東雲宗一郎の事故後、東雲たくまは迅速に東雲財閥の実権を奪還した。
社長職は正式に解任されたわけではなく、これまで東雲宗一郎が療養を理由に東雲明海に一時的に代行させていたに過ぎない。
今やたくまが「回復」した以上、東雲明海は当然ながらその座を譲らざるを得なかった。
東雲たくまは長年東雲財閥を運営し、その基盤は東雲明海が太刀打ちできるものではなかった。
復帰初日、東雲たくまは長時間にわたる重役会議を招集した。
総務補佐に直近の全プロジェクト資料を整理させ、一つひとつ目を通す。
連日、深夜まで残業し、激務で自分を麻痺させ、篠宮初音のことを考えないようにしていた。
しかし、ひとたび手が空くと、狂おしいほどの思いが押し寄せてくる。
東雲家の本邸で彼女の生活の痕跡を必死に探すが、初音がまるで最初からここに住んでいなかったかのように、一切が消え去っていた。
不眠が再び襲う。
ベッドの縁に背を預け、冷たい床に座り、夜明けまで動かない。
出張が迫っていた。
東雲財閥が青森県に開発したリゾート事業で、地元住民との民事トラブルが発生。
現場にいるプロジェクトマネージャーでは解決できず、事態が悪化し、法的措置が必要となった。
総責任者である彼自らが赴く必要があった。
順調なら2、3日。
もし問題がこじれれば、10日以上、場合によってはそれ以上かかるかもしれない。
出発前、東雲たくまは聖心医科大学付属病院を訪れた。
表向きはおじいちゃんの見舞いだが、本当の目的は篠宮初音に会うためだ。
特別室では、東雲宗一郎が動く右手を使って、左手のひらに載せたピンポン玉を握ろうとしていた。
左指はかすかに動くものの、力が入らず、つるりとした球体は何度も転がり落ちる。
篠宮初音は彼が挫けないよう、そばで励ましていた。
「おじいちゃん、焦らなくていいんです。何度も練習すれば、きっとうまくいきますよ」
再び球を手のひらに載せるが、数秒でまた転がり落ちた。
篠宮初音が腰を折って拾おうとすると、球はピカピカの革靴の前で止まった。
東雲たくまが先に球を拾い上げた。
彼を見た瞬間、篠宮初音は思わず眉をひそめた。
「……怒らないで」東雲たくまは慎重に球を差し出した。
「おじいちゃんに会いに来ただけだ」
篠宮初音が受け取ろうとしたその時、東雲たくまは突然彼女の手首を掴み、強引に自分の胸へと引き寄せた!
中村執事はすぐに顔を背け、見ていないふりをした。
東雲宗一郎は力なく、「ああ!」と焦りの声を上げるしかなかった。
「東雲たくま!離しなさい!」篠宮初音がもがいても、彼の腕は微動だにせず、むしろさらに強く抱き締められた。
「初音……動かないで……少しだけ、抱かせて……」
東雲たくまの声はかすれていた。
「青森に行く……しばらく会えなくなる……お前が恋しい……お前がどれだけ恋しいか、わかってるのか……」
以前なら、出張の報告すらせず、まして「恋しい」などと言うはずがなかった。
かつての初音はたくまの温もりをどれほど願ったことか。
今や、彼の卑屈な姿はただただ彼女をいらだたせるだけだった。
愛している時と、愛していない時、その差は天と地の差ほどもあった。
東雲たくまの懇願にも、篠宮初音は抵抗をやめなかった。
彼女は足を振り上げ、彼の急所を蹴った!全力ではないが、それでも十分に痛い。
男のあの部分はどれほど脆いか、たとえ手加減していても、激痛が走るには十分だった。
東雲たくまは痛みに息を呑み、冷や汗を浮かべたが、それでも彼女を離さない!
篠宮初音は呆然とした。
東雲宗一郎も同じだった。
たくまが本当に後悔していることはわかる。
しかし……
人は、永遠に同じ場所で待ち続けてはくれない。
壊れた心は、愛が消えた後、どんなに悔やんでも元には戻らない。
どれほどの時間が経っただろうか。
東雲たくまは自ら手を離した。
彼は彼女の額にキスをしようとしたが、彼女は顔を背け、唇は柔らかな髪をかすめただけだった。
「初音、待ってくれ……今度は、俺がお前を愛してみせる」
愛されなくてもいい。
もう一度、愛させればいい。
東雲たくまは去った。
三日後、たくまの母親が篠宮初音の前に現れた。
かつての高慢な面影はなく、目は泣き腫らしていた。
「初音……お母さんがお願いする……たくまを助けて……!」
篠宮初音は眉をひそめ、彼女の接近に不快感を覚えた。
「東雲様は……どうなされたのですか?」
「車が制御不能になって……崖から転落したの! ひどいけがで……手術を拒んで、お前さんに会うと言って聞かない! お母さんが頼む……会ってやってくれないか!?」
篠宮初音にとって、これは幼稚極まる行為に映った。
もし本当に重傷なら、手術を拒むはずがない。
「私は医者ではありません。行ったところで何もできません」
たくまの母親は信じられないという表情で彼女を見つめ、ぐいと押した。
「そんな酷いことが言えるのか! たくまが過去に間違いを犯したとしても、命まで奪おうとするなんて!」
これはもう道徳的な脅迫だった。
まるで東雲たくまに何かあれば、全て初音の責任であるかのように。
東雲宗一郎も当然、孫のことを気にかけていた。
たくまの母親の言葉を聞き、言葉は出せないが「ああ!」と焦りの声を上げる。
篠宮初音は東雲たくまのことなどどうでもよかった。
だが、東雲宗一郎の心配を無視することはできなかった。
彼女は病床に近づき、おじいちゃんの訴えるような視線をしっかりと受け止め、静かに言った。
「おじいちゃん、心配しないで。私が見てきます」
おじいちゃんは目に涙を浮かべ、こっくりと頷いた。
「ありがとう」と言っているようだった。
実際の東雲たくまの傷は、それほど深刻ではなかった。
篠宮初音に会いたいがために、重傷を装い、「彼女に会えなければ手術を受けない」と騒いでいただけだ。
たくまの母親は真相を知らず、息子の命のために必死だった。
その日、篠宮初音はたくまの母親と共に青森へ飛んだ。
病室で「全身血だらけ」で横たわる東雲たくまを見た母親は、その場で卒倒しそうになった。