遠いM国、VIP特別室で、窓から差し込む光が九条天闊の冷峻で完璧な横顔を浮かび上がらせていた。
車椅子に座り、スマートフォンを握り締める彼の視線は、篠宮初音が搭乗前に送ったLINEのメッセージに釘付けになっていた。
たった数日会わないだけで、この胸を押しつぶすような切ない思い。
彼女の声を聞き、顔を見て、抱きしめ、理性を捨ててキスしたいとまで思う。
トップに固定した連絡先をタップし発信ボタンを押すが、通話が繋がった瞬間に慌てて切ってしまう。
病室のドアが開き、看護士流暢な英語で告げた。
「九条様、検査の時間です」
手術前の最終全身検査。
全ての数値が基準値内であれば、手術に進める。
一方、南城の特別介護室では、篠宮初音が東雲宗一郎の手足をマッサージしていると、突然携帯が鳴った。
九条天闊からの着信表示に数秒固まり、受話ボタンを押した瞬間、通話は切れていた。
ほんの一瞬の躊躇もなく折り返し電話をかけるが、相手はすでに電源オフ。
不思議に思いつつも深く考えず、再びリハビリの手伝いに集中した。
東雲宗一郎は一命を取り留めたものの、左半身不随となり言語機能も失い、左手左足に感覚がなくなっていた。
長期のリハビリが必要な状態だ。
篠宮初音は朝早くから夜遅くまで付き添い、訓練をサポートしていた。
楓ヶ丘アパートに戻ると、無意識に九条天闊の部屋のドアへ視線が向く。
あの不可解な電話が気にかかっていた。
彼の体調はどうなのだろう。
ナイトフォールでの仕事は辞めたが、夜の配信は続けていた。
ここ数日、「スイートハートガーディアン」の姿はなく、代わりに「スイート大好き」が毎日現れていた。
【スイートハートガーディアン様最近見ないですね?】
【他の配信者に移籍したんですか?】
【絶対違う!スイートハートガーディアン様はシエネさん一筋だよ!】
【きっと用事があるんだよ。大丈夫、スイート大好き様がいるから!】
【ところでS.T.様、数千万円投げて消えたよね。やっぱり本命じゃなかったか】
東雲たくまは消えたわけではない。
正体がバレたためメインアカウントでの視聴をやめ、サブアカウントに切り替えていた。
再び気づかれるのを恐れ、スパチャもせず、ただ陰のように毎晩配信を待ち、画面越しに彼女を貪るように見つめていた。
2時間の配信を終えた篠宮初音はぐったり。
浴槽に浸かり布団に入るが、疲れた体とは裏腹に頭は冴えていた。
九条天闊のあの電話がまた頭をよぎり、気になって再度ダイヤルした。
今度は電源が入っており、まるで待ち構えていたかのように即座に通話が繋がる。
しかし相手は沈黙したまま。
九条天闊は篠宮初音からの着信を見て呼吸を止めた。
「九条先輩、さっき電話くれましたよね?」
彼女の声が先に割って入る
耳に押し当てたスマホから聞こえる甘い声に、ようやく正気を取り戻す。
「ああ…誤操作だった」
そうか。
篠宮初音はほっと胸を撫で下ろす。
少し間を置いてから再び尋ねた。
「九条先輩、そちらの様子は?手術の日は決まりましたか?」
M国では夜明けが訪れたばかりだった。
九条天闊は昇り始めた太陽を見やり、眉の皺を解く。
「全身検査を終えた。結果待ちだ。問題なければ3日後に手術」一呼吸置いて、「君は…大丈夫か?」
篠宮初音の返事は遅れた。
東雲宗一郎の半身不随は彼女の心に重くのしかかり、息もできないほどだった。
だが彼女は孤独に耐えることに慣れていた。
おじいちゃんは生きている。生きていれば希望はある。そうだろう?
「大丈夫です」
「一人で抱え込むな。疲れる」
九条天闊の声は低く響いた。
珍しく篠宮初音が微笑む。
電話を切る直前、彼の囁くような「おやすみ」が聞こえた。
通話を終えた九条天闊は、篠宮初音が着用していたエプロンを取り出した。
洗濯済みで彼女の香りは消え、洗剤の匂いだけが残っている。
エプロンを頬に当てると、微かな香りが鼻腔をくすぐり、渇望を少しだけ満たしてくれた…
翌朝、篠宮初音は早起きして鶏そぼろ粥を炊いた。
東雲宗一郎は現在流動食しか摂れないため、毎日手作りの粥を持参していた。
おじいちゃんは気力に満ち、前向きな姿勢を見せており、それが篠宮初音の心を軽くしていた。
保温容器を提げ特別室に入ると、明るく声をかける。
「おじいちゃん、朝ごはんよ」
蓋を開けると鶏そぼろ粥の芳醇な香りが広がる。
東雲宗一郎は無事な右手でスプーンを握り、ゆっくりと口に運んだ。
口が完全に開かないため、食事には時間がかかる。
初期のリハビリは単純なものだ。
動く右手で麻痺した左手を動かす訓練。
可能な限り口を開き、声を出す練習。
数日続けたある日、篠宮初音は嬉しい発見をした。
「おじいちゃん!左手の指が動きましたね!?」
東雲宗一郎も自覚していたようで、「ああ!」と興奮した声を上げる。
付き添いの中村執事も喜びに満ちていた。
「篠宮様、これは吉兆です!東雲様はきっと回復されます!」
希望の光が見え始めると、篠宮初音の脳裏に再び九条天闊の姿が浮かんだ。
彼も…きっと良くなる。