九条グループ本社。
九条天闊が週例の会議を終えたのは、ちょうど昼の十二時だった。
秘書が手配した超一流シェフが作った食事は時間通りに届き、見た目も美しく、味も上々だった。
しかし、篠宮初音の手料理を味わってしまった今、こうした高級料理も何とも物足りないように感じた。
弁当の蓋を開けようとしたその時、母からの着信が入った。
両親が篠宮初音の家にいるという話を聞き、九条天闊はびっくりして、スマホを落としそうになった。
机の上の料理には一回も手をつけず、秘書に処分を命じると、すぐさま車で自宅へ向かった。
キッチンで、九条の母は篠宮初音が手際よく野菜を洗っている姿を眺めながら、ますます気に入っていた。
「初音ちゃん、手伝おうか?」
「一人で大丈夫です、お母さん」篠宮初音は優しく断った。
「そう、じゃあお願いね」母はキッチンを出て、父の隣に座り、声を潜めて言った。
「あの子、見れば見るほど素敵だなあと。綺麗だし、しっかり者だし、心も優しい」
父も頷く。
「ああ、俺たちも気に入ったし、天闊も惚れているし。問題は、彼女が天闊のことをどう思っているかだ」
「!愛は付き合っていく中育つものよ。お二人はご近所でチャンスはいくらでもある。今、私たちがすべきは、二人がもっと一緒に過ごせるいい機会を作ってやることだわ」
母がそう考えていた矢先、息子がもうすぐ到着する。
これがまさに「いい機会」だった。
チャイムが鳴った。
「きっと天闊だわ!」母はすぐさま立ち上がり、ドアへ向かった。
ドアの外に立つ九条天闊の表情は険しく、かすかに動揺しているようがが見えた。
両親が篠宮初音に余計なことを言っていないか、それが心配だった。
母は電話で状況を説明したが、彼は両親の真の目的を察していた。
ただ、余計な発言をしていなければいいと祈るしかなかった。
その時、ちょうど料理をテーブルに運び終えた篠宮初音の視線が、車椅子で入ってきた九条天闊と合った。
昨夜、車中で頭を寄せ合って眠ってしまった時の気まずさはすっかり消え、彼女は声をかけた。
「天闊先輩、お食事です」
「篠宮さん、ご迷惑をおかけしましてすみません」九条天闊が応じる。
「いいえ、天闊先輩にはいつもお世話になってばかりで…」
篠宮初音は食器を並べた。
「天闊先輩」と「篠宮さん」。
その呼び方に、九条母は距離感を感じた。
こんなに他人行儀じゃ、初音を落とすのはいつのことやら。
ただ、あまり意図が見え見えすぎて逆効果になる恐れがあると思って、天闊のやり方を理解した。
食卓で、九条の母は心から篠宮初音の料理を称賛した。
「初音ちゃん、人も綺麗だし、料理もこんなに上手くて、あなたの将来の夫は本当に幸せ者だわね!」
そう言いながら、こっそり天闊にウインクを送ったが、どうやら天闊はその意図を理解していないようだった。
また篠宮初音の手料理を食べられるなんて、九条天闊の胸には幸せでいっぱいだった。
まるで家族と一緒に昼食をしているような気分だった。
食事が終わり、母が片付けを手伝おうとしたが、篠宮初音に断られた。
「初音ちゃん、今日は本当にありがとうね」母が言った。
「今度は天闊に食事をご馳走させて」
篠宮初音が辞退しようとしたその時、九条天闊が口を開いて、「いいよ、ぜひ」と言った。
「そうしないと母が落ち着かないでしょうから」
「そうそう、落ち着かないわ」母はすぐさま同調した。
篠宮初音は食事のことで揉めたくなかったので、うなずいて同意した。
帰る途中で、九条の母はなおも初音のことを褒め続けた。
「天闊、まだ初音ちゃんに告白していないの?いつするつもりなの?」
「母さん、焦らなくていい」
「焦らなくていいわけないでしょ!」母は声を荒げた。
「頑張らないと、また誰かに取られたらどうするの?」
九条の母はすら後悔した。
もし自分の息子があの時、もっと早く告白していれば、今ごろ孫がいてもおかしくないんだけどなと。
九条の父も諭した。
「初音ちゃんみたいな良い子は、きっとすごくモテるよ。また取られてから泣いても遅いぞ」
九条天闊も今すぐにでも気持ちを伝えたいと思わないわけではなかった。
しかし彼は分かっていた。
そうすれば、篠宮初音に即座に距離を置かれ、引っ越しすらされることになるかも。
そうなると、彼は完全にチャンスを失うだろう。
初音の心は閉ざされていて、簡単に人を寄せ付けない。
彼は一歩一歩、慎重に彼女の生活に溶け込んでいくしかなかった。
失敗は許されない。
再び失敗するようなことなど、到底許せいないのだ。
そうなれば、彼は確実に正気を失うだろう。
「父さん、母さん、これは僕の問題だから口出ししないでくれ。分かってるよ。でも今日は、ありがとう」
九条天闊の口調は固かった。
自分の息子を見つめ、九条の母は胸に切ない感情が込み上げた。
息子は愛ゆえに命を落としかけ、それなのにその想いも、彼がしたことも、初音は何も知らない……
もし今回も失敗したら、息子の最良の結末は独り身で死を迎えること。
最悪の結末……彼女は考えるのも恐ろしかった。
両親を九条家の本邸へ送り届けた後、九条天闊は会社には戻らず、真っ直ぐに病院へ向かった。
彼の足は定期的な検査が必要で、最近は忙しくてつい疎かにしていた。
「九条様、脚部の神経が完全に壊死しているわけではありません。やはり手術をお勧めします」
医者の田中が検査結果を指し示しながら言った。
薬物とリハビリだけでは、九条天闊の足が回復することは不可能だった。
手術は唯一の希望だが、リスクは極めて高く、成功率は2割に満たない。
失敗すれば脚部の神経は完全に壊死し、二度と立ち上がることはできない。
それがこれまで九条天闊が躊躇していた理由だった。
しかし今、彼はもう躊躇している場合ではなかった。
立ち上がらなければならない。
手術をしなければ、永遠に歩けない。
手術をすれば、歩けるようになれるチャンスはある。
彼は賭けに出る決意をした。
かつて目を覚ました時、篠宮初音が東雲たくまと結婚したと知り、絶望の底に沈み、足が治るかどうかなんてどうでもよかった。
今、彼女は離婚した。
彼は切実に立ち上がりたいと願い、彼女を高く抱き上げたいと切望していた。
「分かりました。手術をお願いします」