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第30話

東雲たくまと紆余曲折を重ねてきた長い年月、篠宮初音は彼が涙を見せるのを一度も見たことがなかった。


かつて白石香澄が海外へ去った時も。


彼の父親が亡くなった時も。


一度も。


しかし今、この常に強気な男は、彼女の足元に跪いていて、涙が手から流れ落ちる血と混ざり合い、後悔と自責に苛まれている。


「初音…俺が悪かった…本当に悪かったな!」たくまは自らの頬を悔しそうに叩きつけた。


「白石香澄がお前を陥れたこと、全部わかったんだ!すまない…お前を信じなかった俺が悪かった!俺はクズだ!許してくれ…頼む…」


彼は自ら頬を打ち続け、許しを乞うていた。


その時、東雲明海が床から立ち上がると、駆け寄ってたくまの胸元を蹴った。


「東雲たくま!お前に許しを乞う資格があるとでも?本気で後悔しているなら、初音の前から消え失せろ!彼女の心の傷は、全部お前がつけたのだ!」


「東雲明海!許すかどうかは初音が決めることだ!余計な口出しはするな!」胸元の激痛と喉奥に広がる鉄の味に、たくまは呻いた。


反撃しようともがいて起き上がろうとしたが、篠宮初音がすでに二人の間に立ちはだかっていた。


彼女はたくまを見つめた。


その瞳は、恐ろしいほど静かだった。


その静けさがたくまを慌てさせた。


まるで彼女の目には、自分が完全に無関係の他人として映っているかのように。


彼が怒ろうが、悔いようが、彼女はもはや気にかけていない。


篠宮初音のこれからの言葉が、それを証明した。


「東雲さん、私はあなたのことを憎んだことは一度もありません。だから、許すということもないのです。ただお願いします、これ以上、私の生活に邪魔しないでください。」


憎んではいない。


ただ、心の中からたくまのことをきれいに消し去った。


東雲たくまは自分こそが非情な方だと思い込んでいたが、篠宮初音の方がよほど冷徹だとこの時初めて気づいた。。


彼女は誰かを愛する時には全身全霊で捧げるが、一度愛さなくなれば、相手を奈落の底へ突き落とす。


かつて彼に捧げた「心臓」は、踏みにじられ砕かれた。


今、彼女は二度と彼を愛することはない。


たくまはしゃがみ込み、喉の奥で獣のような嗚咽を漏らした。


彼が絶望に完全に飲み込まれた。


篠宮初音は彼の泣き声に一瞬たりとも迷って足を止めることはなかった。


ネオンの輝く夜は相変わらず美しいが、彼女の心は荒れ果てていた。


安全な場所に車を停めると、彼女は歩道橋へと進めた。


手すりを掴み、橋の下を疾走する車の川を見下ろす彼女の瞳は、深い迷いに覆われていた。


自分が何をすべきか、何を望んでいるのか、わからなかった。


無意識に手が、まだ平らな下腹部へと向かう。


かつてそこで育まれ、守り切れなかった命。


心を抉られるような痛みが全身を駆け抜け、手すりを掴む指が白くなるほど強く締まった。


飛び降りたら、どうなるだろう?


身体がわずかに前のめりになったその瞬間、彼女の手首が力強く掴まれた。


「初音!やめて!」


振り返ると、そこにいたのは九条天闊だった。


「九条先輩?どうしてここに?」


「近くで食事をしていて、君がここに立っているのを見かけたんだ」天闊は説明した。


初音の心に一瞬、疑念がよぎった。


本当に偶然なのか?彼女は九条の顔をまっすぐに見つめ、隙を探そうとしたが、何も見つからなかった。


「九条先輩…私のこと、好きなの?」


初音は、彼が咄嗟に呼んだ「初音」という名前を思い出した。


彼女の美しい顔が突然間近に迫り、天闊は息が詰まった。


視界が、彼女のふっくらとした真紅の唇へと落ちる。


彼女が話す度に、かすかな香りが彼の頬をかすめ、天闊は全てを顧みずにその唇を奪いたい衝動に駆られた……


「じゃあ、九条先輩は近くで食事なんかしていなくて、ずっと私を尾行していたんですね?」


事実はそうだった。


だが天闊は知っていた。


認めれば、永遠に彼女に近づく機会を失うと。


彼女の心の扉は閉ざされ、侵そうとする者を全て拒むだろう。


彼は目に渦巻く想いを必死で押し殺し、彼女の視線を率直に受け止めた。


彼が否定しようとしたその時、初音が先に口を開いた。


「ごめんなさい、九条先輩、冗談です。気にしないでください。」


彼の眼差しがあまりにも潔かったため、かえって自分が疑いすぎていたのかもしれないと思わせた。


多分、自分が過敏になっているだけなのか?


初音が遠くを見つめるために視線をそらした時、九条天闊の瞳に一瞬だけ激しい感情の波が走ったのを見逃した。


彼はまぶたを伏せ、もう初音を見ようとはしなかった。


「構わないよ、冗談なら」天闊は低い声で言った。


沈黙のなかで、橋の下を車が疾走する音とクラクションだけが響いた。


長い時間が経って、ようやく初音の声が再び響いた。


「九条先輩はさっき…私が飛び降りようとしていると思ったの?」


天闊は確かにそう思った。


初音は手すりから手を離し、体を向き直した。


彼女の顔には、かすかな微笑さえ浮かんでいた。


「私がそんなことするわけないでしょう?そんなみっともないこと、できるはずがないもの」


「ああ、わかっているよ」天闊は応じた。


奇妙なことに、あの「冗談」の後、篠宮初音の心を覆っていた暗雲は少しだけ晴れていた。


気持ちが少し軽くなると、空腹感が押し寄せてきた。


彼女はまだ夕食を取っていなかったのだ。


「九条先輩、前にご飯をおごるって言ってましたよね?今から行かない?」彼女は提案した。


「いいよ、何が食べたい?」天闊はすぐに承諾した。


ここはA大学から遠くない。


初音は学生時代によく通った焼き鳥屋を思い出した。


「A大学の近くにある焼き鳥の店、九条先輩知ってますか?」


九条天闊は知らないはずがない。


あそこが初音と東雲たくまがよく通っていた場所だ。


彼もまた、数えきれないほど店の隅に座り、切なくその二人を見つめていた。


ただ、当時の初音の目には東雲たくましか映っておらず、隅にいる天闊に全然気づかなかった。

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