白石香澄(しらいし かすみ)の悲鳴がぷつりと途切れた。
自らの失態に気づくと、無理に笑みを浮かべた。
「たくま、ごめんなさいね。驚かせちゃったわ。私…ただ、びっくりしちゃって」
今日の香澄は濃いメイクではなく薄化粧、服装も前回の派手なものから一転、爽やかなスタイルで、わざとピュアでおとなしい振りをした。
何日も東雲たくまに会おうとしていたが、彼は「忙しい」を理由に断り続け、香澄の危機感は急激に高まっていた。
白石家からもプレッシャーが強まり、香澄に東雲たくまを確実に掴み、白石家への出資を取り付けて窮地を脱するよう、急かされていた。
前回の服装があまりに派手すぎたのではないかと彼女は反省した。
何しろ、東雲たくまは昔から彼女のこうした爽やかな姿が好きだったのだ。
すべて偽りであり、彼女の本性は決してピュアなどではないが、目的のためなら演じ続けることも厭わない。
「たくま様、白石様、どうぞごゆっくり」
執事の黒田(くろだ)が恭しく頭を下げて部屋を出ると、ドアを閉めた。
(白石様がいらしたのだから、たくま様もおとなしくなられるだろう)
「どうした?」
東雲たくまの声は淡々としていた。
昔を思わせる香澄の姿には、かつての熱はその瞳にはもうなかった。
全てが変わってしまったのだ。
香澄は素早く表情を整え、そのピュアさを必死に見せようとした。
「たくま、風邪ひいたって聞いて…お見舞いに来たの。具合はどう?」
適度な心配りを込めた口調だ。
「大丈夫だ。見たんだから、もう帰れ。移すかも。」
東雲たくまの口調はよそよそしい。
香澄の顔が一瞬で青ざめた。
こんなにも冷淡に、来たばかりで早々に帰れと言われるとは思っていなかった。
彼女はそんなに嫌われているのか?
簡単に諦めるわけにはいかない。
すぐにまた態勢を立て直し、目をうっすら赤くして、泣きそうになりながらも必死に堪える、可憐で痛々しい姿を見せた。
「たくま…私、何か悪いことした? そんなに冷たいなんて」
東雲たくまの心が少し揺れた。
かつて好きだった女の子だ。
今は感情が冷めているとはいえ、ここまで冷たくあたるべきではない。
彼女自身には何も悪くないのだと、態度を少し和らげた。
「香澄さん、考えすぎだよ。君に冷たくしてるわけじゃない。本当に風邪を移したくないんだ」
香澄はここでその言葉に乗ることを選んだ。
「わかったわ。じゃあ、ゆっくり休んでね。また今度、様子を見に来る」
彼女は背を向けて去っていった。
ドアが閉まる瞬間、彼女の顔からは弱々しくピュアな仮面が剥がれ落ち、鋭く陰険な眼差しに変わった。
まるで子ウサギの仮面を脱いだ猛獣のようだった。
東雲邸を出ると、香澄はすぐに篠宮初音(しのみやはつね)に電話をかけた。
東雲たくまから電話がかかってきたことに初音が少し驚いたとすれば、白石香澄からの電話にはただただ困惑した。
香澄が何の用で自分を呼ぶのか、全く見当がつかなかったのだ。
東雲明海との昼食後、初音は約束通りカフェへ向かった。
香澄は既に先に着いていた。
香澄は確信していた。
東雲たくまを落とす鍵は篠宮初音にあるということを。
今回帰国して、東雲たくまがなんと初音に好意を抱いていることに気づいたのだ。
二人は離婚しているとはいえ、復縁の可能性は否定できない。
篠宮初音が東雲たくまとの可能性を完全に断ち切ってくれることこそが、彼女が再び東雲たくまの心を掴む自信につながるのだ。
初音が席に着くなり、香澄は爆弾宣言をした。
「私、たくまと一緒になったの。それに…お腹に子供がいるのよ」
香澄は初音をじっと見据え、相手の顔を一瞬よぎった苦痛の表情を捉え、心の中に歪んだ快感が湧き上がるのを感じた。
かつて、篠宮初音は彼女から「ミスキャンパス」の座を奪い、A大学でも彼女より常に人気が上だった。
白石香澄はそのことにずっと怨みを抱いていた。
初音が東雲たくまを好きだと知ると、彼女はわざとたくまに近づき、優しい仮面で彼の心を虜にした。
彼の想いに気づかないふりをし、距離を置いては近づくことで、彼をもっと深く陥れた。
篠宮初音が東雲たくまのために苦しむ姿を見る度に、彼女は言いようのない爽快感を覚えた。
ついに自分が篠宮初音を完全に圧倒できることが一つできたのだ。
その後、篠宮初音が東雲たくまと結婚したところで、どうだというのか?
