地下駐車場の薄暗い灯りの下で、ロールスロイス・ファントムのエンジンが一晩中低く唸っていた。
車内では、九条天闊と篠宮初音が互いに寄り添い、頭を重ねて眠りに落ちていた。
二人の間に流れる、珍しい安らぎの空気。
九条は初めて、篠宮を起こさないよう背筋を伸ばして座っていたが、夜も更けると疲れが押し寄せ、彼もついに目を閉じた。
気づけば、二人の頭は自然と寄り添っていた。
目を覚ました篠宮初音は一瞬、状況が飲み込めなかった。
見知らぬ車内。
そして、隣で一人の男性と頭と触れ合っていることに気づくと、すっかり目が覚めた。
彼女は素早く体を起こし、振り返る。
九条天闊だとわかると、ほっと息をついた。
その動きが九条を目覚めさせた。
顔を合わせた二人とも何となく少し気まずかった。
一瞬の沈黙の後、九条が沈黙を破った。
「昨夜、君がぐっすり眠っていたから、起こさなかった。自然に目が覚めるのを待っていたら、自分もつい寝してしまったんだ」
気づけば、夜は明けていた。
篠宮初音の最初の気まずさは、すぐに消えた。
礼を言うと、彼女はドアを開けて降りた。
何かを思い出し、振り返って助手席のドアを開けると、折り畳み式の車椅子を取り出した。
運転手はそこにいない。
足の不自由な九条を一人、車内に残すわけにはいかない。
「天闊先輩、お手伝いします」彼女は手を差し伸べた。
九条は一瞬戸惑ったが、その白く細い手を握った。
柔らかな感触。
電流が走るような衝撃が、触れ合った肌から心臓へと伝わり、思わず手に力を込めてしまった。
篠宮は握られる痛みを感じたが、声には出さず、九条を車椅子に移す手助けをした。
九条はまだ彼女の手を握りしめていたが、篠宮の表情がわずかに変わったのに気づき、ようやく手を離した。
そこには、篠宮の手首に、くっきりとした赤い痕が浮かんでいた。
「すまない、強く握りすぎたようだ」九条の声には謝罪の色が滲んでいた。「赤くなっている。大丈夫か?」
篠宮初音の肌は元々白くて柔らかく、少し力を入れただけでも跡が残りやすい。
「大丈夫です。心配いりません」
そう言うと、彼女は手を引いた。
楓ヶ丘アパートの自室に戻ると、篠宮初音はすぐにシャワーを浴びた。
さっぱりとした気分で、買い出しに出かける。
食材は二日に一度まとめて買うのが彼女の習慣だ。
早朝のスーパーは人でごった返していた。
彼女は野菜売り場と肉売り場を手馴れた様子で回り、手際よく品物を選んでいく。
慣れた手つきは、日常的に家事をこなしていることを物語っていた。
かつて東雲家にいた頃も、彼女は東雲たくまの生活を、細部までこうして世話していたのだ。
少し離れた場所で、年配の夫婦が篠宮初音をじっと見つめていた。
その二人は九条天闊の両親である。
九条夫妻は中年になってようやく妊娠した。ことのほか一人っ子の息子を溺愛していた。
九条は幼い頃から無口で、女友達はおろか、女の子と接することすらほとんどなかった。
両親は、息子が生涯独身で終わるのではないかと心配していた。
そんな不安が消えたのは、九条が大学三年生の時だった。
九条の母が、息子の枕の下から篠宮初音の証明写真を見つけたのだ。
端は擦り切れているところから、頻繁に触れられていたことがうかがえた。
息子に好きな子がいることを知った両親は、この上なく喜んだ。
しかしその後、息子はこの好きな子を救おうと火災現場に飛び込み、落ちてきた柱に足を潰され、二年間の昏睡状態に陥った。
目を覚ました時、彼は足の障害を負っていた。
そしてその好きな子は、すでに他人の妻となっていたのだった。
「あの娘さん、本当に良い子じゃないか。綺麗だし、働き者で、見るからに良妻賢母タイプだよ」
九条の母が声を潜めて夫に囁いた。
「ああ、確かに良い娘さんだ」
九条の父はため息をついた。
「だが、あの子がうちの天闊のことを好きでないなら、どうしようもないだろう?」
「だって、天闊は彼女を助けるためにそうなったので…どうして好きになれないんだ?」
九条の母は声を詰まらせ、思わず詰め寄ろうとした。
九条の父は慌てて彼女を引き止めた。
「落ち着け!天闊は余計な手出しをするなと言っている。余計な世話をして、逆に天闊に恨まれたらどうする?」
九条天闊は目を覚ましたら、篠宮初音が東雲たくまと結婚したことを知った。
それから、さらに無口になり、痩せ細っていった。
九条は初音の生活を邪魔せずに、密かに見守り続けていた。
その様子を九条夫妻は痛いほど理解していた。
今、篠宮初音が離婚した。
両親は再び希望を抱きながらも、息子がなかなか何もしない様子に胸を焦がし、またもやチャンスを逃すのではないかと気をもんでいた。
「何かせねば。まずはあの娘さんと知り合い、親しくなって、息子の手助けをしよう」
母はそう心に決めたのだった。
買い物袋を二つ抱えてスーパーを出た篠宮初音は、誰かに尾行される気配を感じ、振り返るとあの年配の夫婦の姿が目に入った。
お二人がどう声をかけようか迷っていると、篠宮初音が先に口を開いた。
「すみません、何かお困りですか?」
九条の母はすぐに夫の手を引いて近づいた。
「お嬢さん、楓ヶ丘アパートの場所をご存じませんか?息子がそこに住んでいますが、道に迷ってしまってな」
「すぐそこですよ」篠宮初音が方向を指さした。
「私もそちらに住んでおります。ご案内いたしましょうか」
「それはありがたいです!」母の顔がぱっと明るくなった。
道すがら、九条の母が探るように尋ねた。
「うちの息子は九条天闊というんだけど、お嬢さん、ご存じかな?」
篠宮初音は、九条の両親の年がかなり高いことに驚きつつも、「はい、存じ上げております。お向かいにお住まいですので」と答えた。
「あら、それはもう、奇遇ですね!」母は繰り返した。
三人は楓ヶ丘アパートのエントランスへと入った。
篠宮初音が鍵を取り出してドアを開ける一方、九条夫妻はドアの前で立ち尽くしていた。
どうやら鍵を持ち合わせていないようだ。
「天闊先輩にお電話なさいますか?」
「今はきっとお忙しいでしょう」母はすぐに言った。
「お嬢さん、せっかくだから、あなたのお部屋で少し待たせてもらえないでしょうか?お昼頃にまた電話をしてみるから。そうそう、お名前は?」
「篠宮初音と申します。どうぞ、お入りください。」
「初音さんですか。では、お邪魔します。」
九条の母は夫の手を引いて、にこにこと部屋に入った。篠宮初音が気づかない隙に、こっそりと夫に向かって小さなガッツポーズを見せたのだった。