昼間の「ミスティアバー」は営業しているものの、客足はまばらで、ちらほらと客がいる程度だった。
人通りが少ない昼間に、篠宮初音(しのみやはつね)はバー近くの駐車場に車を停めた。
彼女はトレードマークの仮面をつけたままバーに入り、直接マネージャーを見つけた。
「マネージャー、申し訳ありませんが、辞めさせてください」
マネージャーはとっくに、篠宮初音が長居しないだろうと予想していた。何せ彼女の実力は桁外れで、いずれより大きな舞台に立つのは確実だったからだ。だが、こんなに早く去られるとは──たった半月しか経っていない!
期間は短いながらも、彼女はバーに莫大な利益をもたらしていた。そんな金のなる木を、簡単に手放すつもりはなかった。
「親愛(しんあい)さん、給料の問題なら私が──」
「マネージャー、給料の問題ではありません」篠宮初音はマネージャーの言葉を遮った。辞める最大の理由は、東雲琢磨(しののめたくま)から距離を置きたいからだ。ここ数日彼は姿を見せていないが、不安は消えない。いずれ去るなら、早く身を引くに越したことはない。
「本当に申し訳ありません」
「でも親愛さん、君が歌い始めてまだ半月だ。こんなに短い期間で辞められたら、こっちは困るよ。少なくとも代わりの人を見つける時間をくれないか? 月末まで歌ってもらえないだろうか?」
マネージャーは篠宮初音の決意を見て取っていたが、即座に解放するわけにもいかない。まずは時間を稼ぎ、後でまた考えよう。
篠宮初音は少し考え、うなずいた。どうせ月末まであと半月しかない。
彼女はバーを後にし、駐車場へ向かった。
キーでドアを開けようとした瞬間、背後から心地よい女性の声が響いた。
「親愛さん、こんにちは。お話ししたいことがあるのですが、お時間いただけますか?」
喫茶店は空いていた。窓際の席に座った篠宮初音とその女性は、二人ともブラックコーヒーを注文した。
女性はサングラスを外すと、精緻な容貌を現した。
優雅な雰囲気、品のある仕草、完璧なメイク。四十歳前後と思われるが、成熟した女性の魅力を放っている。
「親愛さん、初めまして。松本玲子(まつもとれいこ)と申します。こちらが私の名刺です」
松本玲子が両手で差し出した名刺を、篠宮初音も両手で受け取った。
名刺には「愛音プロダクション」の文字がゴールドで刻まれている。松本はトップクラスのマネージャーで、彼女が手がけたタレントは皆、トップスターになっていた。
「親愛さん、その仮面を外して、お顔を見せていただけませんか?」
松本は篠宮初音のルックスと歌声に満足しており、この神秘的な歌姫が千万のフォロワーを持つフィットネス配信者だと知っていた。
仮面の下には、神秘と吸引力が共存する魅力がある。
デビューすれば、間違いなくブレイクするだろう。
「申し訳ありませんが、松本さん、それはできません」
篠宮初音にとって松本は見知らぬ他人だ。簡単に素顔を明かすわけにはいかない。
松本は予想通りで、がっかりはしなかった。
「では、親愛さん。弊社と契約して、所属タレントになられる気はありませんか?」
「恐れ入りますが、興味はありません」篠宮初音は迷いなく断った。
芸能界は染まりやすいと言われる。彼女はそこに足を踏み入れたくなかった。
「それは残念です。でも気が変わったらいつでも連絡してください」
この出来事は篠宮初音の心に留まらなかったが、松本玲子から受け取った名刺は大事にしまった。
将来使うかどうかは別として、人の名刺をすぐ捨てるのは失礼にあたるからだ。
午後、不動産屋から電話があった。彼女の条件に合う物件を見つけたので、内見の都合を聞いてほしいという。
篠宮初音は特に用事がなかったため、すぐに向かった。
2LDK、バルコニー付き、総面積80平方メートル。広くはないが、一人暮らしには十分すぎる広さだ。
「篠宮さん、この物件のオーナーは海外に行かれることになり、空き家になるので賃貸に出されるんです。家具付きでカバン一つで入居可。それに家賃が安くて、月たったの5万円です」
このエリアでは確かに破格の値段で、むしろ安すぎるほどだった。
家具も新しく、ほとんど使われていないように見える。
「篠宮さん、正直言って、この条件でこの価格はもう二度とありませんよ」
「そんなに良い物件なのに、なぜ私に安く貸してくれるんですか?」
篠宮初音は鋭く、すぐに不自然さを察知した。
これほど良い物件が、こんな低家賃で借り手がいないはずがない。
不動産屋は彼女に借りてほしいように必死に見えた…。
「だって、篠宮さんが美人だから」
「……」
「冗談ですよ」不動産屋は笑った。「実はオーナーから『家賃はいくらでも構わないから、家を大切にしてくれる人を探してほしい』と何度も頼まれているんです。篠宮さんならきっと丁寧に暮らされると思い、お貸ししたいと思いました」
二十代前半のその不動産屋は元気がよく、口も達者だった。
篠宮初音は次第に説得されていった。
確かにこの部屋は気に入った。閑静な住宅街で設備も整い、何より防犯性が高い。
急いで引っ越す身としては、これ以上の物件はそう簡単に見つからない。
「篠宮さん、特に問題がなければ、今すぐ契約できます」
不動産屋は事前に用意していた契約書を取り出した。彼女が署名すると、ほっとしたように息をついた。
あの方は再三、必ずこの女性に部屋を貸すように言っていた。
もし失敗したら、大変なことになるのは目に見えている。
ありったけの説得を駆使して、ようやく承諾を得られた。
「篠宮さん、こちらが鍵です。指紋とパスコードの設定はご自身で可能ですか? 手伝いましょうか?」
「大丈夫、自分でやります」
ドアロックは鍵・指紋・パスコードの3段階認証で、防犯性は極めて高い。
篠宮初音が玄関を出た途端、九条天闊(くじょうあまひろ)と鉢合わせてしまい、思わず固まった。
黒川(くろかわ)も驚いた様子で口を開いた。
「篠宮さん、どうしてここに?」
「今、ここの部屋を借りたところです」
「それはなんと、僕たちご近所さんになりますね。僕は向かいの部屋です。ご縁ですねぇ。これからお互い様かもしれませんよ」
事情を知る不動産屋の青年は心の中で九条社長を称賛した:演技がうますぎる!
全て自分で仕組んだくせに、驚いたふりをしている。
はああ…。
いわゆる「ご縁」とは、前々から仕組まれていたものだったのだ。