彼女は初音の不幸を知っていた。
とても不幸で、最後は傷だらけで離婚に終わったのだ。
篠宮初音が苦しむ姿を見るだけで、彼女は嬉しかった。
今の初音は確かに苦しんでいた。
しかし、その苦しみは香澄の妊娠から来るものではなかった。
香澄の言葉が鍵となり、記憶の門を一瞬で開けたからだ――東雲たくまの手によってその命を絶たれた、あの子供の記憶が。
初音の顔は青ざめ、両手を強く握りしめ、身体が微かに震えた。
しかし、彼女はすぐに自分を落ち着かせた。
香澄の挑発の意図は明らかだった。
初音はもう東雲たくまのことは気にかけていなかったが、白石香澄にこれ以上自分を見下されることは絶対に許せなかった。
「おめでとう。確かにお似合いね、クズ男とクズ女、運命のカップルだよ」初音は冷たく言い放った。
「クズ女!?よくもそんなこと言えたわね!」
香澄の顔が一瞬で歪み、ウェイターが運んできたばかりの熱いコーヒーを掴むと、初音の顔目がけて勢いよく浴びせかけようとした!
初音の反応は素早かった。
素早く身をかわすと、次の瞬間、ためらうことなく自分の目の前にある同じく熱いコーヒーを手に取り、香澄の顔に向かって正確に浴びせかけた!
「きゃあっ―――!」
香澄は避けきれず、熱いコーヒーを顔いっぱいに浴びた。
激しい灼熱感が走り、彼女は悲鳴を上げた。
その声はカフェ全体の視線を一瞬にして集めた。
初音はバッグを手に取り、惨めな姿で悲鳴をあげる香澄を上から見下ろすと、冷たい声で言った。
「白石香澄、覚えておきなさい。次にこんなことをしたら、コーヒー一杯で済む話じゃないから」
そう言い終えると、香澄の悲鳴と周囲の呆然とした視線の中、初音は振り返りもせずにカフェを後にするのだった。
かつて東雲たくまのため、彼女は白石香澄に対してあらゆることを我慢してきた。
しかし今や、東雲たくますらも許してはいないのに、ましてや白石香澄など許せるはずがないのか!?
篠宮初音は完全に悟った。
いじめられないためには、自分が強くならなければならない。
差し迫って必要なのは、身を守る術を身につけることだ。
彼女は以前、少しだけ護身術を習ったことがあるが、短い時間で、レベルも高くなかった。
初音は行動派だった。
その日の午後、彼女は専門の空手道場を見つけ、マンツーマンのプライベートレッスンを申し込んだ。
1レッスン10,000円、2コマでマンツーマン指導。
少し高い気もしたが、コストパフォーマンスは悪くなかった。
彼女は100レッスンを一括で申し込み、100万円を支払い、その日の午後に体験レッスンを1回受けた。
トレーニングを終え、エレベーターを降りた時、彼女は九条天闊が車椅子に座り、ちょうど自分の部屋の向かいのドア前で止まっているのを見かけた。
九条天闊は向かいの部屋に住んでいた。
初音は彼がなぜ中に入らないのか少し不思議に思った。
「九条先輩、どうして中に?」彼女は何気なく尋ねた。
運動後のほてった頬をした初音を見て、九条天闊はかすかに喉仏を動かした。
「ああ、暗証番号を何度か間違えちゃって、ロックがかかっちゃってね。管理会社が来るのを待ってるんだ」
「そうなんですね。じゃあ、私は先に失礼します。何かあったら声をかけてください」初音はうなずいた。
「ああ」天闊が応じた。
初音が部屋に入り、ドアが閉まるのを待つと、九条天闊は手を伸ばし、手慣れた様子で暗証番号を入力した。
「カチッ」と軽い音と共にドアが開いた。
彼は車椅子を押し、音もなく室内へと滑り込んでいった。