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第31話

焼き鳥屋の女将が初音の顔を見るなり、明るく挨拶した。


九条天闊にも「あら、お久しぶりです」と。


「九条先輩、昔からよく来られてたんですか?」初音は意外そうだった。


九条天闊はうなずき、ティッシュを何枚か取り出して丁寧に椅子を拭いてから初音を座らせ、テーブルの角や隙間も丹念に拭いた。


初音は彼に潔癖症があると分かったが。


潔癖症の人が、どうしてこんなところによく焼き鳥を食べに来るんだろうと不思議に思った。


「私、大学時代よく来てたのに、一度も見かけなかったですよ」


見かけなかったわけじゃない。


ただ、あの頃の初音の目には、東雲たくましか映っていなかっただけだ。


九条天闊は目に浮かんだ寂しさを隠した。


「気づかなかっただけじゃないかな」


初音はそれ以上は詰めず、辛いものが食べられるか尋ねた。


九条天闊は「大丈夫」と答えた。


元々辛いものは苦手だったが、初音が辛い物好きだと知ってから、少しずつ挑戦するようになった。


最初は胃腸を壊して何度か病院に通ったこともあったが、次第に慣れてきた。


今は初音ほどではないが、普通の辛さなら平気だ。


初音は中辛を注文した。


客の少ない時間帯だったので、焼き鳥はすぐに運ばれてきた。


初音は一心に食べ、唇は辛さで鮮やかに赤く染まっていた。


天闊はあまり食べず、ほとんどの時間、彼女を静かに見守っていた。


気持ちが悟られはしないかと、視線を外した。


「しばらく、海外に行くんだ」突然、彼は言い出した。


手術が成功すれば、戻って来て真剣に彼女に交際を申し込むつもりだ。


もし失敗したら、彼女の前には二度と現れない。


役立たずが、彼女のそばに立つ資格などない。


だが、自分が持つすべて、命さえも、彼女のために残す。


憂い、決意、そして言い表せない切なさ。


初音は天闊の言葉に込められた複雑な感情を聞き取った。


彼女は顔を上げ、天闊の完璧な横顔を見た。


「九条先輩、何かあったんですか?」


彼が振り返り、まっすぐに初音を見つめた。


「いや、足の手術をするんだ。多分次に会う時には、君の前に立てるかもしれない」


「手術はきっと成功しますよ。その日を楽しみにしてます」初音の口調は確信に満ちていた。


天闊は微笑んだ。


「ああ、必ず」


一週間後、九条天闊はM国へと飛び立った。


篠宮初音は空港まで見送りには行かなかったが、LINEメッセージを一本送った。


『九条先輩、頑張ってください。手術はきっと成功します。先輩が私の前に立ってくれる日を楽しみにしています。』


送信したばかりの時、電話が来た。


東雲明海からだった。


あの日、想いを告げて断られて以来、彼から連絡もなければ姿も見せなかった。


初音はためらった。


彼を受け入れることはできない。


彼女の心がすでに死んでいるからだけでなく、彼が東雲たくまの従弟だからだ。


呼び出し音が一度切れ、また鳴り出したので、ようやく彼女は受話器を取った。


「初音!おじいちゃんが倒れたんだ!」


篠宮初音が聖心医科大学付属病院に駆けつけた時には、東雲宗一郎は既に手術室へと運ばれており、東雲家の人々が外で待っていた。


東雲たくまが初音を見て、駆け寄ってきた。


しかし初音は彼を無視するように、東雲明海に向かって歩いた。


「明海、おじいちゃんはどうしたの?」


「こっそり酒を飲んで、転んだんだ」明海が説明した。


電話では慌てていたので、初音はおじいちゃんが聖心医科大学付属病院に運ばれたことしか知らなかった。


東雲宗一郎は高血圧で、医者に酒を禁じられていた。


その朝、彼はこっそりかなりの量の酒を飲み、転倒して脳血管が破裂したのを、執事の中村が発見し、緊急搬送されて蘇生処置を受けていた。


医師はすでに危篤状態の報告を出していた。


東雲家の人々はそれぞれに思惑を抱いていた。


東雲宗一郎には三人の息子と二人の娘がいる。


故人となった長男・東雲宗佑、次男・東雲勇太、三男・東雲正男、長女・東雲遥、次女・東雲幸子。


おじいちゃんがもしこの世を去れば、遺産争いが必ず起こるだろう。


東雲家では「嵐」が訪れるに違いない。


おじいちゃんが危ない?


篠宮初音はよろめいた。


東雲たくまと東雲明海が同時に彼女を支えた。


「初音、大丈夫か? 少し座るか?」たくまが言った


「初音、こっちの席へ。安心しろ、おじいちゃんはきっと大丈夫だから」明海も言った。


篠宮初音は二人の手を同時に振り払い、よろめきながらベンチに腰を下ろした。


藤原院長を除けば、東雲宗一郎が彼女にとって最も身近な存在だった。


彼が去ってしまうなんて、想像もできなかった。


彼女は太ももをギュッと掴み、唇を真っ白になるまで噛みしめた。


たくまが近づこうとしたが、明海に手首を掴まれた。


「そっとしておいてやれ」


たくまは明海の手を振り払ったが、それ以上は進まなかった。


この一週間、彼は魂のない生け屍のように生活を送っていた。


おじいちゃんのことがなければ、今も酒に溺れて時間を潰していただろう。


昼時になり、東雲たくまと東雲明海を除く東雲家の人々は食事に出かけていた。


「初音、何か食べろ。君が倒れたら、おじいちゃんはどうするんだ?」たくまが言った。


「おじいちゃんが回復しても、あなたが体調を崩されたら、かえっておじいちゃんが心配するでしょう」明海も言った。


二人は珍しく意見が一致した。


初音が顔を上げると、視線が東雲たくまとぶつかった。


一週間会わないうちに、彼の頬はこけ、髭も伸び放題で、見る影もなく憔悴していた。


かつては深く鋭かったその眼差しは、今では輝きを失い、いつもの傲慢さは微塵もなかった。


初音の目に映る自分の変わりように動揺を覚えたのか、たくまは慌てて背を向けた。


「初音……すまない……俺のこの姿……みっともないだろう……」

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