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第22話

九条天闊は、篠宮初音を抱きしめる光景を、頭の中で何度も想像してきた。

今、彼女からのほのかな香りを感じ取っている。


腕を伸ばせば、そっと彼女を抱き締めることもできたはずだ。


しかし、彼の指は車椅子のアームサポートをぎゅっと掴み、手の甲に青筋が浮かび、全力でコントロールしていた。

(だめだ。まだ早い。彼女を驚かせて、遠ざけてしまう。)


鼻に届いた杉の香りで我に返った篠宮初音は、はっと身を起こし、詫びるように言った。


「ごめんなさい、九条先輩。気づかなくて。足…大丈夫ですか?」

九条先輩の怪我の程度はわからない。今の衝撃で深刻化したり、感覚さえ失ったのではないかどうかも。


一瞬、硬直したように見えるその足元を見たが、すぐに目をそらした——じっと見つめるのは失礼

だろうと。

九条天闊は指をわずかに動かし、低く少し嗄れた声で答えた。


「平気だ」

短い沈黙が空気を重くした。


結局、先に沈黙を破ったのは篠宮だった。


「九条先輩、あの前漢時代の硯(すずり)はどこにありますか?」


九条は一番上の棚から箱を取り出した。


中には彼女が探していた硯があった。

篠宮の顔に喜びが浮かんだ。


「ありがとうございます!お値段は?お振込みします」

「40万円だ。」


九条は4万円と言おうとしたが、あまりにも意図がバレやすいと思って、結局ゼロを一つ足した。


この値段は半ばおまけに近い。

篠宮は深く考えず、すんなり受け入れた。


この義理は覚えておこう。


後で返す機会を探せばいい。


「お振込みですか?それとも現金?」

「LINEでいい」九条はQRコードを読ませず、まず友達追加するよう示した。こうして篠宮初音は、彼の仕事用アカウントのLINE友達となった。『スイートハートガーディアン』という名のプライベートアカウントには、今も彼女一人だけ。


彼女だけが唯一の友達だった。

再び礼を言った篠宮は言った。


「今度ぜひ、ご飯をご馳走させてください」

「今日はどうだろう?」九条が提案した。


外食はあまり好まず、普段は自炊か、家政婦さんに食材を用意してもらっていた。


今、冷蔵庫には十分な食材が入っている。

エプロンを付けてキッチンで立ち働く篠宮の姿を見て、九条の口元も目尻も笑みで緩んでいた。


この光景は夢に何度も現れた。


食事を作ってほしいと頼んだ時、彼は緊張で息を止めそうだった。


案の定、彼女は驚いた。


しかし、しばし黙った後、うなずいた。


その瞬間、押し寄せる狂喜を抑えるのに全身の力を要した。


このまま永遠に続けばいいのに。


篠宮の料理の腕は確かだった。


その腕前は東雲たくまのために磨かれたものだ。


彼に嫁いで三年間、彼の生活の一切を一手に引き受け、心も喜怒哀楽もすべて彼にかかっていた。


そして最後には自分自身を見失っていた。


今、彼女は自分のために生きたいと思っている。


東雲たくま以外に、誰かのために料理をしたことはなかった。


あまり親しくもない男性の家で今こうして料理をしているのに、不思議と抵抗は感じなかった。

冷蔵庫の食材は豊富で、気づけば作りすぎた。


五品のおかずとスープが食卓に並び、九条に「召し上がって」と声をかける篠宮の方が、まるで自分の妻のようだった。


「エプロン、お借りしたので、洗ってお返ししますね」

「では、お願いします。」


九条は断らなかった。


それもまた次に会う口実になる。


彼はあの手この手で彼女に近づき、慎重に痕跡を残さないようにしていた。


彼女をあまりにも気にしすぎるからこそ、リスクを冒せたくない。


失敗が怖かった。


こうして少しずつ彼女の生活に浸透し、彼女に慣れさせ、依存させ、知らずのうちに自分から離れられなくするしかなかった。

「お口に合うといいのですが」篠宮は自分の腕に自信があった。


九条が「美味しい」と言ってくれたので、彼女も嬉しかった。

二人はそれぞれの思いを胸に、静かに食事をした。


九条は幸せに浸っていた。


篠宮も気まずいかと思っていたが、九条の沈黙と穏やかな態度がかえって彼女をリラックスさせた。


彼らは同じような人間同士なのかもしれない。

九条はご飯を2回おかわりし、篠宮も1回おかわりした。


おかずはかなり残った。彼女は残り物をどうするか尋ねようか迷っていると、九条が先に口を開いた。


「冷蔵庫に入れておこう。夜、温めたらまだ食べられる」篠宮は嬉しそうにラップをかけて冷蔵庫にしまった。

彼女は自ら食器を片付け、洗い始めた。


九条は彼女の背中をじっと見つめ、その見つめる視線は熱を帯び、抑えきれない想いが今にも飛び出しそうだった。 


篠宮は、まるで背後に熱い視線を感じたかのように、振り返った――しかし、九条は手にした本に集中しているように見えた。  


彼女はほっとし、自分が過敏になっているのだと思った。


九条先輩が自分を好きなわけがない。

もし彼女がよく見れば、九条天闊が手にしていた本が逆さまになっていることに気づいただろう。

彼の手のひらは汗ばんでいた。


ほんの一秒でも反応が遅れていれば、あの熱い感情が丸裸にされてしまうところだった。

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