雲財閥に戻りたいなら、早々に諦めろ! 言っておくが、こちらの腹の虫はまだ収まっておらんぞ!」
その言い草から、お祖父様がまだ東雲明海に完全に自分の立場を取って代わらせる気はないらしいと悟り、たくまは内心ほっとした。
宗一郎にしても、すぐに交代させるつもりはなかった。
たくまがどんなにろくでなしでも、その能力は紛れもない事実であり、東雲財閥は彼の手によってこの数年大きく発展していた。だが、折檻は絶対に必要だ!
「お祖父様、その話じゃありません」。
たくまは切迫した口調で言った。
「お願いがあります。初音を取り戻す手助けをしていただきたいのです」
その言葉は明らかに宗一郎の予想外だった。
「お前は初音ちゃんをずっと嫌いだ思っていたではないか? 今さら相手が心を閉ざして離れたと言うのに、好きだだと? ふん!」
宗一郎の口調は皮肉に満ちていた。
白石香澄の帰国や、二人がレストランで親しげにしていたことも、彼は知っていたのだ。
「お祖父様、僕は……本当に初音のことが好きなのかもしれません。誓います! 二度と愚かなことはしません!彼女を大切にします、絶対に!」
たくまの表情は切実で、これ以上ないほど真剣に見えた。
しかし、宗一郎は冷たかった。
彼はすでに一度、篠宮初音を不幸に陥れた。
火の海だと知りながら、再び彼女を突き落とすことなどできようか?
杖を強く床に叩きつけると、宗一郎は侮蔑と皮肉をたたえた表情で言い放った。
「お前は己の本心さえ見極められんのに、どうして手助けなどできようか! 仮に本心だとしても、助けはせん!『三つ子の魂百まで』という言葉を知っておるか? これ以上、篠宮の娘を泣かせるのはよせ! お前は白石の娘が好きだったはずだ? 彼女が帰ってきたと聞いたぞ? 彼女を泣かせに行くがよかろう!」
それは非常に無慈悲な言葉だった。たくまの顔色は一瞬にして真っ白に変わった。
「お祖父様! 白石香澄のことは好きじゃありません! 好きなのは初音です! どうか信じてください!」
この時ばかりは、彼の眼差しには揺るぎない決意が宿っていた。
宗一郎はそれを聞くと、目にかすかな複雑な色を浮かべると、すぐさま杖を振りかぶり、たくまの体に強く叩きつけた。
「本心かどうかなど知ったことか! それでも初音ちゃんには不公平だ!与えた傷は、お前の『ごめん』一言で消えるものではない! 本当に申し訳ないと思うなら、本当に償いたいなら、彼女から遠く離れろ! 篠宮の娘がこれから誰と一緒になろうとも構わん、だが、その相手がお前であることは、絶対にあってはならん!」
宗一郎は篠宮初音をよく知っていた。
たくまに心を深く傷つけられなければ、彼女は決して去らなかった。
そして、一度去ることを選んだ彼女が、再び振り返ることは決してないだろう……
たくまは、自分がどうやって東雲家本邸を出たのか覚えていなかった。
魂を抜かれたような放心状態で、ぼんやりとした意識の中をただよっていた。
突然、空から激しい雨が降り出した。
たくまは避けようともせず、冷たい雨滴が全身を打ちつけるに任せた。
視界は雨に霞んでいく。
離婚した日のことをふと思い出した。
あの日も、こんな土砂降りだった。
彼は冷笑を浮かべ、彼女のキャリーバッグを外に放り出すよう命じ、薄っぺらいその背中が、雨の中でスーツケースを引きずりながら、少しずつ見えなくなっていくのを、嘲りと侮蔑の眼差しで見ていた……
自分は全くの、どうしようもない大バカ者だ。
たくまの眼前が真っ暗になり、激しく降りしきる雨の中に、そのままドサリと倒れ込んだ。